1-1-9.四月十五日①

 寝て起きてみると、現在時刻は十一時過ぎ。昨日 帰ってきたのが夜中の二時くらいだったから、睡眠時間としてはいつもと同じくらいか。土曜日は半日潰してしまうことになったが、思ったよりも寝過ごさなくて良かった。

 スマホの通知を確認してみるが、あれからメッセージは来ていない。一紀かずきくんもまだ寝ているのだろうか。


 メッセージアプリの友達リストの中に、彼の名前がある。昨日 彼と交わした約束は自分でもまだ実感が湧かないけれど、彼はどうだろう。まさか酔っていて覚えていない、なんてことはないよね。

 ほんの少しだけ心配になって、わたしは早速メッセージを送ることにした。


〈おはよう。今起きたけど、もし良かったら今夜また会える?〉


 送った後で思ったが、我ながら支離滅裂な文になっているな。これだと気を遣わせてしまうかもしれない。補足を入れておこう。


〈無理だったら今日じゃなくて全然いいからね!〉


 するとすぐに既読がついて、返信がある。


〈おはようございます。わかりました〉


 相変わらず事務的なメッセージだな。本当の恋人相手でもこんなメッセージを送るつもりなのだろうか。これはむしろ、彼が本当の恋人を作る前にわたしが色々叩き直してあげた方がいいのかもしれない。

 そんなことを思っていると、続けてメッセージが届いた。


〈場所は俺が決めてもいいですか?〉


〈いいよ。待ち合わせの時間と場所だけ教えてくれれば〉


〈じゃあ、船迫ふなさこ駅前に十六時半でお願いします〉


 返ってくるの早いな。どこに行くかはもう決めてあったのかもしれない。


〈お腹を空かせておいてください〉


 続けて送られてきたこのメッセージを見るに、駅前で何かご飯でも、ってことなんだろうか。二人で行くならこの前の合コンみたいにお酒を交える必要はないし、帰りもそこまで遅くならないだろう。悪くない提案だ。


〈わかった。じゃあ、またあとでね〉


 そうメッセージを送ってから、上体を起こす。

 十六時半に待ち合わせ、か。船迫駅はしゅうくんの家の最寄り駅でもあるし、待ち合わせの時間的にもバイトに行く時と同じくらいの時間に出れば大丈夫かな。


 昨日はタイミングを逃しちゃいけないと思ってあれやこれやという間に関係を築いてしまったけれど、わたしは一紀くんのことをまだ何も知らない。もしかしたら、わたしに害のある人間かもしれない。彼の思想は確かにわたしと利害が一致するものだったけれど、まだその奥底の本心を暴けていない。彼の思想の奥底にある価値観がどんなものなのか、そしてそれを形作ったものが何なのか、知っておく必要がある。

 誰かと関わりを持つたびにこんなことをお願いするのは申し訳ないけれど、親友の頼みとして、ならわかってくれるだろう。


 わたしはに連絡を取り、池田いけだ一紀という人物の身元調査を依頼した。


『久しぶりに連絡を寄越したと思ったら、新しい彼氏の身元調査か。彼氏の情報が俺に筒抜けなのは気にならないのか?』


「別に、知られたからって何もないでしょ」


 わたしの恋愛遍歴を知られたからって、彼のわたしへの態度は変わらないだろうし、この関係も変わらない。そんな信頼があるからこそ、彼に依頼するのだし。


『確かにそうだな。あるとすれば、お前の性癖がつまびらかになっていくくらいか』


「いや、むしろ教えてほしいわ。わたしの性癖ってどんなのよ?」


『年齢にそぐわない落ち着きと聡明さを有しながらも、時折 母性本能をくすぐるような素直さを見せる年下男子』


 いやいや、待って。心当たりがありすぎる。わたしってそんなにわかりやすいのだろうか。というか、別に年下が好きなつもりはなかったんだけれど、やはりそうなのだろうか。


『用件は済んだか? 切るぞ?』


「あ、ちょっ、待てって。相変わらずせっかちだな……。日本に戻ってるんでしょ? もしかしたらちょっと、手伝ってほしいことができるかもしれないから、そのつもりで……」


 わたしの言葉を遮るように、耳元でツー、ツーという空しい切断音が聞こえる。あの野郎、面倒くさそうな話が始まった途端 切りやがった。まだ話の途中だったのに。

 まあいい。また後で概要をメールしておこう。“あにまる保育園”の件は、どうもわたしと萩くんだけでは手に負えない気がしている。萩くんからもらった資料を読み込んだけれど、相手はこの計画をかなり緻密に組んでいるように思える。もしかしたらこれは“あにまる保育園”だけに留まらず、他の組織とも関わりがある事案なのかもしれないと思っている。

 その“あにまる保育園”の裏にいる存在を炙り出す作業を、彼にはお願いしておこうと考えていた。


 そうして気付いたら、そろそろ準備を始めないと遅れてしまいそうな時間になっていた。


 今日はどんな格好をして行こうかな。いくら本当の恋人じゃないと言ったって、表向きには恋人でいいと言ってあるし、彼も多少は意識しているはず。彼女らしく、少しは飾り気があった方が彼も嬉しいだろう。

 昨日は清楚寄りだったし、今日はまた違う雰囲気にしてみようかな。


 黒のショートパンツに白のシャツを合わせて、その上にやや丈の長いアッシュピンクのジャケットを羽織る。髪は適当にシニヨンにして、昨日よりはメイクも大人っぽく仕上げる。

 鏡で見てみた自分の姿はだいぶ気合入りすぎな気がして、何だからしくないなと思った。彼にどう思われようとどうでもいいはずなのに、彼によく見られたい、彼の好みを知りたい、彼にみっともない思いをさせたくない、なんて思いがどこかから湧いてきていた。


 そろそろいい時間だし、出発しないと。調子に乗ってしっくりこない髪を弄っていたら、もう三十分以上も鏡の前で過ごしていた。



 改札を出ると、一紀くんはすぐに見つかった。服装は昨日と大体同じ。色違いかと思うくらいに。駅の柱を背に、スマホを弄りながらちらちらと改札の方を気にしている。どうやら彼の方はまだわたしに気付いていないらしい。


 何気なく近寄っていくと、ようやく気付いたのか口を半開きにした間抜けな顔でこちらを見つめてくる。


「お待たせ、一紀くん」


「あ、えっと……志絵莉しえりさん、ですよね……?」


 予想通り、昨日とのギャップに驚いているようだ。自分ではどちらかというと、今の格好の方がわたしの印象には近いんじゃないかと思うけれど。彼は昨夜のわたしを見てもまだ、あの清楚な格好のイメージのままだったのかな。


「そうだよ。それとも一紀くんには、こんな美人なお姉さんに話しかけられる心当たりが他にあるのかな?」


「いえ……昨日とだいぶ印象違ったので、びっくりして」


 言っておいて恥ずかしかったから、何かツッコんでほしかったな。


「こういう格好はあんまり好きじゃない?」


「そういうわけじゃないです。志絵莉さんってどんな格好しても可愛いんだと思って、見惚れてただけで」


 たぶん本心で言っているんだろうけれど、下心もなくそんなことが言えてしまうのは、ある意味脅威的だ。ただでさえ今日のわたしはちょっと浮ついていて変な感じだから、気を付けないと。


「それに、その……なんだかいい匂いしますね」


「本当? 匂いキツくない?」


「キツくないですよ。女の子みたいな、少し甘酸っぱいような、いい匂いがします」


「いや、わたし女の子だけどね」


 そう談笑しながら彼の案内で駅を出て、ほとんど沈みかけている夕日の差す大きな通りを歩いていく。船迫駅自体はバイトで何度も来ているが、萩くんの家に行くだけで。周辺を散策したことはない。いつもと違う通りに出るだけで、全然知らない場所に来たような、不安と高揚感が入り混じったような浮遊感に襲われる。


 彼は堂々と落ち着いて、わたしの隣を歩く。歩調をわたしに合わせてくれている。でも、手を握ったりはしてこない。緊張しているのか、意識的に距離を取られているのだろうか。

 わたしはあれこれ気を回していたけれど、彼は意外としっかり割り切っていたりするのだろうか。自分から持ち掛けた関係なのに、わたしの方が空回りしている。わたしの方が年上なのに、情けないな。


「今夜はどこに連れてってくれるの?」


「お好み焼き、と思ったんだけど、そういえば志絵莉さんは、苦手なものとかありますか?」


「ううん、わたしはアレルギーも好き嫌いもないから、何でも大丈夫」


 よかった、と胸を撫でおろす一紀くん。


 それから少しして彼の足が止まり、目的地に到着したようだった。あまり大きくない、居酒屋のようなお好み焼き屋さん。まだ時間としては早いからか、お客さんはほとんどいない。わたしたちはテーブル席の一つに案内され、向かい合って座った。


 それぞれ思い思いに注文し、今は焼き上がるのを待っている。もちろん今日はアルコールはなしだ。


「ここ、よく友達と一緒に食べに来てて。結構美味しいんですよ」


「へぇ、それは楽しみ。一紀くんは、地元はこの辺なの?」


「はい、生まれも育ちも国府こくぶ市です。志絵莉さんは、受験でこっちに?」


「うん。と言っても実家は小石原こいしはらだから、そんなに遠くないけどね」


 小石原市も同じ東京都。ここ、国府市よりは都会に近いけれど、国府市とは電車で乗り換えなしで行き来できるほどの距離だ。


 特別一人暮らしがしたかったわけじゃない。ずっとお父さんと暮らしてきたあの家を出るのは、むしろ寂しくもあった。でもお父さんは、わたしの一番やりたいことをやりなさいと言ってくれた。だからわたしは、この超実力主義の翠泉すいせんに戻ってきたのだ。


「あれ、ってことはもしかして、一紀くんは実家暮らし?」


「ええ、まあ。だからこの間は、迎えに来てもらおうと思えばできたんだけど……」


 まだ入学したばかりなのに合コンで酔い潰れたなんて、親に言いにくいか。


 焼き上がったお好み焼きをそれぞれ取り分けて、わたしはそれをさらに小さく切り分け、ふぅふぅと冷ましながら口に運ぶ。いや、それでもダメだ。さすがに焼き立ては熱い。もう少し冷めるのを待ってから食べれば良かったかもしれない。


「……志絵莉さん、猫舌なんですか?」


 一紀くんの手がわざわざ止まり、意外そうな顔をしてこちらを見つめてくる。

 別に恥ずかしがることでもないはずなのに、何故だか言葉ではっきり肯定するのが恥ずかしくて、でも否定するのも躊躇われて、わたしは無言のまま首を縦に振った。


「志絵莉さん、どちらかと言うと猫系女子ですし、可愛くていいじゃないですか。俺は猫好きですよ」


 ……猫系女子って何、どういうこと? 気まぐれでわがままで面倒くさそうってこと? いや、それはわたしの猫に対する考えが歪み過ぎてるか。


「猫ねぇ……。わたしは動物ってあんまり得意じゃないんだよね。人間と違って何考えてるかわからないし。一紀くんは、動物とか好きなタイプなの? 猫だけ?」


「まるで人間なら何考えてるかわかるみたいに言いますね……。俺は猫以外も、動物は結構好きですね。中でも猫が、っていう感じです」


 一紀くんの顔がわずかに引きつったように歪んだ。少し傲慢が過ぎる言い方だったかもしれない。厳密には、人柄を知ればそこから思考パターンがわかる、という方が正しいんだけれど。それでもちょっと気持ち悪く思われるかもしれない。

 でもたぶん萩くんも同じことをしているだろうし、翠泉に入るような子なら大体そうなんじゃないだろうか。


 すると、そういえば、と何かを思い出したように一紀くんが続ける。


「この辺りに“あにまる保育園”っていう保育園があるの、知ってます?」

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