第3話 センセーとメール

私の母は、間違いなく私を愛してくれていた。


妹の穂乃花が生まれるまでは――


今こそ元気な穂乃花も、小学校に入るまでは病弱で、何度も入退院を繰り返していた。母は付きっ切りで看病をする為、少々の事で風邪をひかない元気いっぱいの私は、よく母の実家の祖父母に預けられた。入院で会えない日が続くと、母よりも、毎日優しくしてくれる祖父母の方に私が懐くのは、子供ながら仕方のない話だと思う。


けど、心の底から好きなのは、やっぱり母で……。


口では「じーじばーばの方が好き」なんて言っていたけど、でも会えない母を想うと、寂しいからこそ、そういう言葉を吐いて虚勢を張っていた。母も、子供の私が考えそうな事は分かっている――はずだった。だけど、連日連夜の看病に追われた母の心に、私の「ワガママ」が入る隙間はなかった。


だからある日、こう言われたんだ。



――じゃあ、じーじばーばの家の子になろうね



そう笑って、私を置いて玄関の扉を閉めたあの日。あの日から、母の私への憎悪はメキメキと成長し続けて――数年経った今も、膨張し続けてとどまるところを知らない。虐待、DV――そんな類の言葉が当てはまるんだろうけど、トリガーを引いたのは私だ。


幼な心に、母が大変な状況だと分かっていたのに、私の方を見てほしくて……母に構ってほしくて。それだけの、いわば私のワガママで発した言葉が、まさか数年経った今も尾を引くことになるとは、あの時の私には予想できなかったことだ。


玄関の扉を閉められたあの日――母は、私との心の接触も遮断した。そんな親子の末路は、冒頭で説明した通り、まあ、ひどいもんだ。


父は単身赴任で全く帰ってこないし、妹は、前述したとおり、母が私にする言動を、まるでサーカスを見ているかの如く楽しそうな目で見つめている。たまに加担をすることはあっても、救いの手を伸ばすことは一度たりともない。


いわば、背水の陣の中……家でも学校でも味方のいない私の人生。そんな人生の唯一の楽しみは、夜な夜なこっそり家を抜けて、近くの公園に行くこと。それだけが、私の息をつける場所となっていたのだ。



「はぁ~、やっと肩の力が抜ける」



公園にいる間だけ、私は楽に呼吸が出来る。だから、毎回必ず、絶対バレないように家を抜けて、そして戻っていた。はずなのに――



「どうして、縁センセーにはバレたんだ?アイツ化け物か?」



縁センセーに車で送ってもらった、その日の晩。言い方を変えれば、「夜遅くに公園に行かないように」と注意を受けた、その当日の夜。私は例に漏れず、今日も、その公園に来ている。


時間は……23時。この時間になると、穂乃花も母も大抵は寝ている。



「はー……空気が美味しい」



まるで山の中に来たようなセリフ。でも、本当にそう思う。家の中で吸うのは、毒そのものだ。



「公園がなかったら、私はきっと、今頃は潰れてたんだろーな」



ギッ、ギッ


ブランコを揺らして、風を浴びる。家で付いた邪気を落とすように、スピードを上げた。いや、あげようとした。だけど、その時。



「こら」



ギッ


私が乗っていたブランコは、急な制止を受けて大きく揺れた後にビンと硬直して止まった。だけど乗っていた私は、その揺れに耐えられず、ブランコから投げ落とされる。



「う、わあ!?」



地面にたたきつけられる――!


そう思ったけど、いつまで経っても、痛みは来なかった。かわりにあったのは、柔らかい感触と、温かい体温。



「あ」



見上げると、縁センセーが、ブランコに投げ出された私を器用に受け止めてくれていた。



「縁、センセー……?」

「他に誰がいるんですか」


「いや……いないけど……」

「……」


「……ぷっ」



私を睨む縁センセーが、スッゴク変な顔してて、なんか笑ってしまう。あ、メガネをしていないから、こんなに顔がハッキリ見えるのか。実際には怒ってんだろーけど……真面目な顔が、変に歪んでおもしれー。



「なんでここにいんの?縁センセー」



抱きしめてもらっていた体を、どちらともなくゆっくり離す。いや、どちらかと言うと縁センセーの方がゆっくりで……。秒で私のことを離すと思っていたから、意外だ。



「それはこちらのセリフです。こんな時間にこんな所で何をしているんですか?

あなた、今日倒れたんですよ?」

「(また”あなた”って言う……)」



だけど、納得した。そうか、私が昼間体調が悪かったから、今も少し気を遣って接してくれてんのか。だから抱き留めた私を、あんなにゆっくり離したんだな。



「(なーんだ。それだけの理由か。つまんねーの)」



私がつまらなそーに口を尖らせた事に見向きもしない縁センセーは、更に説教をする。



「もっと自己管理能力を上げなさい。そんな事じゃ、いつか倒れてしまいますよ」

「もう倒れたっつーの。昼に。センセーのせいで」


「あなたの屁理屈を聞いてる暇はありません」

「(また”あなた”が出た……)」



説教するセンセーの顔が変だから笑ってやろうと思うのに、なんでか「あなた」って呼ばれると、何も言えなくなっちまう。むしろ、そう言われた私も、変な顔になってしまう。


なんでだ?



「聞いてますか?鶫下さん」

「きーてるよ」


「それに、忠告もしましたよね?この公園に来るなと。もう忘れたんですか?」

「……」



そんなの、衝撃的すぎて忘れるわけねーだろ。なんで、そんな事を知ってんだってな。



「私にそう言い聞かせた割には、縁センセーも今ここにいるじゃねーか。なんでだよ?」

「それは――鶫下さんなら、今晩も絶対に来ると確信があったからですよ」

「確信……」



予想じゃなくて、確信。そんなの、自分の忠告を百パー無視されるって分かってたってことだよな?



「切ない確信だな。

っつか縁センセーって、やっぱ変だよ」

「……全く嬉しくないのですが」



ハハ!と笑うと、センセーは顔を歪めた。きっとすぐ「帰りますよ」「送りますから」とか、昼に言った事を、もう一度私に言うんだろうな。そう覚悟してた。


だけど――



「……」

「(……あれ?)」



縁センセーは、何も言わなかった。何も言わず、ついさっきまで私がそうしていたように、ブランコに自ら腰を掛けた。


ギッ


私が座った時よりも、少しだけ重たい音がする。センセーって、見た目はひょろいけど、やっぱり男の人なんだな。大きいな。すると、私の頭の中で、別の男の人が思い浮かんだ。名を、大樹という。



「先生……ちょっとだけさ、思い出話をしてもいいか?話し終わったら、ちゃんと帰るからさ」

「私は今、公園で仮眠しているだけです」

「(……自分の事は気にせず喋れってことなのか?)」



大人の気の遣い方は、ややこしくて分かんねぇ。だけど、センセーに甘える事にした。「昔さ」、と話し出した時に見たセンセーの瞳は薄っすら開いていた。



「昔さ、私と仲良くしてくれる子がいたんだ。大樹(だいき)って言うんだけど。

いわゆる幼なじみでさ、ちっせー頃から小学校まで、随分仲良くしてもらったよ。


それに、私の唯一の理解者だった。私はこの公園に、小学校に入学した時から来てる。その……もう知ってんだろ?母親と仲が悪いんだよ。それが嫌で、夜中だけこの公園に逃げてきてた。


大樹は、夜に潜む私を目ざとく見つけてくれた。そして、センセーと一緒で、ウチの家庭環境の事を察してくれていた。私もまだ幼かったからさ、今日はなにされた昨日は何されたって、全部大樹に話しちゃってたんだよな。で、それを聞いた大樹はさ……その……」



今まで流ちょうに話していた口が、思わず強張る。いや、その……言いにくい事ってゆーか……。



「大きくなったら結婚して、あの家から逃げよう――とでも言われましたか?」

「!?」



縁センセーは尚もブランコに座ったまま、私を見る。座るセンセーと、ゆらりと立つ私。いつもは見下ろされる側なのに、今は見下ろす側……センセーの初めて見る上目遣いに、少しだけ胸が鳴った。



「ね、寝てるんじゃなかったのかよ!」

「寝言です。聞き流してください」

「そ、そうかよ!」



一呼吸おいて、続きを話す。



「センセーの、その……言う通りだ……。大樹は、こんな私に、俺が大きくなったら結婚して私をあの家から救ってやるって、そう言ってくれたんだ。すげー優しい奴だろ?普通、こんなめんどうくせー女を嫁にもらおうなんて考えないって」



両腕を腰にあてて「あはは」と恥ずかしさを紛らわすために笑うと、センセーは目を瞑ったまま口を開けた。



「あなたが面倒なんじゃありません。むしろ、素直でとてもいい子だと思いますよ。あなたは何も悪くない。悪いのは……って、もうそれは、鶫下さんも分かっていますよね?」

「え……まぁ……うん」



そうだけど――でも。恥ずかしさを紛らわすために言った言葉なのに、センセーが「素直で良い子」とか言うから、更に恥ずかしくなった。話が進まないので「ちょっと黙ってて!」と一喝する。先生は大人しく口を閉じた。



「大樹はいい奴なんだよ。私にはもったいないくらいで……。その大樹との約束が、私の生きる糧だったんだ。その約束を支えにして、私は頑張ってきた。でも……大樹は、小学校の遠足の時に、山に登った時に姿を消した。小6の時だ」

「まさか神池山(かみいけやま)の失踪事件――っですか?」


「……知ってるんだな」

「全国的に有名になった事件でしたから。確か、まだ見つかってませんよね?」


「見つかってねーよ。けど、もう六年も前の話だ……うん。もう、そんなに時間が経ってたんだな……っ」



胸につっかえるものを感じて、私は口に手をあてる。立っていられなくて、その場に腰を下ろした。見かねた縁センセーがブランコからおりて、私の背中を支える。その距離は……近い。



「服に吐くなって……言わねーのかよ……?」

「吐いて楽になるなら吐きなさい。私の服の上でも、どこへでも」

「……うざっ」



大人って分かんねー。なんで昼には冷たかったのに、今、こんなに傍で優しくすんだよ。吐くなって言ったじゃねーか。車に吐こうとしたら怒ったじゃねーか。それなのに、なんでこんなに優しくするんだよ。私なんか、ほっときゃいーだろ。



「うざい……センセー、マジうざい」

「言われ慣れてます。毛ほども傷つきません。それよりも、まだ吐き出しなさい。胸にたまっているもの、全て今、吐き出しなさい」


「……セクハラ」

「なにがですか、心外な」



出かけた涙を拭いながら、地面の砂を見たまま呟く。だけどセンセーは「こういうのを揶揄って言うんです。真面目に授業を受けてないからそんな事も分からないんですよ」と、こんな時でも私をディスった。だけど、こんな事も言った。



「あの山は神池山。神様がいる山として噂されています。大樹くん、まだ見つかりませんが、ご遺体でも見つかっていない――という事は、一筋の望みもあると、私は思いますよ」

「!」



そんなこと、初めていわれたかも……。



「母でさえ、もう諦めろと言った。大樹の両親も、この土地が辛いからと遠い所へ引っ越した。もう誰も大樹を待っていない。神隠しにあったんだって、皆がそう思って、勝手に終わらせてる」

「そうですか。なら、鶫下さんは、どう思っているんですか?」


「え……私?」

「そうです。他の誰かが何を言おうと、あなたが思っていることを、思い続けていれば、それは、いつかきっと実を結ぶかもしれない」


「でも、あの山は池もあって、もしそこに落ちてたら、」

「落ちてると思いますか?」


「!」



今までさすってくれていた手が、ピタリと止まる。同時に、私の目から零れていた涙も、ピタリと止まった。大樹は、そんな子じゃない。あいつは、昔からしっかりしていた。大樹は――そんな事では死なない。



「(死んでない……私の中の私が、そう訴えかけている)」



頭の中がクリアになっていく。霞が晴れて、私の心が長い冬から芽を出すようだった。



「大樹の死を信じられなくて、信じたくなくて、悲しくて寂しくて……もうどうにでもなれって思って、高校は不良になった」

「家ではいい子ちゃんですがね」


「うるせーよ。家でも学校みたいな態度とってみろよ。五体満足じゃすまねーよ」

「……」


「(あ、しまった)」



冗談のような本気のような言葉を言うと、センセーは少し顔を青くして黙った。しまった、ブラックジョークが過ぎたか。私は慌てて、話を戻す。



「でも……うん、そうだな。私も、まだ大樹が生きてるって心のどこかでずっと信じてた。信じたかった。だって、あんな約束しといて逃げるなんて、絶対許さねーよ。絶対に見つける。


それで……私を嫁にしてもらって、あの家から逃げる。大樹と一緒に逃げる。私があの家とおさらばする時。その時に隣にいるのは、大樹しかいねぇ」

「そうですか。なら良かったです」


「え」



スクッと立ち上がり、私を見下ろす縁センセー。その目は、学校で見るような瞳じゃなくて……。月の光に照らされて、先生の瞳も、存在そのものさえも綺麗に見えた。



「縁センセー……」

「ん?なんです?」

「なぁ、なんでモテないんだよ?」



単刀直入に聞いてみた。するとセンセーは、ここでは顔色を変えずに答える。さすが鉄仮面だ。



「……あなたみたいな生徒をずっと相手してるからじゃないですか?」

「ひっど」


「事実です」

「そっちから首を突っ込んできたくせに」


「放っておけない性分なのです。それに、私はあなたの担任ですよ?

困っている生徒を助けるのは、当然のことです」

「(そんなこと、初めて言われたな……)」



私と正面から向き合ってくれる教師なんて、今までいなかった。センセーって、本当に変わった奴だな……。



「(まあ、私も変わってるし……変わってる者同士ってことかな)」



ザッ


センセーは歩き出して、公園の出入り口で止まる。クルッと私の方を向いて「さようなら」と言うのかと思いきや「そう言えば」と、私の思っている真逆の事を提案してきた。



「ここに来るのは、せめて20時にしてください。私の仕事が終わりませんから」

「え、仕事?」


「鶫下さんの家庭環境は分かっているつもりです。そこを分かった上で、ここに来るなとはいいません。ですが、せめて深夜ではなく、もっと早い時間帯に来なさい。そして、一人ではなく私がいる時間を選ぶこと」

「え、選ぶって言ったって、縁センセーがいつ仕事終わるとか、分かるわけねーだろ」


「……それもそうですね」



目を瞑って「ん~」と言いたげなその顔。ちょっと笑える。無理かもしれねーけど……私からこんな提案をしてみた。



「あのさ、じゃあさ、その……連絡先、教えてよ。センセーの」

「は?」


「マジトーンやめろよ。傷つくだろ」

「いや、でも、教師としての立場上、生徒の連絡先を聞くわけには、」


「でも、その方がセンセーも楽だろ。私がいない時間帯に公園に来て、骨折り損のくたびれ儲けになりたくないだろ」

「そりゃ、そうですが……」



うじうじとするセンセーに、私の我慢の限界が来る。ご存じの通り、私は短気だ。



「だー!もう!うだうだうっせーな!いいから携帯出せよ!」

「あ、こらやめなさい!」



だけど私の手は早く、テキトーにセンセーのスーツのポケットを漁ったら、硬い物に当たった。よし、これだ。後はお手の物で、両手で双方のスマホを操作して、素早く連絡先を交換する。



「ほらよ。その山のアイコンが私だから」

「山?あ……この山は、もしかして」


「うん――神池山だよ。大樹の事、一日だって忘れたくねーんだよ」

「鶫下さん……」


「けど、確実に忘れていってるんだよな、大樹のこと」

「え」



センセーは驚いたように私を見た。



「こんなに思い入れがあるような話し方をしといてなんだけど……大樹との思い出が、あんまりねーんだよな」

「忘れてるってことですか?」


「たぶんな。けど、大樹がいなくなって六年。それより前の二人の思い出なんて……いつまで覚えてられんだろーな」

「……」


「私は忘れたくねーけどさ。でも、ほら……寄る年波にはかなわねーじゃん?」

「鶫下さん……」



珍しく、同情したような声色で私の名前を呼ぶセンセー。センセーがなんて声を掛けてくれるのかと期待していれば、



「鳥頭にも限界はありますから、そう気を落とさないで。それに、メールのアイコンを神池山にしたところで、あなたは友達がいないから、アイコンを見ることないでしょう?」

「うっせーな!センセーがモテない理由って、そういうところだからな!」



しかも今「鳥頭」っつたか!?バカってことか!?


するとセンセーはさすがに言い過ぎたと思ったのか「すみません、善処します」と小さくなって謝ってきた。



「(なんつーか……本当、変なセンセーだな)」



後は、もうなし崩し的な感じだ。私が「もう帰るわ」と言って、センセーも「そうですね」と車に戻る。一応「送りますか?」と声を掛けてくれたけど、もしも母に見られたら――と思うと断るしかなかった。



「また明日な、縁センセー」

「こういう時は、おやすみなさい、ですよ」

「へーへー」



空に浮かぶ月を見て、思わず頬が緩む。おやすみなさい――なんて、そんな事を言われたのはいつ振りだっけか。



「おやすみなさい、縁センセー。

おやすみなさい、大樹」



家までの道すがら、月光に照らされてそびえたつ神池山を見る。今日は、綺麗な満月だった。



「だからセンセーの顔もよく見えたんだな」



ふと思いついて、さっき交換した連絡先を見るために、自身のスマホを開く。縁センセーのアイコンは――白い背景に柄が開いたメガネが一つ。



「ぷっ、センセーらしーなぁ」



今日は久々に、良い夢が見られそうだ。そんな気がした、満月の夜だった。

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