第10話 センセーの怒り
センセーが家に来てから、家の中の空気が少しずつ変わってきていたのが分かる。だって、あの母が私にあまり辛く当たらなくなった。ご飯の差別も、少しだけ変わってきたような気がする。少しずつ平等に、なってきている気がする。
希望的観測でなければ――でも、だからこそ、私は油断していたのかもしれない。
「勉強で聞きたいことがあるから部屋に行くよ」
「うん」
「……海木くんと真乃花、随分仲が良いのねぇ」
「おばさん、それ、遠回しに俺の事をけなしてる?どうせ真乃花に教えてもらわなきゃ、赤点を回避出来ない頭だよ」
「そんなこと言ってないわよ~。真乃花が役に立つなら良かったわ。しっかり教えてあげてよね、真乃花。あなたに出来る唯一の事なんだから」
「そ、そうだね……」
「おばさん、言い方」
「あら、ごめんなさーい。じゃあ――しっかりね?」
「……うん」
私は母の恐ろしさを、見くびっていた。
その一言に、尽きる――
◇
「できた!」
「色々ありましたね」
「センセーがたくさん教えてくれたからだろ」
「あなたが世間の事を知らなさ過ぎたので、つい口出ししてしまいました」
二人して、私の部屋でテーブルに置かれた紙を覗き込んでいる。紙には、文字がずらりと並んでいた。一番上には「私のやりたいこと」と言う文字が書かれている。
「この家を出て、自由になって、私がやりたいこと……こんなにあるんだな」
「服を買う、好きな漫画を買う、映画を見に行く。そしてゲームをする――うーん」
「!?」
さっきは褒めてくれたのに、なんでため息!?「不満でもあんのかよ」と言うと、センセーは困った顔で尚も画面を見続ける。
「いやね、だって、あなた女子高生でしょう?もっと、こう……恋がしたい――とか、ないんですか?」
「え」
言われてみれば……確かに。
「でも、服買いたいとか、こういうのは女子っぽいだろッ?」
「そうですけど……あなたの場合、メンズの服を買いそうな気がします」
「さすがにそれはねーよ!」
バシッとセンセーを叩く。すると、やっぱりセンセーは柔らかくて……。私は、人の感触に、少しだけ安心する。
「なあセンセー。人って、柔らかいんだな」
「え……」
「え?」
「……いや、何でも」
「?」
目を開いて驚くセンセー。な、なんだよ。私そんなに変なこと言ったかよ。
「なに?」
「だから、何でもないですって」
していないメガネをスチャとかけ直すしぐさをした後、センセーは再び画面を見る。センセーは海木の姿に少しずつ慣れてきてるらしいが、メガネの癖だけは抜けないらしい。
「で、あなたの恋の話でしたっけ?」
「(話をはぐらかした?)」
不自然なセンセーの態度……違和感を覚える私を置き去りにして、センセーは勝手に話を進める。
「大樹くんに恋をしているから、したいことリストに”恋がしたい”と書かないのですか?あなたも一途ですね」
「い、一途っていうか……!いや、だから……こんな私と結婚しよなんて言ってくれる奴は、大樹しかいねーよ」
「なるほど。となると、大樹くんを選んでいるのは消去法ですか?」
「は?」
瞬間、耳を疑った。
「自分と結婚してくれるって言ってくれたから、大樹くんに恋をしているのですか?」
「え、ちょ、」
「恋をしている――という言い方ではやや曖昧ですね。では、単刀直入に聞きます。あなたは大樹くんの事を好いていますか?」
「!」
なんか、恋バナみたいな感じになってきた。いや実際は恋バナなんだけど……なんだろ。センセーからの圧が、重い気がする。
「わ、分かんねーって言ったら?」
「自分が大樹くんの事を好きか分からない、という事ですか?」
「いや結婚はしてーよ。恋もしてるって……思ってたよ」
さっきまではな。
「でも、そんなに掘り下げて話されると、混乱するだろ。もう六年も会ってねーんだ。前も言ったろ、大樹との思い出を忘れかけてんだよ、私は!」
その言葉に、センセーは首を傾げた。
「あなたと大樹くんほどの関係がありながら、その思い出を忘れるなんてこと、ありえますかねぇ?」
「な、なにが言いたいんだよ?」
「いえ、私はただ……」
「ただ?」
「……いえ、今はよしておきましょう」
その言葉に、私の体がガクッとズレた。
「今言わずにいつ言うんだっての!」
「まあまあ。またいずれ、ね?」
上手い事はぐらかされた気がしたけど、こういう時のセンセーはテコでも考えを変えねー。一度言わないと決めたら、絶対私には言わない。分かってる。だから私も、自分の聞きたいことを聞くとする。
「なあセンセー、恋をしてる事と好きな事は、違うのかよ?」
「え?」
「その辺の事が、その……わかんねーんだよ」
グッと下唇を噛む私を見て、縁センセーはハッとした表情をした。
「……私、さっきの質問攻めで、あなたを混乱させちゃいましたかね?」
「うん、バッチリ」
生まれて初めてする恋バナ。まさか、その相手が縁センセーだとは思わなかった。だけどセンセーは大人なくせに、全然相談相手にならねー。むしろ水を差してきやがったぞ。
「私は大樹を待ってる。結婚したい。恋をしてると思ってる。それは大樹を好きってことに繋がるんじゃねーの?」
「数学の証明みたいになってきましたね……」
「センセーのせいだろ」
「古典専攻の私には辛いです……」
「(自業自得じゃねーか)」
だけど……うん。私の仮説は、合ってると思う。
「きっと私は大樹の事をずっと好きなんだよ。じゃねーと、こんなに長い間、待たねーだろ?」
「……」
不満そうな顔のセンセーに、私の口元がひくつく。
「なんだよ、その”もう一押し”みたいな顔は」
「いえ、実際”もう一押し”なんですよ」
「は?」
意味が分かっていない私とは反対に、センセーは口元に手を当てて何やら考えている。そして――
「もっと大樹くんを自覚してもらわないと、困るんですよ」
何かをボソッと呟いた。
「え?何か言った?」
「――いえ、何も」
「そっか……」
「……」
変に沈黙になったので「なあ、もうこの話やめね?」と手をパンと叩いた。
「なぜですか?」
「いや……だって……」
「恥ずかしいんですか?」
「う、うっせーな!大体、センセーも詳しくないだろーが!恋愛の話なんて!」
断言して言い切ると、意外なことにセンセーは「いや」と手を挙げた。
「私も人並みには恋愛をしてきたんですよ?」
「はあ!?」
「まあ、ここから先は大人の領域なので詳しくはお話できませんが」
「(大人のって……)」
つまり、あんなこと……そんなこと……だよな?
「(スケベ!!)」
顔を赤くして、ただ黙って俯く。センセーはセンサーがついているかのように、照れている私に素早く反応した。
「そういう反応を見ると、本当に女子高生ですね」
「そ、そういう反応ってなんだよ!」
ムキになって言い返すと、センセーが笑う。そして私の鼻を摘まみながら、近づいてきて、耳元で一言――
「そういうウブな反応ですよ」
「っ!」
思ってもみなかった大人の色気を見せられたようで、赤面する。
いや、ズルい!
卑怯!
特にセンセーがそういうことするの、嫌だ!なんとなくだけど!
「そ、そーゆーのやめて!」
「おや、耐性をつけてあげようと思ったのですが」
「余計なお世話!」
ネコのように毛を逆立てて警戒する私に、縁センセーは「どうどう」と冷静に対処した。私だけが焦って、センセーが落ち着いているのは……なんかムカつく。そのすました顔を、困らせて見たくなる。
「(あ、いいことを思いついた!)」
私に困った顔を見せてみろよ、センセー。ちょっと無謀な気もするけど、なんせ花の女子高生。色仕掛けで出来ない事はない――と信じたい。
「なあセンセー」
「なんですか」
「今まで生徒から告られたことあんの?」
「ありませんよ」センセーの無表情な鉄壁顔は崩れない。
「第一、私はそういうのは無縁でしたからね。教師の仕事に一生懸命で、社会人になってから恋愛は皆無です」
「ふーん。そっか、じゃあ……今、試してみるのはどう?」
「……は?」
お、表情が崩れたぞ。と言っても、怒っている感じ。
「あなた、冗談なら怒りますよ?」
「怒ってみれば?」
余裕な表情で答える私に、センセーは「何を悪だくみを考えてるんだか」とぼやいた。
「あなたには大樹くんがいるでしょう」
「練習だよ。実際に会った時に、ギクシャクしたくねーんだよ。恥ずかしいだろ」
「練習って……はぁ」
珍しく、困った顔のセンセーだ。
うんうん、面白くなってきた!
「あなたはもっと一途な子だと思ったんですがね」
「……一途だよ。そりゃね」
だって、今はからかってるだけだし。センセーをぎゃふんと言わせたいから。困った顔が見たいから。ただそれだけで、こんな事を言っている。
「(だけど、変なんだよな)」
――あなたは大樹くんの事を好いていますか?
――わかんねーって言ったら?
あの時、「大樹が好き」って言い切れなかった。それが地味にショックだ。
チラッ
目の前にいるセンセーを見る。そうだよ。私が大樹のことを好きって言えないのは、縁センセーのせいだ。
「(無駄にドキドキすんだよ。センセーのことを意識しちまうんだよ。それもこれも、同居しててずっと一緒にいるからだよな?)」
よし、うん。そうに決まってる。顔をパンパンと力強く叩くと、幾分か私が正気に戻った。深呼吸を繰り返す。
「(いくらセンセーの困った顔が見たいからって、何が恋の練習だよ。何をするつもりだったんだよ私……)」
今更ながら、自分の大胆さに焦る。これじゃどっちが困った顔をしてんのか、分かったもんじゃねーな。
「(ん?そういえば……)」
いやに静かだな、センセー?
見ると、センセーは止まっていた。私を見たまま、微動だにしない。
「センセー?大丈夫?」
「……あ、すいません。えぇ、何でもないです」
「(本当かよ?)」
心配になって、おでことおでこを引っ付ける。
ピトッ
「な、なにをっ!」
「うるせーな。熱があるか確認してんだよ。
ん、熱はなしだな」
「た、体温計があるでしょう!?」
言った瞬間、センセーはハッとして止まる。うん、この部屋にそんなものはないし、母に言ったところで「元気そうよ」と言われ、いつも貸してもらえなかった。あるはずのものが、この部屋にはなさすぎるんだよな。
「でも、この方法もいいよな。おでことおでこ。私は案外好きだぜ」
「……っ」
グイッ
その瞬間、私はセンセーに抱きしめられる。ギュッと、温かくて柔らかい体温に包まれた。
「な、ん……?」
「いいから、今は黙って私にこうされていなさい」
「(命令!?)」
「幽霊だって、抱きしめることは出来るんですよ」
「いや今の姿は海木だろ!?」
「そうでした」
「(いつにも増してテキトーな!)」
センセーの”テキトー”に付き合って、大人しく抱かれたままでいろって!?なに考えてんだよ、センセー!
「(ひー!センセーの体温が直に……!こんなん心臓もたねーよ……ッ)」
するとセンセーは、パニックになっている私を察してか、体をゆっくりと離した。
「(ホッ、良かった)」
けど、安心したのもつかの間。
「あなた、さっき練習がしたいって言ってましたよね?」
「へ?」
センセーの真剣な顔が、私の両目に写る。身動きは、出来なかった。
「後悔しないでくださいね。練習は、これからですから」
「え、ま、えッ?」
センセーの顔が近づいてきて、そして、有無を言わさず私に「目を閉じろ」と訴えかけてくる。
「ちょ、センセ……っ!」
「シー、静かに」
「!」
これは、まずい……キスされる!
反射的に、ギュッと目を閉じた。そこに期待がなかったって言ったら、嘘になる。
ドキドキ
「(くそ、こうやって意識しちまうんだよな……!)」
私の胸の音が、センセーにも聞こえるんじゃないかってくらい高鳴っている。
「(静まれー静まれー静まれー……!)」
必死に自分を落ち着かせる。
だけど――
「(ん?)」
待てど暮らせど、センセーの唇は来ない。というか、センセー動いてなくない?不審に思って目を開ける。すると、そこには――
「……うっ」
「センセー!?」
頭を押さえて苦しんでいるセンセーがいた。
「ちょ、え、なに?大丈夫なのかよ!」
こういうのは、揺らしちゃいけねーんだよな?でも、ただ見てるだけってのも……っ。
ギュッ
私は不安感に駆られ、さっきセンセーがしてくれた事を返した。
「しっかりしろ、センセー……!」
するとセンセーは痛みが抜けていったように「はぁ」と短く声を漏らしたかと思うと、私に全体重をかけて寄りかかった。
ドサッ
もちろん、男の人がいきなり体重をかけてきたら支えきれないわけで……私はセンセーに押し倒される形で床に倒れこむ。
「いってぇ……ちょ、センセー?大丈夫?」
なんとかして頭を上げると、眉間にシワを寄せたまま目を開けないセンセーがいた。浅い息を繰り返しているから、眠っているだけ?にしても、すげー汗だ。
「どうしちゃったんだよ、センセー……」
手で、センセーの汗を拭う。汗は少しずつ乾いてきて、冷たくなっていった。その冷たさは、まだ憑依していない「幽霊のセンセー」を思い出して……まさかこの不調は、センセーがいなくなってしまう前触れではないかと、背筋が凍る。
「消えるなよ、頼むよ、センセー……っ」
成仏させるために頑張っているわけだけど、まだセンセーにはいなくなってほしくない。
「(ずっとそばにいて……なんて言えないけど……私、もう……一人じゃ寂しいんだよ)」
学校でも家でも、今までどうやって一人で過ごしていたか、忘れてしまった。
「センセー、ずりィよ……」
だって学校でも何の問題もなくクラスに混じって、常に私と一緒に行動してるじゃん。私が一人にならないようにって、ずっと傍にいてくれるじゃん。
「(私、それが嬉しくて、楽しくて……仕方ねーんだよっ。だから今更、一人にさせんじゃねーよ)」
家にいても学校にいても「楽しい」って思ったこと、今までなかったんだ。だからセンセー、もう諦めてよ。
「成仏することを諦めて、私の傍にいてよ……」
この時、自分に必死で気づかなかった。
「センセー……」
「……っ」
センセーは既に目を開けていて、私の声を聞いた後に、苦悶の表情を浮かべていることに、私は気づかなかったのだった。
◇
センセーが体調を崩して衝撃を受けた翌朝。私は更なる衝撃を重ねることになる。
「なに……これ……」
起きて、まず驚いたのが、私の部屋の私のテーブルの上に置かれていた、紙。よく知っている紙。それは――
「私のやりたいことを書いた紙……この紙が、どうして、ここに……?」
紙を持つ手が震える。だって、この紙は昨日……ちゃんと隠した。部屋に誰が入ってきても見つからないように、きちんと!だけど、テーブルに置かれている。「見ろ」と言わんばかりに、丁寧に真っすぐ置かれている。
「……まさか!」
バタンと部屋を出る。一気に階段を駆け下りる。すると……
「ぷっ、おねーちゃん。こんな普通の事も出来ないの?」
「ほ、穂乃花……」
「だっさー。おねーちゃん、本当に何のために生きてるの?こんな娯楽も出来ない女子高生なんて、死んでるも同然だよ?」
キャハハという笑い声とともに、穂乃花が持っている紙は破られる。なんで、その紙が、まだあるの……?あれは一枚しかないはず!すると、どこからともなく現れた母が言った。
「コピーして皆に配ったからね。まあ皆って言っても、この家の皆しかいないけど」
「く、配った……?」
「だって、あなた……ねぇ?」
クスッと笑われる。穂乃花にも、母にも……。その笑みを見ると、みるみる恥ずかしくなって、私は身動きが出来なくなった。そこへトントンと階段を降りる音が聞こえる。センセーだ。そのセンセーが皆の前に姿を見せて、開口一番言ったことは……
「どういうこと、おばさん。なんでこんなものが俺の机に置いてあるの?」
「(センセーの机にも!?)」
センセーが持っていた紙も「私のやりたい事」が書かれた紙だった。
「真乃花がこんな事を考えているなんて、知らなかったから。皆にも知ってもらおうと思って」
「部屋に忍び込んだの?真乃花が寝ている間に盗んで、皆が寝ている時に机に置いたの?」
「忍び込むなんて、人聞き悪いわぁ。だって親ですもの。娘が何をコソコソしているかは知っておかないといけないでしょ?」
「!」
母の言葉に、センセーの顔色が変わる。
「(ごめんな、センセー……)」
昨日、倒れたくらい体調悪いはずなのに、また今日も具合を悪くさせちまうな……。だって、母の言葉は「毒」そのものだから。他人が聞いてても、すげー気分悪くなるんだ。
「(ごめんな、ごめん……)」
結局、昨夜はセンセーは自力で起き上がって自室へ戻った。真っ青な顔をして……。何でそうなったのかは、聞くことは出来なかった。センセーに余裕がなかったから。でも――
「(今もそうだろ?センセー……?)」
昨日の夜ほどじゃないけど、センセーの顔色は尚も悪い。体調が万全じゃないのは、手に取るように分かる。だけど――
「はぁ……こんな事、言いたくなかったけど」
センセーの表情はみるみるうちに険しくなっていって……。今、話しかけたらいけない――そんな気がした。
「(もう、最悪だ……いろいろと)」
これ以上、ウチの恥ずかしい部分を見られたくないという思いと、これ以上、センセーに迷惑をかけたくないという思いと……。色んな感情が合わさって、思わずこの場から逃げ出したくなる。
「……っ」
委縮して、ずっと黙っていた私。そんな私を、センセーは一瞥した。そして――
「お前、最低だな」
母に向かって、そう言った。
「……なんですって?」
「(センセー……!)」
ついに言った。言ってしまった。母がもっとも嫌う、一言を。
「あんた狂ってるよ。娘をそんなにして楽しいわけ?随分惨めだね」
「な、海木くん……!?」
母の目が見開かれる。今まで母に反抗したことなかったセンセーが、初めて、その手に嚙みついた。
「不快なんだよ。あんたみたいな奴は嫌いだ」
「あ、あんたですって!?」
「前々から思っていたけど、なんで実の娘にそんなひどい事が出来るんだろうね。
親のすることじゃない」
「もう、やめて、セ……海木くん!」
「! ……わかったよ」
私の声は、二人に届いた。母はまるで過呼吸を起こしているように、浅い息を吐いていた。対してセンセーは……昨日の青い顔とは打って変わって、血色のいい顔色だ。
「(この様を、頭に血がのぼるって、いうんだろうな……)」
センセーが怒ってる――それは初めて見る、センセーの姿だった。
「(私のために……センセーッ)」
もうやめてほしい。私のために、ここまでするな。だって次は、センセーが何されるか分かったもんじゃねーだろ?すると案の定、母の口から出る言葉は、聞くに堪えないものだった。
「真乃花はねぇ、この家から出ることは許されないのよ!娘二人が家を出て行ってみなさいよ……誰が私の相手をすんのよ!ねえ、真乃花!?」
「(ビクっ!)」
「まさか私一人をこの家に残して出ていこうなんて思ってないでしょうね!?」
「(聞きたくない、聞きたくない……っ)」
耳をギュッと押さえる。お願い、今だけ母の声を遮断して。あの言葉を聞くと、私はきっと壊れてしまう……!
パシッ
「!?」
「行こう」
耳を塞ぐために硬くなっていた私の手は、センセーによって掴まれていた。それは、大きくて、力強い手だった。
「行こうって、ど、どこに、」
「決まってるだろ、ここじゃないところだ」
「で、でも!」
廊下をズンズンと突き進むセンセーと私。すると後ろから「待ちなさい!」と母の怒号が追いかけて来た。
「海木くん!あなた最近、真乃花の周りをうろうろと……恥を知りなさい!あなたは預かってもらっている身なのよ!真乃花を惑わすようなことはしないで!この子は結婚も何もせずにこの家にずっといるの!」
「それは真乃花が決めたことなの?」
「親である私が決めるのよ!当たり前でしょ!」
「なら――聞く耳もたない」
ぴしゃりと、センセーが言い放った。鬼のような形相の母も、つい面食らってセンセーを凝視する。
「あんたがあんただけの人生を歩んで来たように、真乃花には真乃花の人生を歩む権利がある。そこには親の干渉も、監督もいらない。真乃花はあんたの操り人形じゃない」
「(センセー……っ)」
呆然とする母。母を睨むセンセー。もう、それだけで、涙が止まらなかった。私が今まではみ出さずに生きて来た道が、今、崩れる。こんなに母に歯向かって、センセーは今日からどうなるの?また一緒に暮らせる?いや、ひどい事をされるかも……。
「(それは、ダメ……っ)」
センセーだけは自由に――!
そう思うと、自分でも無意識のうちに体が動いていた。そして、その無意識は口でも働いて……
「母さん、すみません……」
私は、自分でも知らないうちに、母に謝っていた。そんな私の姿を「おい!」と言ってセンセーが制止させようとする。だけど――
「(センセー、許してくれよな)」
センセーの手をスルリと抜け、私は廊下に土下座をした。
「私が、間違っていました。ごめんね……」
「やめて真乃花。なにやってんだよ!」
「真乃花……やっぱりあなたは分かってくれたのね……!」
私は謝るよ。
何度だって謝るよ。
でも、それは違う。
母に謝罪したいからじゃない。
センセーを縛らないであげてほしいから。
「私はこの家にいます。ちゃんという事を聞く。でも……海木くんの事は許してあげて。この家に、おいてあげてほしい。これからも。海木くんが出ていく、その日まで」
「お前……」と歯を食いしばって言うセンセー。コロッと態度が変わり、嬉しさを前面に出す母。
「いーのよ、いーのよ。さっきの事は水に流しましょ。じゃあ、二人のカバンを持ってくるわね。これから学校に行かなくちゃね?」
そうしてしばらくして戻ってきた母の手には、確かに私たちのカバンがあった。
「あ、ほのちゃーん?あなたも、もう行かなきゃ」
「う、うん……わかったぁ……」
その時、どこか怯えたような穂乃花がリビングから顔を出した。その表情の意味が分からなくて、どこか不気味さを感じたけど……私とセンセーは家を後にした。
もちろん――
「この馬鹿!!」
「す、すみません……」
家を出てから開口一番、センセーは声を荒げて私を咎めた。それは今まで見たこともない怒り具合だった。
「なんであんな事を言うんですか!言いなりになりますって言ったようなもんですよ!?」
「実際、そう言ったんだよ……」
「だから、なんで!」
センセーがあまりに怒るもんだから、つい白状する。
「センセーが家から追い出されるのが嫌だったんだよ……。それに、センセーの身に何かあったら嫌だし」
「……何かって、」
「知らねーよ。でも、何でもしそうだろ。ウチの親。センセーが別の居住地を見つけたとしても、すぐに見つけそうだろ。ウチの親」
すると「その通り」と思ったのか、センセーが「はあ」と深いため息をつく。
「振り出しに戻っちゃったじゃないですか。私、いつになったら成仏できるんです?
もう少しで、あなたをあの家から救出できると思ったのに」
「……だから悪かったって」
指を耳栓代わりにして、奥まで突っ込む。センセーにここまで怒られるのは意外だったけど、でも、これで良かったって思ってる。だって――
「なあセンセー。幽霊条約に書いてねーのか?」
「何をですか?」
「成仏できる方法は変更できる、とか」
「……怒りますよ」
「聞いてみてるだけだろ」
口をとがらせて反省する気のない私を、センセーはため息をついて見た。
「言っておきますが、例え内容が変更できるとして、あなたを放っておいて私が成仏できると思いますか?気になって天国に行けれませんよ」
「(天国に行けると思ってるのか……なんか可愛いな)」
そのポジティブさに、少しだけ笑いが出た。センセーは何となく察しているのか、咳ばらいを一度だけして「とにかく」と話を続ける。
「あなた一人だけ犠牲になって終わり――では、あまりにも後味が悪すぎます。大樹くんを見つけ、あなたはあの家から逃げる。それがあなたの望みである幸せです。さっきは、ちょっと私が先走り過ぎましたが……。だけど、この先のあなたには望みがある。幸せがある。その幸せを掴めない限り、私は成仏できないと思ってください」
「その言い方だと……成仏できる方法は変更出来る事もあるってわけ?」
「だから、怒りますよ?」
ギロッと本当に睨まれて、思わずすごむ。私は力なく「はは」と笑った後に、下を見た。意味はない。ただ、前を向く気にはならなかったから、下を見ただけだ。
「はあ、仕方ないですね」
「センセー……?」
その様子を、一部始終見ていたセンセー。「今だけですから」と、私の手を優しく掴み、そしてガラスを扱うかのように、握ってくれた。
「(あったかいな……。センセー……せっかく私の傍にいてくれてるってのに、何も恩返しが出来ねーよ)」
なあ、センセー。例え憑依しているとはいえ、この世に留まっている今だけでも、幸せに生きてくれよ。センセーが私の幸せを願ってくれていると同じように、私も、センセーの幸せを願ってんだよ。
――真乃花には真乃花の人生を歩む権利がある
――そこには親の干渉も、監督もいらない
――真乃花はあんたの操り人形じゃない
センセーが母に言ってくれた言葉を思い出す。すると、目の奥がジンジンと熱くなってきた。
「(センセー、私の今の幸せは、全部センセーから貰ってんだぜ)」
ポト
地面に落ちたシミは、私が歩いた後に続く。雨ではない、私の目から涙が落ちたせいで出来たシミ。そのシミにセンセーが気づいているのか、違うのか――
「雨、今だけ降りませんかね」
センセーはそんなことを、晴れ晴れとした青空に向かって呟いたのだった。
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