1-2-10.四月二十二日①

 今日は一紀かずきくんと国立科学博物館に遊びに行く日。最初は現地集合を提案されたが、たぶん同じ電車に乗っていくよね? と言うと、待ち合わせ場所が変更になった。

 変更になった場所は、わたしの家の最寄り駅である国府こくぶ中央ちゅうおう駅。そこにやってくる船迫ふなさこ方面からの電車の、十号車の手前から二番目のドアだった。


 指定時間通りにホームに電車が入ってくると、席は空いているのにわざわざドア近くのポール際に立っている青年が、ドア越しに見えた。今日は張り切っているのか、ちゃんと髪もセットしてきていて、水色と白のレイヤーシャツに、下はダボっとしたオーバーサイズのグレーのパンツと、この時期にしては暑くなる予報に合わせて通気性のいいものを選んできたようだ。

 彼はわたしを見つけるなり笑みを見せて、ドアが開く前から待ちわびるようにこちらを見つめていた。


「おはよう、一紀くん」


 ドアが開いて電車に乗り込むと、一紀くんは一層 頬を緩ませる。


「おはようございます、志絵莉しえりさん。今日も可愛いですね」


 今日のわたしは、アイボリーのタイトなシャツに、ふんわりした薄手の白いギャザーブラウスを重ねて、下はタイトな黒のパンツ。髪は外巻きにして、今日はメイクにもラメが入ったものを使い、身に付けているアクセサリーも多い。太陽の下に出れば、陽光を反射してところどころキラキラとわたしを輝かせてくれるだろう。さらにいつもと違うのは、紺縁の伊達メガネも掛けている。


「ありがとう。座らないの?」


「志絵莉さんが来たら座ろうと思ってたので」


 わたしたちが乗ったのは急行だったが、休日の朝早くということもあり、さほど混んではいない。座ろうと思えばどこの席にだって座れるほどの余裕があった。それなのに、わざわざ立って待っていてくれたのか。別にいいのに。


「それより、志絵莉さんっていつもはコンタクトだったんですか?」


 早速メガネに突っ込んでくれた。これは彼の好みを探るために用意したもので、サングラスにもなるが、彼が好かないと言うなら外してもいいかなと思っていた。


「ううん、これ伊達メガネだから。度入ってないよ」


「え、何で度入ってないの掛けるんですか?」


「ほら、なんか、理系っぽくない?」


 そう答えると、真顔で冷静に返される。ボケた人に対して一番残酷な仕打ちだ。せめて呆れてくれた方がまだ救われる。


「……志絵莉さんって、時々すごくバカですよね」


 翠泉の首席を前にしてバカとは、随分な言われようだ。わたしだって、あらゆる物事に対して論理的に頭を巡らせているわけではない。そんなことをしていれば、すぐに燃料切れを起こしてしまう。それをバカとは……彼らしい。


「酷いこと言うね……。あんまり似合ってない? それとも好みじゃない?」


「似合っているかはともかく、俺はいつもの志絵莉さんの方が好きです」


 どうやら彼はメガネ女子は好みではないらしい。覚えておこう。


「じゃあ、いつもの志絵莉さんになるよ」


 伊達メガネを外してメガネケースにしまい、にっと笑顔を作ってみせる。


「はい、これでどう?」


「いつもの志絵莉さんですね」


 せっかく彼の希望に合わせてメガネを外したのに、そんな端的な感想で済まされてしまった。


「……他に何か言うことないの?」


 わざとらしく頬を膨らませてみせると、渋々と言ったように彼は口を開く。とんだ茶番だ。だけれどこんな馬鹿馬鹿しいやり取りが心地良い。最近は頭を使うことが多いから、少しでも気を緩められるこの時間が愛おしく思えた。


「……いつも通り、最高に可愛いです」


「よろしい。一紀くんは科博行ったことあるの?」


 わたしが平常運転に戻ったところで、彼も同様にいつもの調子に戻る。


「子供の頃、何度か行ったことがありますけど、ここ数年はないですね」 


「何度か行ったことあるんだ。いいなぁ。一紀くんは理系なの?」


 以前に彼のことを調べ上げた際に知っていたことだが、あえて聞く。まだ彼の口からは聞いたことのない情報だったから、わたしの方から話題に出すわけにはいかなかった。何故知っているか、言い訳を考えるのもまた面倒くさいから、こうしてどこかのタイミングで彼から聞き出しておこうと思っていた。


「いえ、普通に文系です。学部も人文ですし。志絵莉さんは……謎ですよね」


「あれ、そうなんだ。てっきり理系なんだと思ってた。わたしも一応、学部は人文だよ。でも受験の時、国立と同じで五科七科目必要だったからキツかったよ……」


「さすが翠泉すいせんですね……。俺は文系ですけど理科は好きで。受験でも社会科は苦手だったんで、国英理で受けました」


「一紀くんって、中学とか高校の時はどんな生徒だったの? 部活とか何かやってた?」


 部活についても知っていたけれど、どちらかというと彼の学校生活について知りたかった。前に調べてもらった報告書によれば、彼は怪我をしても自覚していないことが多かったという。その異常さを自身で認識しているのかどうか。それと、高校の時にあったというストーカー行為。これも本人はどう捉えているのか気になる。


「部活は何もやってませんでした。あんまり周りと馴染めないというか、友達も多い方じゃなかったんで。かと言って、勉強ができるわけでもなくて。自分で言うのもなんですけど、本当に取柄もない、無味乾燥な学生生活でしたよ」


「そんな寂しいこと言わないで、何か自分でもこれは良かったなとか、誰にも気付かれてないけど、実はこういうことを頑張ったとか、ないの? それか、こういう失敗をしちゃった、こんな大変なことがあったとか。失敗したことでも、今は笑い話できれば、少し気が楽になることもあるんじゃない?」


「そうですね……うーん……。あ、そう言えば、中学の時に遠足で科博と動物園に行ったことがあるんですよ。その時に、ひったくりを捕まえたことがあります。でもその時、どこかでぶつけたんだかわからないんですけど、帰ってから足が痛いなと思ったら骨折してたってことがありました」


 それは……実に一紀くんらしいエピソードだ。骨折していても気付かなかったのか。しかも、骨折した理由に心当たりがないなんて。単にドジ……ということでは済まされないだろう。視野が狭いのと、痛覚が鈍いのだろうか。

 それにしても、ひったくり犯を捕まえたのは立派だ。彼はあまり運動は得意ではないのかと思っていたが、ひったくり犯を追いかけて捕まえられるくらいには、足もあって頭も回るらしい。


「すごいじゃん! 一紀くんは目の前でひったくりを目撃したら、捕まえようって思う人なんだね。立派だと思う。充分いいエピソード持ってるじゃない」


「ありがとうございます。……志絵莉さん、今日はなんか、テンション高いですね。機嫌良いんですか?」


「そりゃあそうだよ。今日すっごい楽しみにしてたんだから。タカちゃんにもお礼言っておいてね。あ、自分で言いに行こうかな。また遊びに行って」


「いや、俺から言っておきます。っていうか、やめてくださいよ、人の父親をあだ名で呼ぶの」


 初対面であんなにインパクトのある自己紹介されたら、嫌でも頭に残るって。自らタカちゃんと名乗ったということは、息子の彼女からタカちゃんと呼ばれたかったんだろうか。面白過ぎる。


 そんなことを話していたら、乗り換える駅に着いた。別の電車に乗り換えて数駅で目的地にたどり着く。行くにはなかなか足が向かないけれど、いざ行ってみると意外と遠くもなくすんなり着いた。


 駅を出ると、まだ四月だと言うのに燦々と照り付ける日差しが眩しく、人も多くて想像以上に熱気がある。ゴールデンウィーク前で、特別何かがある時期ではないが、土日はやはりそれなりに人が多い。はぐれるような人混みではないけれど、わたしは彼の手を取って、案内してくれるように促した。


「わたし、ここ初めてだから。今日はエスコートよろしくね」


「任せてください」


 館内に入っても、わたしはどこから見ていいかわからず、一紀くんに手を引かれるままに展示室を回っていった。

 今日だけは一旦全てを忘れて、素直な気持ちで目の前の展示を楽しもうと思っていた。童心に帰ったように、ただ好奇心の向くままに。一紀くんも、そんなわたしに呆れずに付き合ってくれる。


「本当、意外でした。化石や剥製なんて、興味ないと思ってましたし」


「わたしはむしろ、一紀くんの方が意外だったよ。わたしに解説できるくらい、よく知ってるじゃん」


「俺は何度か来てますし、元々こういうのに興味もありましたから」


 わたしの嗜好が女の子っぽくないのはわかっている。デートと言ったら、おしゃれなカフェに行ってみたり、遊園地に行ってみたり、ショッピングを楽しんだりするものだろう。彼もそんなデートをしたかったなら申し訳ないが、わたしはそんなところに興味はないから、できれば自分が楽しめそうなところに行きたかった。それで彼も一緒に楽しんでくれたならいいなと思っていた。


「志絵莉さん、ちょっと来てください」


 日本館を見て回り、地球館の展示室に入ろうという時だった。突然、一紀くんがわたしの手を取ったまま早足でどこかへ向かう。展示物の物陰に隠れるようにして、誰かの様子を窺っているようだった。


「どうしたの?」


 小声で聞くと、一紀くんも小声で答えてくれる。


「あのお姉さんです。前に言った、お姉さんによく似たお姉さん。この間見かけた人です。間違いない」


 夢心地から急に現実に引き戻された気がして、眩暈すら起こしてしまいそうだった。まさかこんなところで、警察が追っている重要参考人に出くわすなんて。

 特徴は、二十代女性、身長は160センチ前後、口元にほくろ。それから、わたしとよく似た顔立ち。口元のほくろはここからではわからないが、他は一致するように思える。というより、確かに現実として出会ってみると、ここまでわたしと顔立ちが似ている人間がいるというのが驚きだ。自分のそっくりさんは世界に何人だかいるというのは聞いたことがあるが、こんな巡り逢えるところにいるとは思わなかった。


「本当に、間違いないんだね? 女は化粧とか髪型で、だいぶ印象変わるけど」


「間違いないです。この顔が化粧や髪形でどんな風に変わるか、俺は散々見せてもらいましたから」


 なんて言いながら、一紀くんはわたしの頬にちょんと指を立てる。彼の好みを探るためとは言え、会うたびにがらりと雰囲気を変えていた成果が思いがけずあったようだ。

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