1-1-10.四月十五日②

 突然わたしにとってはタイムリーな名前が出て驚いたが、彼の地元がこの辺りなら、知っていても不思議はない。“あにまる保育園”があるのもこの船迫ふなさこのあたりだったはずだから。


「知ってるも何も、わたし今度 課外実習でそこ行くんだよ」


「あ、そうだったんですか。俺、そこに通ってたんですよ。だから動物が好きで……」


「えっ、“あにまる保育園”に通ってたの?!」


 突如もたらされる衝撃的な情報に、わたしは思わず彼の話を遮ってしまった。

 貴重なサンプルがこんなに近くにいたなんて。これは自分の目で見るよりも有益な情報が得られるかもしれない。

 それに、“あにまる保育園”の情操教育のもたらしたものには興味もある。しゅうくんとの話では悪い点ばかりに着目したけれど、もちろんいい結果だってもたらしたはずだ。彼がどんな人間に育ったのか、わたしや他の人と比べて何が違うのか知りたい。俄然、彼に対する興味が留まることを知らずに湧き上がってきた。


「わたし、ゼミの研究で“あにまる保育園”のこと調べてるから、ぜひ詳しく聞かせてほしいな」


「いいですけど……志絵莉しえりさんの学科って教育系か何かなんですか?」


 まぁ確かに、実習で保育園に行くって、そう思われるか。わたしの学科を一度で言い当てられる人はそうそういないだろう。たぶん、うちの大学独自の学科だろうし。だからこそ、説明するのがちょっと面倒くさい学科でもある。


「うーん、厳密には違うかな。総合臨床科とかいう、パッと見だと何やってるかよくわからない学科なんだよね」


「確かに、珍しい学科ですね。聞いたことないです」


 やっぱりちゃんと説明しないとわからなさそうだったので、だいぶ噛み砕いて説明してあげる。


「そうだよね。何て言ったらいいかな……理論とか机上の理屈じゃなくて、実際に現場で行われている事にちゃんと着目しましょうよって学科。色んな現場で実際に行われているコミュニケーションや、それによる対人効果とかを研究してるの。だからこういった課外実習とか、こちらから申し出てもちゃんと単位になるんだ。といっても、実際には実習期間じゃわからないことの方が多いし、情報をもらえるに越したことはないからさ」


「そういうことですか。なら、何か資料とかあった方がいいですかね。当時のものが何か残ってると思うので、今度うちに来ますか?」


 なんか、さらっと家に誘われてしまった。でも一紀かずきくん、実家暮らしなんだったよね。ならそれほど警戒しなくても大丈夫か。それに、たぶん下心とか何もなく、ただただわたしへの親切心で言ってくれたんだろうし。

 というか、親にもわたしを彼女だと紹介するのだろうか。“表向きには”を、彼はどこまで表だと考えているだろう。わたしは別にどう紹介されても構わないけれど、彼はどうするだろうか。楽しみにしておこう。


「え、ありがとう! できれば早い方がいいんだけど……お願いできそう?」


「えーっと、俺は早ければ明日でも……」


「じゃあ早速で悪いけど、明日お願いしてもいい?」


「わかりました。準備しておきます」


 思わぬ収穫だ。もし彼の家にご家族が居れば、そちらからも当時の話を聞けるかもしれない。特にお母様は当時、親同士の繋がりもあっただろうし、妙な噂があれば聞いている可能性は高い。当事者からの証言は、いくつものデータに勝る価値がある。



 すっかり食べ終えて、そろそろ店を出ようかという時に、彼はカバンから一枚の茶封筒を取り出した。かと思うと、それをわたしに差し出してくる。


「この間のタクシー代の残りです。この間は本当に、ありがとうございました」


 わざわざありがとう、とわたしはそれを受け取って、中身を確認する。結構残ってるな。わたしが思っていたより彼の家は近かったのかもしれない。これだけあれば、この場の支払いにも充分足りるだろう。

 わたしは伝票が挟まれたバインダーにその封筒を一緒に挟んで彼に突き返す。


「この場の支払いは、彼氏さんに任せていい? おつりは支払代行手数料ってことで」


「いやいや、そんな、悪いですよ。大体、ただお金を返すためだけに会うのも悪いかなと思ってご飯に誘ったのは俺の方ですし」


 そう言って、彼はまたわたしに返そうとわざわざバインダーから封筒を外して差し出した。


「そういう気遣いができるのは立派だと思うよ。でも気まぐれな猫がそれでいいって言ってるんだから、気が変わらないうちに、素直に受け取っときなよ」


 自分で言っておきながら少し恥ずかしくなって、わたしは封筒を受け取らずに荷物を持って席を立った。

 それで観念したのか、彼もそれ以上は食い下がろうとはしなかった。




「あの、ごちそうさまでした」


 店を出た後で、彼は申し訳なさそうに呟くように言う。年上に奢ってもらったんだから、別に彼が申し訳なさを感じる必要はないと思うけれど。もっと嬉しそうにすればいいのに、何を遠慮しているんだか。どうせ、彼女に奢らせてしまったとか思っているんだろう。わたしと二人きりの時は、ただのお友達だと言ったはずなのに。まあ、そういうわたしもそんな意識ができているかと言えば怪しいのだが。


「いいよ、気にしないで。美味しいお店を教えてもらったし、良い情報ももらえそうだし、充分見返りはもらってるから。一紀くんは、今日は楽しくなかった? もしかして、わたしと居ると意外と疲れる?」


「いえ、俺も今日は楽しかったです。変わった人だなとは思いますけど、疲れるってほどじゃないです。俺も志絵莉さんと一緒にいて楽しいですよ。それに……」


 そこで彼が言葉に詰まったので、それに? と続きを促すように聞き返す。本当はこの部分について触れるつもりはなかったのか、彼は少し言いづらそうに視線を彷徨わせていた。

 これ以上問い詰めないで、聞かなかったことにしてあげることもできたが、わたしは彼が何かを言うまで何も言わなかった。自分でも意地悪だと思う。


「その……志絵莉さん、可愛いから、見ていて飽きないというか……」


「えぇ……それ大丈夫かな。美人は三日で飽きるって言うよ?」


「大丈夫ですよ。猫はどれだけ可愛くても飽きませんから」


 恥ずかしい言葉で返されて、逆にわたしは何も返せなくなってしまった。そのせいで、変な沈黙がわたしたちの間に流れてしまう。

 こほん、とわざとらしく咳払いをして何とか空気を取り繕うも、一紀くんはわたしと目を合わせてはくれなかった。


「この後は、何か予定あるの?」


 わたしは今、行く宛も知らず、ただ彼の歩く先についていっているだけ。どうやら待ち合わせ場所だった駅前に戻っていっているらしいが、その先はどうするつもりなのだろう。


「あー……えっと」


 彼が何かを言いかけたちょうどその時、向かいから歩いてくる人の中から、わたしを捉えて声を上げる者がいた。

 街明かりの中で互いの顔が見える距離だったから、互いの声が聞こえる距離だったから、すれ違う前に、お互いにその存在に気付いてしまった。


「先、生……?」


 向かいからやってきたのは、生意気なほど整った顔立ちの少年と、それに付き添うスタイルの良い若い女性。二人は手に買い物袋を提げている。

 完全に油断していた。船迫は彼の家がある、彼の生活圏だ。彼がセレナさんの買い物に同行しないと何故決めつけていたのだろう。


 こうなると、一番反応に困ってしまうのは一紀くんだ。わたしが何か助け舟を出してあげないと。既にどうしたものかと、正面からやってきた萩くんとわたしとの間を視線が行き来している。


 しかしさすがというべきか、先手を打ってこの場を落ち着かせようと動いてくれたのはセレナさんだった。


「こんばんは、志絵莉様。こんなところでお会いするなんて、珍しいですね」


「こんばんは。今日はお買い物ですか?」


「いえいえ~、今日は萩様とデートなんですよ」


 そう言ってセレナさんがにこにこしながら萩くんの腕に抱き着いてみせると、いらんこと言うな、と萩くんがセレナさんを睨みつける。否定はしないのか。可愛らしい。

 さて、少し場が和んだところで、そろそろ置いていかれてしまっている一紀くんをフォローしてあげないと。


「志絵莉さん、知り合い?」


「うん。わたしのバイト先の……雇用主、って言えばいいのかな? わたし家庭教師やってるから、その生徒だよ」


「先生、その人は?」


 萩くんの方も、待ちかねたように尋ねてくる。彼の問いには何と答えたものか。彼にはちゃんとした事情を説明してあげたいが、ここでするには少々長くなりそうだし、端的な説明だけに留めても、彼なら理解してくれるだろうか。


「えーっと……簡単に言うと・・・・・・、彼氏、かな」


 頭のいい萩くんなら、これでわかってくれるよね? というかお願い、これでわかって。そう念じるように彼に視線を送ってみるが、その念は届かなかったようだった。


「彼氏……だと……っ?!」


 彼は目を見開いて、固まってしまった。微かに唇を震わせて、それ以上の言葉が出てこないようだった。まあ、そうなるか……。予想通りの反応をしてくれてありがとう。


「あらあら、志絵莉様もデートだったのですね。お邪魔してしまって申し訳ありません。では、私たちも行きましょうか、萩様」


「いえ、こちらこそお邪魔してしまってすみません。じゃあまたね、萩くん」


 見るからに落ち込んだような様子で、彼はセレナさんに手を引かれていった。反応は面白かったけれど、少し可哀そうかな。後でちゃんと事情を説明してあげよう。


「あの二人、どういう間柄なんですか?」


 二人が去った後で、一紀くんはそんなことを聞いてきた。確かにあの様子だと、親子ではないだろうし、姉弟とも違うようだし、では何なんだろうってなるよね。


「小さい方がご主人様で、一緒にいた女の人はメイドさんなんだよ。彼はああ見えて、御曹司ってやつなんだ。執事さんもいるよ」


「すごいなぁ……生きてる世界が違うみたいだ」


 実際、生きている世界が違うのだろう。萩くんは頭もいいし、凡人とは見えているものが違うだろう。でも、彼もこういったことには人並みの反応を示すのだと知れたことは、何故だか嬉しく思えた。

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