第3章 「慰め合い」

 「最近さ、友だちと喧嘩したんだ、唯一無二の親友なのに、喧嘩」

 友だち同士の喧嘩なんて、よくある話ではないのだろうか?だが、彼女は過去の自身の言動を悔いているのか、あるいは恥じているのか、心底思いつめた顔で話す。

 「前にも話してたお友だちですか?仲良しエピソードに絶えなかったのに、なんでまた喧嘩になっちゃったんですか。あまりにも重いと慰められる自信ないですけど。」

「うーん、あんまり今は理由は言いたくないな」

「じゃあ、お手上げです。すいません。」

「君は?最近どうなの」

 気まずい空気にはしたくないのか、キュッと普段の表情に戻って、「今度は君の番」というように問いかけてくる。

「母親と喧嘩しました。」

「反抗期にしては遅くない?でも、高校二年生だったらそんなもんなのかな」

「反抗期ではないです。多分。普段は母とは良好な関係でやってます。」

「そうなんだ、じゃあ、なんでまた?」

「理由は、言いたくないです。」

「一緒じゃん、私と」

彼女はふんっと軽く鼻を鳴らした。

「じゃあさ、理由を言いたくない理由を教えてよ!」

「謎解きゲームやってるんじゃないんですよ?」

「わかってるよ、でも私は理由を言いたくない理由なら、君に話せるよ」

 五月から始まり、もう数十回は繰り返している慰め合いであるが、僕が話のペースを握れたためしはない。

「わかりましたよ。」

僕は諦めて首を振る。

「私と友だちの喧嘩はね、初めてじゃないの」

彼女はベンチから立ち上がって、ぽつぽつと歩き始める。

「私たちはお互いが踏み行ってほしくない領域っていうのをしっかり共有してるの、でも、今回は私が麻衣の絶対に踏み入っちゃいけない領域に踏み行っちゃったんだ」

立ち上がった直後からゆっくりとした歩調であったが、話し終えることには足を止めていた。

「これ、もう理由話しちゃってるみたいなもんだけどね」

「そうですね。」

「まあ、どんなふうに踏み入っちゃったかは内緒ってことで」

彼女はまた、思いつめた表情を無理やり普段の柔らかい表情に戻して僕の方へ向き直る。

「さ、君の番だよ」

 どう説明したものかと小考し、不承不承腰を上げる。

「八つ当たりです。」

これ以外に、僕が母にきつく当たってしまった理由を言い表す言葉は出てこない。


 もともと、学校生活に馴染むことをあまりしなかった僕は、高校に入学してからいよいよ完全に孤立するようになっていった。中学時代は、横井がいたからまだ持ちこたえていた部分があった。いや、中学卒業の2か月前に横井が転校したが、今思えばその瞬間から僕の孤立ははじまっていたのかもしれない。

 惨めな高校生活から目を背けるように、自分自身に対して「わざわざ馴れ合いをする必要はない」と言い聞かせることもしたが、余計に惨めさが増すだけであった。

 一方で家庭環境は、父親を除けば概ね良好ではあったはずである。祖母を交通事故で亡くした後、祖父は急激に老け込んでしまったが、しばらくは元気でやっていたし、母もパートをしながらも趣味の羊毛フェルト製作をしていた頃は、疲れた表情を見せることも少なかった。僕も、祖父が元気でいるうちは学校生活での孤立による惨めさから生じる負の感情を家庭に持ち込むことは無かった。

 初めて母にきつく当たってしまったのは、祖父の体調が徐々に悪化し始めた今年の三月ごろであった。その頃はまだ母がパートの時間を短縮する前で、母が行う祖父の介護を、僕もよく手伝っていた。


「前までは、いろいろな問題を抱えていた家庭だったとはいえ、それなりに普通の生活は送っていたんです。」

寒さが少し和らぎ、春の陽気が少しだけ顔をのぞかせたあの日のことを、寒さが深まっていく今日とは真逆のあの日のことを、思い出しながら言葉を吐き出す。

 彼女は、僕の方を向いたまま黙って僕の話を聞いている。

 「でも、僕の、僕自身の弱さのせいで、家族につらく当たってしまったんです。」

そう吐き出された言葉は、まるで僕の分身が僕の背後に立って話している声かのように聞こえた。これはもう、言いたくなかったはずの理由そのものではないか。


 あの日、学年末の定期テストを終えた僕は、いつもよりも早く家路についていた。

 僕の高校では、定期テストを3日間にわたって行い、テスト期間中は午前のみの時間割になっている。テスト期間最終日も午前中で学校は終わるのだが、テストは全て終わったので、翌日のための勉強をする必要はない。

 教室を出て、校門に向かっていた僕のとなりを、二人のサッカー部の部員が練習着姿で談笑しながら追い抜かしていった。

「テスト明けでいきなりランなの、地獄だよな」

そんな声が聞こえる。

 サッカー部以外にも、野球部やテニス部など、多くの運動部はテスト期間最終日の午後から、一週間ぶりに練習を再開する。テスト期間とその前の一週間は勉強に集中するために部活動は原則停止になるのだ。いかにも、地方の自称進学校が取り入れそうな制度である。

 確かに、一週間も練習を休んで、いざテストが終わったらいきなり「10kmランニングだぞ!」なんて言われたら地獄だろうな。そう僕は思いながら校門を出た。

 高校に入って最初の一年の締めくくりであったはずのテストだが、手ごたえはさっぱりだった。決して勉強に苦手意識を持っていたわけではないし、中学時代はむしろ学年の中で10位以内に入る成績を維持していた。しかし、高校入試を経て、ある程度同じ学力帯の生徒が集まると、僕の学力はさして大した強みではなくなってしまった。

 中学時代に良い成績を収め続けていたことで保っていた自尊心は一年をかけてじわじわと失われていき、孤立によって感じていた惨めさをより強固なものにしていった。

 テストの手ごたえがまるでなかったことで、最後のとどめを刺されたように感じ、最悪の気分に苛まれながら玄関を開けた。高校から家までは歩いてニ十分ほどの距離のため、午後の一時前には家に到着した。母が帰ってくるまではあと四時間弱はある。

 もうこれ以上最悪な気分になることもないだろう。と、ある意味で開き直り、少しでも気分を切り替えるために、お気に入りの音楽を流しながら掃除機をかける。当時はまだ、二階の一番奥に位置する祖父の部屋も僕が掃除をしていた。


― 若かったあの頃 何も怖くなかった ただ貴方のやさしさが 怖かった


 僕の流す音楽を聴き、祖父はつぶやいた。

「懐かしいな。かぐや姫か。」

「そう、中学の時に友だちに教えてもらったんだ。」

「そりゃあおまえ、いい友だちをもったな。」

 僕は祖父の部屋の掃除を終えて、部屋を出た。唯一の友だちを祖父に褒められ、舞い上がっていたのだろうか、それとも、学校から帰ってきた時に感じていた最悪な気分が無意識にそうさせたのか、いつも掃除後につけるはずであった空気清浄機の電源をつけ忘れたことに気づいたのは、母が帰って来てそのことを追及されてからだ。

 気管支の弱い祖父にとって、体調を悪化させないためにも空気清浄機は常に稼働させていなければならなかった。当然、母親は僕に対して空気清浄機の電源がついていなかったことに対して厳しく叱責したし、僕は自分の不注意を恥じた。その恥の感情は僕の中で渦を巻き、学校生活で感じる惨めさと融合して、これまで抱いたことのない感情へと変わっていった。

 「じゃあ全部母さんがやればいい。」

僕の口から発せられたその言葉を聴いた母の顔を、僕は死ぬまで忘れないだろう。

 もうこれ以上最悪な気分になることもないだろう。と、ちょうどその日の昼過ぎに感じていたはずであったはずなのに、その日のうちにさらに最悪な気分になることになろうとは、予想していなかった。


 吹き抜ける冷たい風を頬に感じ、目の前の風景が河川敷の公園に戻る。どうやら、頭の中で思い描いていたあの日の記憶が、そのまま口から漏れ出ていたようだ。

 彼女は、ずっと変わらず僕のことを見つめている。吸い込まれるような、それでいて優しいまなざし。口角はわずかに上がっているが、笑っているわけではない。そう、例えるならば仏像の口元だ。アルカイックスマイルと呼ばれる、感情を極力抑えながらも、わずかに口元に笑みを浮かべた表情だ。僕は、その表情をする彼女をこの半年で何度も見てきた。”慰め合い”。その表現がしっくりくるのは、このすべてを許してもらえそうな彼女の表情と、その表現とが絶妙な親和性を発揮していたからかもしれない。

 彼女はゆっくりと僕に近づくと、右手を僕の頭にのせ、まるで母親が小さな子どもをなだめるように、僕の頭をなでる。

「慰めるための言葉が、出てこなかったのははじめて」

彼女は言う。

「うまく慰められなくて、ごめんね」

「いえ、ありがとうございます。十分です。」


 数分して、彼女は手を僕の頭から離し、ベンチの方に歩きながらつぶやく。

「今日は、ここまでにしよっか」

僕は返事をしなかった。もう少し、彼女に頭をなでられていたかったなどと口を開いた拍子に言ってしまわないように。

「寒いし、また、こんどね」

彼女はそう言って手を振ると、軽い足取りで堤防の方へ歩き、去っていく。


 僕はその姿を見送り、自らも帰路に就く。家に向かって歩く最中、何度も彼女が触れた頭頂部に手をやる。深夜に家を出たときより、寒さが少し和らいだ気がするが、気のせいだろう。



 「それでさ、私と麻衣、どうしたと思う?テストに行きすらしなかったんだよ!笑っちゃうよね」

「笑いごとじゃないと思いますけどね。でも、昨日の今日で仲直りした報告が聞けて、良かったです。」

 隣に座ってケラケラと笑う彼女を横目に見つつ、僕は手に息を吹きかける。

 慰め合いをはじめて半年ほどだが、これまでは一週間に一回ほどの頻度で僕と彼女は顔を合わせていた。しかし、彼女に頭をなでられた次の日の夜に、僕は再び”虫のしらせ”を聴き、二日連続で河川敷の公園へ向かった。


「戦略的撤退だから」

「戦略的に撤退してない人ほど、そういう言うんですよ。」

「ねぇ、きみ、慰める気あるの?」

「ありますよ。そうだな、僕が中学生の頃の友人は、あなたのサボりエピソードがかわいく見えるくらい、サボり魔でしたよ。」

「へぇ、君にも友だちなんていたんだ」

純粋な疑問を次々と投げかけては大人を困らせる小学生のような屈託のない声で反応する。

「あなたこそ、慰める気ありますか?普通に傷つきましたよ、今のは。」

「あー、ごめんって!それで?その友だちはどんなサボ魔エピソードを持ってんの?」

 僕は、何のエピソードを話そうか少し考え、中学時代の横井との思い出を頭の中で探る。

「僕の友だち、横井っていうんですけど、僕と横井は、よく授業をサボって学校の裏にある高速道路の工事現場によく行ってたんです。」

「あれ、君も一緒にサボってたんだ、それはちょっと慰められたかも」

「高速道路の工事現場といっても、用地が確保されているだけでまだ本格的な工事はずっと南側でやってるから誰もいない空き地みたいになってたんですよ。」

彼女は、口をはさむのをやめ、僕の方を向いたままベンチに軽く座りなおした。

「僕と横井は、その工事現場がお気に入りの場所で、週に二回くらいは昼休みに学校を抜け出して午後の授業をサボってそこで音楽を聴いていたんです。」

 僕は、当時のことを思い出しながら、話をつづけた。


「横井は、とにかく音楽のセンスがあるやつでした。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

七草 水上柚莉 @yurimi_nanairo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ