1-1-8.四月十四日③

「え……? 俺が、ですか? でも、彼氏はいらないって……」


 話がまるで見えてこないといったように、目をぱちくりさせている。


 今からする話は、とってもずるい話。わたしだけが得をして、きっとそのうち彼を苦しめることになる、悪魔の契約だ。それでもわたしは、この居心地のいい場所をみすみす手放したくはなかった。


「そう。わたし、彼氏はいらないんだ。だから本当は仲のいい男友達が欲しい。できればカズキくんがそうなったらいいな、と思ってる。でも、わたしも君と同じで、彼氏がいないとなると変な男も寄ってくるし、こうやって合コンにも誘われて付き合わされるしで面倒なことも多いからさ。だから、表向きは恋人ってことで、どう? カズキくんにとっても悪い話じゃないでしょう?」


「じゃあ俺も、表向きにはシエリさんのこと、彼女だって言ってもいいんですか?」


「そうそう、そういうこと。でも、わたしと君は、仲のいい男女の友達。愛だの恋だのっていう重たい関係じゃなくてね。だから別に、浮気したかったらしてもいいんだよ? わたしはそれで怒ったりしない。それとも表向きだとしても、わたしじゃ君の彼女としては不足?」


 我ながら狡い質問だ。きっと彼は否定してくれる。そしてこの問いを否定してしまったら、彼はわたしの要求を呑まざるを得なくなる。それをわかっていて、こんな言い方をした。こんな出会い、もうそうそうないだろう。だからここで、わたしは彼を手放すわけにはいかないんだ。


「まさか、そんなわけないですよ。……いや、その、むしろ俺の方が、いいのかなって」


「君がいいんだよ。わたしは一目見た時から、君はどこか、わたしと合いそうな気がしてた。ここまでとは思っていなかったけど。だから、わたしは君がいいの。カズキくんこそ、こんな変な女でいいの? 自分で言うのも何だけど、結構性格悪いと思うよ?」


「性格が悪いっていうより、頭がいいんだろうなって思います。俺よりも頭がいいから、たぶん俺は貴女に敵わない。でもいいんです、それで。シエリさんが色々主張してくれなかったら、きっとこの関係は生まれなかったし、これからも続いていかないと思うから」


 この子……思ったよりしっかり考えている。わたしが彼を手のひらに乗せて見ているのに気付いていたなんて。しかも、それを理解してなお、それでいいと言ってくれる人なんて、この世にあとどれくらいいるだろう。


「ありがとう。じゃあ最後に、約束事。わたしたちの間で禁止すること、三つ。それから、大事な約束が一つ。今からそれを話すから、それを聞いたうえで、それでも仮初の恋人になってくれるなら、わたしの手を取って。いい?」


 そう言ってわたしが左手を彼の腹の上に置くと、彼は起き上がろうとするのでそのままそれを制した。


「大事な話だからちゃんとした姿勢で聞かなきゃって思ってくれたんだよね。ありがとう。でも、大丈夫。そのままで聞いてくれていいから」


 彼がわかった、と小さく頷いてみせるので、わたしは改めて話し始める。


「まず、わたしたちの間で禁止する三つの約束。お金の貸し借り、暴力、セックスの誘い。それ以外は基本的に何してもオーケー。この他に禁止したいことがあったら、カズキくんからも話してほしいな。ああ、でも犯罪行為はダメね。そういう当たり前のことはもちろんだから」


「あ、えと……セックスの誘いって、どこからどこまでが……? あ、いや、別に反対ってわけじゃないですけど。意図せずそう思われたらどうしようと思って……」


 確かにそこだけ抽象的すぎたかもしれない。わたしの方から彼に提案するルールなのだから、ちゃんと説明しておかないと後々 余計なトラブルになりかねない。彼もそう思ったのだろう。


「ああ、えっとね……直接的に言葉で誘ったり、性器を見せたり触ったりとか、そういうことかな。もちろんわざとじゃなくて、事故みたいな感じでそうなっちゃったらそれはノーカンだよ。わたしだって、流石にそこまで厳しくないから」


 彼がほっと息を吐く。今の説明で理解してもらえたのだろう。


「こうして膝枕してもらってるのも、もしかしたらいけないかと思いまして」


「それはわたしからやったことだし、カズキくんが気にすることじゃないよ。それにスキンシップはいいよ。もししてほしいならまた膝枕してあげるし、ハグもキスもしてあげるよ。あとは……気分次第でおっぱいなら揉ませてやろう。これでどうだ!」


 何一人で盛り上がってるんだろう。わたし自身、あんまりセンシティブな話題は得意じゃないから、変なテンションになってしまった。


「あ、は、はいっ、ありがとうございます……!」


 カズキくんも恥ずかしそうに視線を彷徨わせてしまっている。急におっぱいとか言ったから、目の遣り場に困ってしまったのだろうか。その姿勢で見上げれば、ちょうど目の前にあるわけだし。


「それで、カズキくんとしては、ここに追加したい禁止事項はない?」


「はい。特にないです」


「よろしい。じゃあもう一つの大事な約束ね。もし、相手のことが本気で好きになった時、友達じゃなくて本当の恋人になりたいと思った時は、隠さずにちゃんと言うこと。お互いにね」


 わたしが話し終えて、それをちゃんと最後まで聞き届けたカズキくんは、わたしの目を強く見つめ返して、わたしの手を取ってくれた。


「これから、よろしくお願いします」


「ありがとう、カズキくん」


 こうして契約は成立。晴れてわたしたちは、仲のいいお友達になった。


「さて、それじゃあそろそろ帰ろうかな」


 話し込んでいたらすっかり時間も遅くなっていて、終電もとっくに過ぎてしまっていた。わたしは歩いても帰れるからいいけれど、彼はどうだろう。船大ってことは、きっと家も船迫の方なんだろう。いくらか酔いも醒めてはきただろうけれど、さすがに歩いて帰らせるのは気が引ける。


「カズキくん、起きれそう?」


 わたしにそっと背中を支えられながら、カズキくんはゆっくり上体を起こす。重たそうだった瞼もしっかり開いていて、もう眠気もほとんどなさそうだ。


「はい、大丈夫そうです」


「良かった。でも、無理はしないでね」


 わたしは財布からお札を抜いて、彼に握らせた。額は見ずに、一番端っこにあったやつ。几帳面に並べてるから、端っこは最高額の紙幣の指定席だ。


「今日はこれで帰りな。駅に戻ればタクシー拾えるから」


「でも、お金の貸し借りはなしって……」


「うん。だから、返さなくていいから」


 いやでも……、と食い下がる彼を抱きしめて、強引に黙らせる。


「何も遠慮することないよ。気を遣ってくれなくてもいいの。だからわたしの優しさを、素直に受け取って」


 はい、という吐息が混じった小さな声が、耳元で聞こえた。

 よしよし、と頭を撫でて身体を離すと、少し名残惜しいような目を向けられる。


 なんだかちょっと前にも見た光景だな。わたしはこういう子を引き寄せてしまうのか、それともわたしからこういう子に寄っていってしまうのか。


「無事に帰れたら、連絡ちょうだい。眠気が限界とかだったら、朝でもいいからね」


 そうして何気なく、連絡先を交換しておく。


「わかりました。今日は本当に、何から何までありがとうございました!」


 彼を駅まで案内し、ちゃんとタクシーに乗り込むまで見送ってから、わたしも帰路につく。わたしもタクシーを使おうかと思ったけれど、迷ったのは一瞬で、すぐにやめた。


 夜中はいい。辺りの家の生活灯もほとんど落ちて、雑音もない。空気もどこか澄んでいるように思えて、ここがここでないような感じがする。ただ夜は危険と隣り合わせだから、そう滅多には出歩かない。それでも今日だけは歩いて帰ろうと思った。


 少し歩いていくと、思ったより家まで遠いなと感じて、わたしはどうして歩いて帰ろうと思ったんだったかと思い馳せた。

 たぶん、わたしも酔っていたのだろう。彼の介抱をしなくちゃと気を張っていて、自分の状態に気付けていなかっただなんて、笑える。でも、もし酔っていなかったら、あんな提案はしなかったかもしれないな。



 ちょうどわたしが家に着くくらいに、スマホにメッセージが届いた。どうやら彼も無事に家に帰れたらしい。


〈よかった。わたしも今 家に着いたところ〉


 ほぼ同時に出発して同時に着くなんて。タクシーが平均四十キロで走行していたとしたら、距離差はどれくらいあるだろう。数学の問題ができそうだ。ああでも、肝心のかかった時間を測っていなかった。


〈いただいたお金がだいぶ余っちゃったので、さすがに返そうと思うんですが、また会ってもらえますか?〉


〈会うのはいいけど、日にちはちょっと待って。頭回らないから、寝て起きてから考える!〉


〈わかりました。ありがとうございます〉


 しかし……このクソつまらん事務的な文章はどうにかならないものか。せめて敬語をやめさせるか。それとも打ち解けてくれたら変わるかな。


〈おやすみ、一紀かずきくん〉


〈おやすみなさい、志絵莉しえりさん〉



 わたしは人を好きになったことがない。彼氏がいたことはあっても、それは別に好きな相手ではなかった。だから続かなかったのかもしれない。

 今回も、彼のことは別に好きではないし、後々好きになることもないと思う。だけれど、不思議と今回は、そこそこ長くこの関係を続けていけそうな気がしていた。

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