第2章 「"虫の知らせ"」

 僕は、"虫の知らせ"を聴くことができる。それを明確に自覚したのは僕が中学二年生の時である。梅雨が明けてよく晴れた七月上旬のあの日、僕は中学校を早退し、自転車で家路についていた。



 昼休み終了五分前の予鈴が鳴り、五時限目の授業が行われる美術室に向かう途中に、慌てた様子の担任が僕を呼び止め、祖母が交通事故に遭ったと伝えてきた。

「そうですか、伝えてくれてありがとうございます。松井まつい先生。」

「ああ、お母様はすぐにでも病院に来てほしいみたいだ。上川、早退していいぞ。」

「はい、そうします。」

「おお。」

 担任の松井先生は肩透かしにあったような表情で、廊下をもと来た方向に戻っていった。僕はその場にしばらく留まった後、誰もいない教室に戻って帰り支度をした。


 松井先生は僕がもっと驚くと思ったんだろうな、と自転車を漕ぎながら思った。

 事実、僕は祖母が交通事故に遭ったというビックニュースを聞きながら、努めて冷静に応対した自覚があった。僕から目線を逸らして職員室へと戻る松井先生の表情が、その違和感を物語っていた。

 通常、親しい人間が交通事故に遭ったという知らせを聞いたならば、大人であっても多少は動揺した様子を見せるだろうが、僕はそうしなかった。動揺がなかったわけではない、あえてそれを見せないよう意識したのだ。なぜなら、祖母が交通事故に遭ったこととは別のことがその動揺の原因だったからだ。


 松井先生の知らせを受ける数分前、それこそ昼休み終了の予鈴が鳴る少し前に、僕は声を聴いた。

『おばあちゃん、死んじゃうよ』

 その声は、語りかけるわけでも、囁くわけでもない、直接聴神経に刺激を与えられたような、不思議な感覚になる声であった。幻聴かと思ったが、確かにその声はそう言っていた。

 教室の中や廊下は昼休みが間も無く終わることもあって騒がしく、誰かが発した言葉を明確に聞き分けることは困難であったし、声が聞き分けられるほどの周囲には、机に突っ伏して寝ている、あるいは寝たふりをしている横井よこいの姿しかなかった。

 横井は当時僕が唯一友人と呼べる男であり、この教室で僕に声をかけてくるとしたら横井くらいだが、僕が聴いた声の主でないことは確かだった。横井は、僕が聴いた声のような趣味のワルいことは言わない男であり、そういった面に関しては、僕は横井に全幅の信頼を置いていた。

 では、その声の主は誰なのか。いや、それよりも声が伝えた内容だ。祖母が死ぬ?朝、僕が家を出る時、元気そうにラジオ体操をしていた祖母が?馬鹿らしい。

 そんなことを考えていた矢先の交通事故の知らせに、僕の心臓は早鐘を打ったように動悸をし、手に汗が滲む感覚があった。

 それでも、思春期特有の見栄はりな理性が、そんな経緯を知らない松井先生の前で大袈裟に取り乱すことを許さなかった。それでも、僕の胸は重ったるく腹にのしかかり、息をするたびにその重さは増していくようであった。



 これが、僕が明確に"虫の知らせ"を聴く能力を自覚した時の記憶だ。祖母は結局、事故の数日後に息を引き取った。その後も折に触れて"虫の知らせ"を聴くことがあり、決まってその声の通りになる。

 僕は、虫の知らせという言葉をGoogleで検索し、僕に備わった謎の能力について少しでも理解しようと試みた。検索にヒットした解説記事をいくつか拾い読みした結果、虫の知らせにおける「虫」とは元は中国の宗教である道教の教えに由来し、「三尸さんし」という人間の身体の中に住んで人間の悪事を天帝(閻魔大王)に報告する三匹の虫のことを指し、そのような教えから、悪いことが起こる予感がすることを虫の知らせと呼ぶようになったらしいということだけはわかった。

 しかし、僕が聴く"虫の知らせ"は、良いことも悪いことも関係なく、この後起こる何かしらを伝えてくる。そのため、Google検索で得られた情報と照合すると、僕のこの能力は虫の知らせではなく、予知能力や第六感と呼ぶ方が適切なのかもしれない。それでも、自分に備わったこの能力に愛着を込めて、初めて自覚した時に聴いた声が祖母の死を予知する内容であったことも踏まえて、僕はその声を"虫の知らせ"と呼んでいる。





 母の部屋の扉の前に立ち、静かな寝息が聞こえることを確認した後に僕は玄関へと向かう。早くしないと、父が起きてきて工場へ向かう準備を始める時間になってしまう。

 父は四時の出勤に合わせて一時から一時半の間には活動を開始する。そのため深夜に外に出かける場合は父に会わないために時間を見計らわなければならない。

 『今日はあのひとがいる』

 学校からの課題を終えて、漫画雑誌を開いていたときにその声を聴いた僕は、家を出て河川敷へ向かう道を走る。自転車は、父が出勤する時にもしも無いことに気づいたら面倒なので、使えない。

 十一月の深夜は、さすがに寒さが厳しかったが、走っているとだんだんと暖かくなってくる。

 河川敷の公園につながる堤防の階段の下まで着くと、息を整えて階段を登る。あの女の前にゼーハーと息を切らせた状態で現れたくはない。堤防から河川敷を見下ろすが、ぽつぽつと光る街灯だけでは目的の人影を見つけることはできない。

 堤防から河川敷に降り、目を瞑っていても辿り着けるほど何度も歩いた道を通って公園に向かう。そこには、"虫の知らせ"で聴いた通り、一人の女がベンチに座っている。


「あ、来た来た!今日は君がくるって予感がしてたんだよね!」

彼女は白い息を吐きながら振り返って手を振る。

「そうなんですね。」

「うん、虫の知らせってやつ?」

「虫の知らせは悪い予感がする時に使うんですよ。」

「あ、そうなんだね?でも、そういうツッコミをしてくれるってことは私に会えることを君は悪いことだとは思ってないわけだね」

「まあ、そうかもしれないですね。」

図星を突かれたことを悟られないように、声のトーンを抑えながら返答する。

「素直じゃないねぇ、もしかしたら私が君に会うことを悪いことだと思っていたかもしれないじゃない」

「そうなんですか?」

「いや、そんなことはないけど」

「じゃあ、よかったですね。お互いに。」

そう言いながら彼女が座るベンチの隣に腰を下ろす。

 隣に座る彼女に視線を送る。月明かりが淡く反射する艶のある黒い髪をした彼女は、赤いセーターの上に黒いフード付きのダウンジャケットを羽織っている。髪は肩のあたりまで伸びて外側にハネている。目鼻立ちがしっかりとしており、正面から見るよりも横顔の方がよりその顔立ちの綺麗が際立って見える。正直に感心してしまうほど整った造りの顔をした彼女だが、それを鼻にかけることもなく初めて会った時から今日まで変わらずフランクに僕に話しかけてくる。

「今何考えてた?」

「あなたに初めて会った時のことを。」

隠す必要もないので正直に答える。彼女が問いかけるフランクな口調は、自然と正直に言葉を返したくなる不思議な力がある。

「ああ、君と初めて会ったのは、半年くらい前だっけ?花粉症がようやくおさまって外に出たくなった頃だったよね」

「そう、5月ですね。散歩しててここに来たら、あなたがいたんです。」

これは、嘘だ。正直に言葉を返したくなる力に抗って、意識して嘘をつく。

「ねぇ、それ前も言ってて、思ったんだけど、なんで散歩しようってなって河川敷の公園まで来たの?」

「そんなの、覚えてませんよ。」

「ふぅん」

実際は、その時『河川敷の公園に行くと、君に良い出会いがある』という"虫の知らせ"を聴いたからだ。

 彼女は僕の言葉の真偽をじっくりと判定するかのようにじっと僕の目を覗き込む。その顔には微かに笑みが見てとれる。僕は目を見返すことができず、川が流れているであろう方向へ目線を移す。

「まあいいや、さあ、今日もはじめよっか、慰め合い」

「そうですね。」

視線を彼女に戻すと、彼女はまだじっと僕の目を見つめている。ただ、今度は笑うわけではなく、ただ静かに見つめている。


 十一月の寒空の下、河川敷のベンチで並んで座る男女がお互いの近況や愚痴を言い合い、聞き合う、慰め合いがはじまる。

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