1-1-15.四月十六日③

 慌ててわたしから離れようとする一紀かずきくんの頭を押さえて、彼には何も言わせず、わたしはにこやかにお母様に返した。


「ご心配には及びません。これは単に、甘えてくれているだけですから。お母様の目を盗んでふしだらな真似をするような子ではないはずですよ、ね?」


 と、わたしの腕の中の一紀くんに視線を落とすと、彼は無言のままこくこくと頷いた。わたしはそれを褒めるように、優しく彼の頭を撫でてあげる。

 それを見て、お母様は尚のこと頬を緩め、そのまま立ち話を始めた。


「まあ、ごめんなさいねぇ、こんな甘えん坊な子でぇ。この子、年上のお姉さん好きなのよぉ。あ、そうだ! ね、お夕飯食べていくわよねぇ? ちょうどその買い物だから、苦手なものとかないかしら?」


 次から次へと話題が飛び出してきて、その勢いに押されてしまう。あと、年上のお姉さん好きって何だ。一紀くん、例のお姉さんに執着しているのはお母様にもバレていたのか。


「あ、えっと、わたしは……」


 さすがに夕飯までいただいていくのは申し訳ない。とは言え、時間も時間。お母様からも話を聞きたいし、夕飯の時間を押してまで話を聞き出すのはそれこそもっと申し訳ない。ここは素直にそのご厚意に甘えた方が賢明そうだ。


「では、お言葉に甘えさせていただきます。好き嫌いやアレルギーは特にありませんので、大丈夫です」


「わかったわ! お父さんも夕飯までには帰るって言ってたから、会えると思うわよ!」


 それじゃ、とお母様は部屋のドアを閉めて、慌ただしく出ていった。


 そこでようやく一紀くんを解放してあげると、彼は視線を落としてわたしの方を見てくれない。でも、耳まで真っ赤に染まっている。怒っているというわけではないらしい。


「なかなか溌溂はつらつとした方だね、お母様」


「父さんにも会うことになるなんて……。志絵莉しえりさん、何でOKしたの……?」


 呻き声にも似たような声で一紀くんが呟いた。ここまで露骨に気を落とすとは思わなかったので、さすがにわたしも勝手が過ぎたかと思い、咄嗟に素で謝罪が口から出た。


「あ、ごめんね……ダメだった?」


「ダメっていうか……緊張するじゃないですか。家族と居るところを見られるの」


「そういうものなの? 賑やかで楽しそうだけど」


 今のやり取りで彼とお母様の距離感は大体理解したし、重い空気になるとも思えないが、彼は何をそんなに気にしているのだろう。


「……いや、すみません。志絵莉さんにとっては、そうですよね……。むしろ、楽しんでいってください」


 幼い頃から既にお母さんがいないわたしにとっては、確かに家族と過ごす時間というのは、彼のように両親健在の家庭とは違うだろう。でも、うちはうち、よそはよそだ。


「あー……うちの家族のことは、気にしないで。わたしも気にしてないし」


「でも、父親と母親と一緒に食卓を囲むって、当たり前のことだと思ってた自分が恥ずかしくて。それが当たり前にあるわけじゃない人だっているのにな、と思いまして」


 また暗い顔をする彼の両頬を両手で包み、強引に顔を上げさせる。なんて顔をしているのだろう。でも、わたしを哀れむ眼ではない。自分の情けなさを恥じる眼だ。


「だーかーらー、気にしなくていいって言ってるじゃん。失ったものと違って最初からないものは、それほど欲しくならないんだよ」


 そんなのは嘘だ。最初からないものでも、周りが持っていて自分にないものは、当然疑念が湧く。みんなに当たり前にあるものが、どうしてわたしにはないのか、と。

 特に子供はお母さん子になりやすい。お母さん、お母さん、と甘える同年代の子供。お父さんは行事にも来てくれたり来てくれなかったりで、過ごす時間も限られている。可哀そうと同情する眼。わたしは可哀そうな子なのか? 気にならないわけがなかった。子供のうちは。

 でも今は、もう何とも思わない。わたしはわたしで、一人の人間だ。お父さんの助けもいらない。一人で生きられる。お母さんという付属品・・・は、今となってはわたしに必要ない。


「まあ、それは置いといて。……年上のお姉さん、好きなの?」


 するとすぐに、一紀くんはまた恥ずかしそうに顔を赤く染める。今日は彼の情緒が忙しい日だな。ちょっと可哀そうではあるけれど、見ていて飽きない。


「……まあ、はい」


 消え入りそうな声で答える一紀くん。話題を変えたはいいが、あまり深掘りするのも可哀そうなので、冗談めかして終わらせることにした。この話題は暗くなった一紀くんの気を紛らすためだけのものだから。


「わたしも年上のお姉さんにカウントされる? 一個しか違わないけど」


「志絵莉さんは、中身は実年齢以上に大人ですから。文句なしのお姉さんですよ」


 どうやらお姉さん検定に合格したらしい。彼に太鼓判を押されはしたが、これは喜んでいいのだろうか。自分で言っておいて、どう反応していいのかわからない。


「そっかそっかぁ。そんなお姉さんが彼女になって、良かったねぇ」


「……本物カノジョじゃないですけどね」


 いじけたようにそう言う彼の頬をつついてやる。あの場では別に彼女は欲しくないなんて強がっていたくせに、本当は欲しかったんじゃないか。それとも、わたしと過ごして気が変わったのだろうか。どちらにせよ、一紀くんが求めている彼女というのは恐らく世間一般で言う恋人とは少し違うのだろうと、まだ短い付き合いながらも彼と過ごしていて思った。だからたぶん、“偽物”から“本物”になったとしても、その関係の呼び名が変わるだけなんだろうなと思っていた。


「そこはさ、いずれ本物にしてやろうって気はないの? せっかくきっかけはあるんだし、チャンスじゃん。一紀くんのお姉さん愛なんて、所詮はそんなもんか」


「でも……約束だと、俺か志絵莉さんのどちらかが相手を好きになったら、この関係は終わっちゃうんですよね……?」


「誰がそんなこと言ったの? もし本気で好きになったら正直に言って、としか言ってないよ?」


 これは本当だ。確かに彼の言う通り、恋愛に発展してしまうようならこの関係は終わらせる、という意図も暗に含んでいた。だけれどあくまで、それはそうなった時に考えるつもりでいた。状況によっても違うだろうし、考え方が変わるかもしれない。


「そう、ですけど……志絵莉さん、彼氏はいらないって……」


 確かに彼氏はいらないと思うけれど、誰でもいいわけではなくて、一紀くんが彼氏なんだったらそれでもいいと思うかもしれない。そう判断するに足る合理的な理由と根拠が自分の中で見つかれば、わたしは迷わずその選択をするだろう。


「それは、今のわたしの話だから。一年後は違うかもしれないし、一か月後は違うかもしれないし、それこそ一秒後はそうは思ってないかもしれないでしょう?」


 ちょっと意地悪な言い方だけれど、これもわたしの本心だ。

 すると一紀くんは、やるせないように項垂れてしまった。さすがに意地悪が過ぎただろうか。


「……俺、志絵莉さんがわからないです。……志絵莉さんは、どうして俺を選んでくれたんですか?」


「彼氏がいらないっていうのは本当だよ。でもそれは、何となくでできた彼氏はいらないって言った方が正しいのかな。昨日も言ったけど、わたしはさ、相手を好きになれないんだ。だからこれまで付き合ってきた人も、好きじゃないけど付き合ってた。付き合っているうちに、好きになれるかもしれないから。でも、相手もわたしを好きじゃなかったら? その二人の関係って成り立たないよね。せめて片方は相手を好きじゃないと、恋人は成り立たない。だからわたしは、彼氏はいらないって言ったんだ。つまりそれは、何が言いたいかわかる?」


 一紀くんはわたしの言葉をゆっくり咀嚼して、飲み込んで、考える。そんなに難しいことを言ったつもりはないけれど、慎重に言葉を選んでいるのか、なかなか口を開かない。別に何を言っても怒ったりしないのに。それでもそうして一生懸命に、真剣にわたしと向き合ってくれるところは、嫌いじゃない。


 やがて何らかの結論を出したのか、一紀くんはようやっと口を開いた。


「昨日、志絵莉さんは、俺のことを好きになれたらいいな、と言っていました。それから今日は、本物の彼女にしてやろうって気はないのか、とも言われました。志絵莉さんは、俺と付き合うためには俺のことを好きにならないといけないと、そう思ってるんですよね?」


「そう断言はしないけど、そんなところだよ」


「でもそれって、俺が志絵莉さんのことを好きになっても成立するんじゃないですか? 少なくとも、片方は相手のことが好きな状態になれば……」


「なれる?」


 彼の言葉を遮って問うと、彼は言葉を詰まらせた。


「君はわたしのこと、好きになれる?」


 なれる、と即答しないあたり、結果は見えている。


「だからね、わたしを惚れさせる方が、君にとっては楽なんじゃないかなと思ったんだ。そうしたらわたしが、君を惚れさせてあげるから。でも、無理強いはしない。わたしも無理はしたくないし。今の関係でも充分満足だから」


 でも彼が本当の意味で愛を知るには、愛されていることを実感し、自分が誰かを愛していることを実感できないといけないだろう。彼の今までの人生を考えると次の機会などいつあるかわかったものではないし、いつまでも若くはいられない。

 そしてそれは、わたしも同じ。年々若くなくなっていくわたしを、求めてくれる男はどんどん少なくなっていく。ただでさえこんな面倒くさい女を求めてくれる人は少ないだろうに。


「……狡いです」


 何が狡いと思った? と聞き返すと、少し間をおいて、彼は捲し立てるように言葉を吐きだした。


「狡いじゃないですか。それなら別に、志絵莉さんが俺のことを惚れさせて、それから俺が志絵莉さんを惚れさせてもいいですよね? 志絵莉さんこそもっと俺を誘惑して、どうやって相手を惚れさせるのか、実践して見せてくれてもいいじゃないですか。……俺だって、誰かを好きになりたいし、好きになってもらいたいですよ。でも、上手くいかないんです……! こんな俺を、どうやったら志絵莉さんは好きになってくれるんですか! ただでさえ、誰かを好きになったことがないなんて言う志絵莉さんを……!!」


 終いには泣き出してしまい、わたしは幼子のように泣きじゃくる彼を抱き締めて、背中をさすってやる。まさか泣いてしまうとは思わなかった。追い詰め過ぎてしまったのかもしれない。

 それに、確かにわたしは狡いことをした。自分が誰かを愛せないから、その事実から逃げて彼にそれを押し付けた。本当はわたしだって、その問題に向き合わなきゃいけないのに。


「……そう、だよね。お手本を見せるのは、お姉さんの役目だよね。ごめんね。……わかったよ。わたしもできるかわからないけど、頑張るから、だから一紀くんも、できなくても怒らないから、頑張ってみてくれる……?」


「……うん」


「うん、よしよし。偉いね」


 一紀くんの頭を撫でてあげると、一紀くんもわたしに抱き着いてくる。まるで子供をあやしている気分だ。何をやっているんだろうな、わたしは。


「ほら、お母様が帰ってくる前に泣き止んで」


 一度こくりと首を縦に振った一紀くんだったが、もうちょっとだけ、と小さな声が聞こえたので、よしよし、と頭を撫で続けてあげた。


 彼はわたしを母親か何かと勘違いしているんじゃなかろうか。いくらわたしがお姉さんだからといって、甘え方が幼児のそれではないか。普通に引く。

 しかし、彼がこうなってしまっているのは、何が原因なのだろう。普段はここまで幼さを見せるわけではないし、精神面の全てが幼いというわけではない。ある特定の部分が育っていない。これは尚更、彼のお母様と話をしてみる必要がありそうだ。彼以外の視点からも、例のお姉さんの事件は調べてみないといけないだろう。彼がそこまで執着する何かが、実際にはあったのかもしれないから。

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