七草
水上柚莉
第1章 「上川家」
金木犀の香りもとっくになくなり、乾いた冷たい風が吹き抜けるようになった十一月の下旬、高校からの帰り道にあるスーパーで夕食の材料を購入する。
「今日は一段と冷えるな。」
誰にいうわけでもなくそうつぶやくと、買い足しを終えた僕はコートの襟を寄せて家へと続く路地を歩く歩調を早めた。
玄関を開け、ただいまと投げかける。もちろん返事はない。聞こえるのは居間のテレビで流されている地方テレビ局のワイドショーの音のみだ。食材を冷蔵庫にしまうためにキッチンへと向かう。
両親が二十年前に購入した九十五平米程の一戸建ては、僕が幼い頃は部屋の模様替えを何度か行うことがあったが、現在の部屋は十年前のそれと変わっていない。玄関を上がって左手にあるドアを開けてキッチンに入る。それぞれ十畳のキッチンと居間は引き戸を隔ててつながっている。キッチンの冷蔵庫を開き、買い足した食材をしまい込む。
引き戸を締め切った居間からは、変わらずテレビの音が聞こえている。十八時を回り、ワイドショーから夕方のテレビ番組に移り変わったのだろう。男性アナウンサーが夜の挨拶と今日のトップニュースのラインナップを読み上げている。
食材をしまい込んだ後、引き戸を開いてテレビを見ている人物に声をかける。
「ただいま、親父。」
父は目を凝らしてみてもわかるかわからないかくらいこちらへ顔を向け、すぐにテレビに向き直った。
僕は引き戸を閉じて二階へ向かい、一番奥の部屋の扉をノックする。
「帰ったの?お帰りなさい。」
「ただいま、鍋の食材買ってきたよ。」
「ありがと。」
扉の奥から咳き込む声が聞こえる。
「ごめん、もう少しかかりそうだから待っててくれる?」
「わかった。野菜切っとく。」
「ありがとね。」
階段を降りてキッチンに向かい、先ほど買ったばかりの白菜を切り始めた。キムチ鍋か豆乳鍋かを迷ったが、二階の扉の奥から聞こえた咳の声を思い出し、豆乳鍋のもとを棚から取り出す。
野菜を切っていると、二階から足早に階段を下る音が聞こえ、キッチンのドアを開けて母が入ってきた。
「ごめんね、おじいさん最近調子悪いみたいで。」
「そっか、大変だね。」
「うん、病院に通う回数も増えそうなんだって。」
それに返す言葉は出てこなかった。
今年で五十歳になる母は、くたびれたベージュのエプロンを付けてキッチンに立ち、僕の作業を手伝い始めた。八十歳の祖父は、今年に入ってから物忘れがひどくなり、夏を超えたあたりから体調も崩しがちになった。母は夏前までほぼ毎日十六時まで近所のドラッグストアのパートに出ていたが、最近は祖父の介護に追われてシフトを削らざるを得ない状況になっている。
父は大手メーカーの子会社の工場に勤務しており、早朝に仕事に向かい、夕方に帰宅する。帰宅した後はひたすら居間でタバコと酒を嗜み、テレビを見る。もうしばらくしたら夕飯も食べずに寝床に向かうだろう。いつもどのタイミングで食事を済ませているのか僕は知らないが、特に知りたいとも思わない。父の年齢は、いくつだったであろうか、十年近く前に四十五歳だということを聞いた記憶がかすかにあるので今年で五十五歳くらいなのだろう。
父とまともに会話したのは一年以上前だし、毎日挨拶はするようにしているが、父の反応はさっき僕にした通りだ。母とは僕以上に長い期間まともな会話をしてはいないだろう。
僕にとって今の父親は、廃墟マニアにもその存在を忘れられた打ち捨てられた建造物のようなもので、空っぽという表現がぴったりと当てはまる。なぜこのような状態になったのか、僕は知らない。父母と一緒に出掛けた記憶など、小学校に入学する前まで遡らなければならないほどである。
出来上がった豆乳鍋を温かいうちに母と一緒に食べた。寒さが厳しくなりはじめた季節に食べる鍋は好きだ。やはり、豆乳鍋にして正解だった。
食べ終わると僕は風呂に入りに行き、母はほどよく冷めた豆乳鍋を祖父のもとに持っていった。父は僕たちが鍋を食べ始める頃にはテレビを消して寝床に向かっていった。
風呂から出ると僕は自分の部屋に向かい窓を開け、まばらに光る民家の明かりと、農作物の影をわずかに見て取れる暗い畑を眺める。湯冷めしそうになる程冷たい風が吹き込むので、外を眺めるのも程々に僕は窓を閉じた。学校の課題があることを思い出し机に向かう。
今日中に終わらせる必要がある課題は終わらせたが、それ以上の勉強に集中して取り組む気も起きず、スマートフォンで音楽を流しながら、本棚から漫画雑誌を取り出し、ぱらぱらとページをめくった。
僕が通う高校は、地元では上から三番目程度の偏差値の公立高校であり、年が明ける頃には「三年0学期」を掲げて大学受験に向けた補習や勉強会がはじまるだろう。僕も例外なくその渦に巻き込まれることになるが、未だに行きたい大学など考えたこともないし、そもそも自分が将来どんな仕事に就きたいかもわからない。
義務教育段階でのキャリア教育の失敗例だと、僕は自分自身を評価する。
母はもう寝ただろうか?
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