1-1-17.四月十六日⑤
しばらくしてお母様がわたしたちを呼びに部屋にやってきた。夕食の準備ができたらしい。
「遠慮せずたくさん食べていってね」
お母様に席に着くよう促されるので、その前にお父様に挨拶をしておこうと、既に席に着いていたお父様の元へ寄っていった。
「はい、ありがとうございます。あ、初めまして、お父様。
「こちらこそ、一紀がお世話になってます。ご丁寧にどうも。私、タカちゃんと申します」
初対面でそんなお茶目な自己紹介をされて苦笑いしかけたところを、お母様がフォローしてくれた。
「あんた、やめなさいよ。志絵莉ちゃん、困ってるじゃない」
四人掛けのダイニングテーブルに、
「いただきます」
真っ先にサラダに手を付けるわたしに、一紀くんはわざとらしく言う。
「志絵莉さん、から揚げ美味しいですよ、食べてみてください。冷めないうちにぜひ」
わたしが猫舌だと知っていて、あえての発言だ。どうやらご両親の前で、どうにかしてわたしの化けの皮を剥がしたいらしい。普段わたしが彼に意地悪しているから、その仕返しのつもりなのだろうか。
「へぇ、そうなんだ。もちろんいただくね。でも色々食べてみたいから、順番に」
「あ、そうか。志絵莉さん、猫舌でしたね。俺が冷ましてあげますから、どうぞ」
と、少しばかりふぅふぅしただけのから揚げを、わたしに差し出してくる。その程度で食べられるほど冷めたわけないでしょう。猫舌を舐めるのも大概にしてもらいたい。絶対熱いに決まってる。しかもこの構え、わたしにあーんさせる気だ。ご両親の前で、恥ずかし気もなく。
しかし、彼の作戦は見事だ。これでわたしがから揚げを拒めば不審がられてしまう。特にお母様には、さっき一紀くんとの距離感の近さを見せてしまった後だから、このあーんを拒否するのは悪手だ。そもそも友達付き合いすらろくにできないような息子が、大学生になって数週間程度でできた初めての彼女を早々に家に呼んできたのだ。しかも相手はお嬢様校の年上ときた。いくら何でも、何の警戒もされていないはずはない。
から揚げが実は苦手と言う手もあるが、苦手なものはないと言ってしまったし、作ってくれたお母様にも悪い。恥ずかしいから、という理由であーんを拒むことはできても、結局から揚げを食べなければ、やはりそれは不審に思われる。はっきり言って、今この一瞬で考え得る限りでは対抗策は思い付かなかった。詰んだのだ。
わたしは意を決して、一紀くんが差し出すから揚げの半分くらいに噛り付いて、すぐにちょっとだけ口を離す。――熱い。噛めない。でもここで退くわけにはいかない。もう勢いでどうにかするしかない。
もう一度噛んで、熱々の肉汁とともに肉の塊が口の中に入る。口元を手で覆いながら、噛むのと熱を逃がすのを同時に行う。いや、無理、熱い……!
「あれ、まだ熱かったですか?」
一紀くんが白々しく聞いてくる。しかも彼の箸に残ったわたしが半分齧り取ったから揚げを、ほいと自分の口に放り込み、美味しそうに咀嚼している。その様子をまざまざと見せつけられると、彼の言葉はまるで“こんなのが熱いんですか?”と煽っているようにも感じられる。
ムカついたので、わたしは机の下で彼の脇をつねってやった。でもわたしも一紀くんも、ご両親にはそんな様子を気取られないように表情を繕う。
「美味しい、です……!」
「良かったわ~! お口に合って。これが一紀がずっと口にしてきた味だから、志絵莉ちゃんには知っておいてもらって損はないと思って!」
それはさすがに気が早いだろう。というよりこのお母様、わたしのことは警戒していないのだろうか。むしろお母様の方から、わたしを逃がさないと言わんばかりに距離を詰めてくる。
「そういえば、志絵莉さんって料理とかするんですか?」
すっかりいつも通りの調子に戻った一紀くんは、思い付いたように聞いてきた。今度はもう、わたしにボロを出させるつもりはないらしい。
「毎日じゃないけれど、するはするよ。実家にいた時はわたしが作ってたから」
「あら、すごいじゃない! 料理はお母さんに教わってたの?」
お母様のその問いに、一紀くんは申し訳なさそうな顔でこちらを見た。こんなの慣れているからどうってことはないのに。せっかくだし、ここでわたしの家族の話をして、その流れで一紀くんの家族の話から“あにまる保育園”の話に繋げようか。
「実はわたし、お母さんがいなくて……父子家庭なんです」
「そうだったの……ごめんなさいね、無神経に聞いちゃって」
お母様も申し訳なさそうな顔をして謝ってくれた。一紀くんのそれによく似ている。やはり親子なんだな。
「一紀、この子はきっとお父様の大事な宝物なんだから、絶対幸せにするんだぞ」
お父様も気が早く、大真面目な顔でそんなことを言い出した。何かもう結婚するみたいな空気なんですけど。全然結婚とかしないんですけど。一紀くんも、そんな大げさな、と苦笑いしている。
「いやな、もちろん一番大事なのは奥さんだ。父親である前に、一人の男だからな。だけど奥さんがいないとなれば、娘が一番大事な存在になるのさ。最愛の奥さんがいなくなって、娘まで自分の元からいなくなって、しかもどこの馬の骨とも知れない男のものになるとなれば、さぞつらいだろう。奥さんがいれば、まだ違ったとは思うけれどな……」
お父様には悪いが、恐らくお父さんはそれほど深くわたしを愛してなどいない。多少なりとも愛を持ってはいるだろう。だけれどかけがえのない存在、とまでは思っていないのだと思う。ずっと何かを追い求めて、探して、縋っている。それはわたしじゃない。
しかしお父様の言葉で、今まではまるで理解できなかったお父さんの心が、少しだけ理解できた気がした。やはりお父さんは今でも、お母さんを愛しているのだろう。娘のわたしよりも。お父さんが追い求めている存在こそ、最愛の人なのだろう。
娘よりも妻を優先したのなら、母親のことを話さないという娘にとって何の利にもならない行動を取った理由がそれになるのだろうか。お母さんのことを話してくれない理由は、お父さん側の問題じゃなくて、お母さんそのものにあるということだ。お母さんが、自分のことは娘に話してはならないと言ったなら、お父さんはその通りにしてしまうかもしれない。
そうだとして、問題は何故お母さんを愛していると娘に母の話ができないのか、だ。それを解消しないと、このまま一生話してもらえないだろう。
「でも、志絵莉さんはもう一人暮らししてるんでしょ? もうお父さんのところからいなくなっちゃってるんじゃ……」
「……そういうことじゃないんだ、一紀。お前もそのうちわかる」
一紀くんがそれを理解するのはまだ先になるだろう。やはり彼は、根本的に“愛”に関する部分が欠けている。愛がないとは言わないが、それが愛であると、理解できないのだろう。
自分の中にある概念に名前を付けて、枠組みを作っていないから、その形はいくらも変わってしまい、定まらない。愛というフィルターを持たない彼の言動は、無邪気な子供のように、時には人を救い、時には人を殺す。そんな自覚もなく。
「志絵莉ちゃん、一人暮らししてるのね~。大変な時は、いつでも頼ってくれていいからね。おばちゃんにできることは何でも手伝ってあげるから」
「ありがとうございます。でも一年過ごしてみて、だいぶ慣れました。もし大変な時は、一紀くんをお借りすることにしますね」
「ええ、ええ。もう存分に使ってあげて! あんまり気が利かないかもしれないけど、思いやりはある子だから」
お母様からの評価では、一紀くんは思いやりのある子なのか。タカちゃんの方が、一紀くんの本質を理解しているような気がする。お母様は専業主婦のようだし、一緒にいる時間はお母様の方が長いはずなのに。
すると、お父様が少しぶっきらぼうな口調で尋ねてくる。
「実家は遠いのかい? 受験で?」
「はい。実家は
「そうだね。実は私たち、中学の同級生なんだよ。それがいつの間にか、こんなに大きな息子ができちゃって。彼女まで連れてきたもんだから、時間が経つのは早いねぇ」
なんて、お父様は惚気混じりに話す。本題に入る前のこうした無駄話の中にも、何かヒントになるものがあるかもしれないと思って聞いてはいたが、正直しんどいな。情報量が多すぎる。全部を気にしていたらキリがない。
「小学生の……あれいつだったっけ、引越しもしたけど、結局 船迫から出なかったよね。よっぽどこの町が気に入ってたの?」
一紀くんが懐かしそうに言うと、お母さんも思い出を噛みしめているように温かい眼差しを彼に向けた。
「三年生の時だね。まあ、馴染みのある町だしねぇ」
小学三年生の時期に引越し、か。しかも同じ町の中で。転校はしなかったのだろう。転校が目的の引越しなら、町から出ていくはずだ。住居に何か問題があったか、近隣とのトラブルか。考えすぎないようにはしたいけれど、気には留めておこう。
「わたしも結局
「あれ、志絵莉さん、高校は都立じゃなかったっけ?」
「そうだよ。中学が翠泉の付属中だったんだ。その頃はさすがにまだ受験には興味がなかったんだけど、お父さんの強い薦めで受験したんだ。でも高校はお父さんの母校に行きたかったから、その後の大学はどうしようかと思っていたら、気付いたらまた翠泉に入ってた、という感じかな」
あの時のお父さんは珍しく積極的で、乗り気じゃないわたしを説得してでも受験させた。どうしても、わたしに翠泉に入ってほしかったらしい。その割に、高校は翠泉に行かないって言った時は、特に反対もされなかった。翠泉の付属中から
「一紀くんは、“あにまる保育園”の後はずっと公立? あ、大学は私立か」
「うん。小中高と船迫から出てないよ。あ、大学もね」
ようやっと“あにまる保育園”の話題が出たことに、一紀くんからも思わず微笑みが漏れる。この晩餐会におけるわたしの目的を知っている彼からすると、ごく自然的に、ようやくこの話題までたどり着いたことに驚嘆すらしているようだった。
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