第3話 天使の伝承

 ――天使の羽根とは、幸せになった証なのだ――


 天使にとって、それは〝束縛の有刺鉄線〟。


 別れの瞬間、雪のような羽根を降らすのは、〝天使の涙〟。


 天使とは、甘い仮面を被った悲しい悪魔なのだ。



 * * *



 その後、母を想って涙するリヴを、レインはずっと抱きしめていた。


 そして、いつの間にかリヴは、レインの腕の中で心地良い眠りについていた。


 母親の看病に負われて、ここ数日間、眠れない日々が続いていたのだ。


 しばらくして、リヴが目を覚ます頃には、もう日が沈みかけていた。


「腹、減っただろう」


 リヴがその問に答える間もなく、レインは、ちょっと待ってな、と言って海へ潜った。誰が見ても、リヴの顔からはまともな食事をしていない事が解る。


 レインは海中で魚を捕まえようとした。しかし、道具も持たないレインをからかうように、魚はするりと手の中を抜けていく。


「こらっ、逃げるな!」


 姿は見えなくても、レインの声と水しぶきの音がリヴに届く。


「あ、くそ~。お前ら俺をバカにしてるな。絶対に捕まえてやる!」


 いつしか自分でも気づかない内に、リヴは笑っていた。こんなに穏やかな時を過ごした事も、心から笑えた事も、リヴには初めての事だった。


 何度も何度も魚を捕まえようとして、何度も何度も逃げられる。それでもレインは諦めなかった。その姿が、まるで幸せを掴もうと躍起になってるようにも感じられる。


 諦める事を知っている少女リヴは、諦めない事を一人の天使から教わった。


 リヴは、村に行けば何か食べ物があると言って、レインと村へ戻った。


 村は、海からそう遠くない場所にあった。しかし、どこをどう歩いて来たのか分からないリヴが何度も道に迷うので、結局二人が村に着いたのは夜半を過ぎていた。


 村の人達を起こさないよう配慮しながらリヴの家に入ると、二人は僅かな食料を分けて食べた。そして、朝になったら何か食べ物を探しに行こうと約束をして、二人は眠りについた。


 次の日、リヴは昼をとっくに過ぎて目を覚ました。久しぶりにぐっすり眠ったおかげか、疲労感が薄れている事に気づく。もしくは、これも天使の成せる技なのだろうか。


 リヴは、自室を出て、隣の母の部屋で眠っている天使の傍に腰を下ろた。寝息からよく眠っているであろう事が解る。


 金の髪が額を流れ落ち、長い睫毛がその美麗な顔立ちに陰を落としていた。しかし、その姿をリヴは見る事が出来ない。


 ――レインの顔を見たい――


 なぜか妙に強くそう感じた。諦めない事を知ったからだろうか。


 レインといると、何だか心がふわふわとして、一緒にいる時間がもったいなく感じる。


 自然とリヴの手がレインにそっと触れる。腕から肩へ、首、顎、そして頬に触れた時、おはようという声がして、慌ててその手を引っ込めた。


「よく眠れたか?」


 昨日と変わらず穏やかな声でレインが問う。リヴは、必死に首を上下に振り、紅く染まる頬をどうにかして隠そうとした。


 寝ているものだと思っていたのに急に声がして驚いたのだろう、とレインは思ったようだが、レインに触れていた所を見られた恥ずかしさと気まずさがリヴの頬を紅く染めたのだ。


「顔、洗ってくる」


 小さな声でそう言うと、リヴは逃げるように部屋から出て行った。胸の鼓動が波打つ音を聞きながら。


 簡単に身支度を整えると、二人は再び雑木林の中に足を踏み入れた。


 村は今、食糧難だ。農作物を育てていたが、ここ数年、雨が全く降らない。そのせいで作物は枯れ、いつしか村人達の心までが枯れていった。


 雑木林の中でもそれは同じだった。


 さんざん歩き回っても何も見つからず、二人は一本の木の根本に腰を下ろした。それは、大木ではなかったが、しっかりした幹を持っている。


 リヴがその木の幹に耳を寄せて呟く。


「木の声がする」


 レインもそれを真似て耳を澄ましてみるが何も聞こえない。不思議そうに木とリヴを見比べるレインにリヴが微笑んだ。


「私が幸せになったら、レインはどうなるの?」


 再び唐突な質問にレインがとまどう。使命を果たした天使は消えるのが定めだ。しかし、それを話してリヴが不安にはならないだろうか。


「やっぱり、消えちゃうのかな」


 答えられないでいるレインの心中を察したのか、リヴが少し悲しそうに呟いた。


 その表情には、不安と言うよりも、寂しさの色が浮かんでいる。


 レインは、リヴの問には答えずに、次のように語り出した。


「天使の羽根の伝承を知ってるか?」


 うん、とリヴが首を縦に振る。


 天使の羽根を手に入れた者は幸せになれる、というものだ。誰もが知っている程に有名な伝承である。


「天使は、心から助けを求める人の元に現れて、その人が幸せになる手伝いをする」


 そして、とレインが続けた。


「その人が幸せになったら、天使の羽根を振らせるんだ」


 あっ、とリヴが小さな声を漏らす。


 そう、天使の羽根を手に入れた者が幸せになれるのではなく、幸せになったからこそ天使の羽根を手に入れられるのだ。


 そして、それを見た人は、天使との記憶を全て失う。天使がその人の元から飛び立つ時、羽ばたく白い翼から数枚の羽根が雪のように舞い落ちるのを見て、人々はそれを〝天使の羽根〟と呼んだ。


 〝天使の羽根〟とは、天使からの別れの合図なのだ。


「大丈夫、学んだ事は決して忘れないから」


 レインの服の裾を遠慮がちに掴むリヴの手を取り、レインが微笑む。


 しかし、リヴの心は落ち着かなかった。

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