第2話 天使との邂逅

 ――天使の羽根を手に入れた者は、幸せになれる――


 それは、古くから伝わる伝承。天から雪のように降るそれを、人々は〝天からの贈り物〟と呼んだ。



  * * *



 砂浜に座らせた少女に、天使は言った。


「お前、名前は何て言うんだ?」


 少女の虚ろな瞳が宙を泳ぐ。その瞳は、何も映してはいない。


「なんだ、お前。目が見えないのか」


 少女が顔を伏せた。盲目の少女に好感を持つ者などいない。


「目は見えなくても、口くらいきけるだろ」


 少女が顔を上げた。天使の対応が、あまりにも自然だったから。


「……リヴ」


 少し戸惑いがちに、少女がその口を小さく開けた。


「リヴ? いい名前だな」


 リヴが目を細める。病弱だった娘に、少しでも長く生き続けて欲しい、という意味を込めて付けた名前だと、母親が教えてくれた。それを思い出したのだ。


「あなたは、誰?」


 リヴの問いに、天使が自分がまだ名前を言っていない事に気づく。


「俺の名前は、レイン。でも、お前の呼びたい呼び方で呼べばいい」


 リヴが首を傾げた。


「天使、様?」


 さっき空を飛んでた、と呟く。リヴが聞いたのは、名前ではなく何者なのか、という事だったのだ。


「ああ。お前らの世界では、そう言われてるみたいだな」


 この世界で天使とは「神の使い」と定義づけられている。彼らは、神からの助言や警告を告げる者。時には、死者を黄泉の国へと導くとも考えられていた。


「私を、迎えに来たの?」


 違う、とレインは首を横に振った。


「お前が幸せになるのを手伝いに来たんだ」


 「幸せ」という言葉に、リヴの心が敏感に反応する。瞳から涙が零れた。


(幸せに……なれるのだろうか)


 リヴは、不幸な少女だった。生まれつき目が見えなくて病弱なリヴに、周囲の対応冷たかった。母親と二人で何とか今日まで生きてきたが、その母親は、もういない。リヴには、生きる目的も、意味も何もないのだ。


 力無く首を横に振るリヴの仕草に、レインは静かに瞳を伏せた。


「幸せに、なりたいんだろう?」


 レインには、聞こえたのだ。リヴの助け求める声が。だからこそ、レインは、ここにいる。天使とは、心から助けを求める者の元に現れるのだ。


「海が、見たい……」


 リヴは、その涙に濡れた瞳を波の音がする方へと向けた。


 二人のすぐ傍には、どこまでも青い海が朝日を浴びて煌めいている。しかし、それをリヴは見る事が出来ない。


「目が見えない事を、不幸の理由には出来ない」


 リヴの言おうとしている事を察したのか、レインが厳しい口調で言った。それにリヴが驚いて振り向く。


 この十数年を生きてきて、盲目の少女というだけで、苦しい生活を強いられていたリヴにとって、それは不幸以外の何物でもないのだ。


 しかし、そんなリヴの様子を尻目に、レインは続けた。


「幸せになる事を諦めるな」


 生まれつき目が見えない事が、リヴに全てを諦めさせた。自分の姿から母親の顔、綺麗な景色、何一つとしてリヴの瞳に映るものは無いのだ。


「初めから諦めてる奴が、幸せになんかなれるわけがないだろ」


 目が見えない事を不幸の理由にし、幸せになる事を諦めていた。でも、それは単なる逃避であって、幸せになる為に何も努力しないでいる自分への、言い訳にしか過ぎないのだ。


「幸せは、自分の手で掴むんだ」


 姿は見えなくとも、その表情を確かめられなくても、リヴにはレインの言葉をごく自然に受け止められた。


 盲目の少女でも、手に入れられる幸せがあると、レインは言っているのだ。それは、リヴにとって生まれてこの方、誰にも言われた事のない言葉だった。そして、その言葉がリヴの虚ろな瞳に仄かな光りを灯す。


 仄かに色づいたリヴの表情を見て取り、レインは慈愛に満ちた微笑みをリヴに向けた。


 それから二人は、いろいろな話をした。たくさんの人と出会い、たくさんの人が幸せになる手伝いをする事を日々の仕事として生きているレインから聞く話は、リヴの心を元気づけた。


 自分よりも遙かに不幸な人が、この世の中には大勢いるのだ。リヴは、今まで不幸だと思っていた自分の人生に、小さな希望を抱いた。


「レインは、幸せなの?」


 そんなにまで人が幸せになる手伝いをしていて、当のレインは幸せなのかどうか、という単なる好奇心で聞いたのだが、その唐突なリヴの質問に、レインの心中が揺れ動く。


 まるで自分の心を見透かされたのかと思ったのだ。そして、そんな事を聞いてきたのは、リヴが初めてだった。


「俺は、幸せだよ」


 数秒の間の後、レインが答える。レインが今まで出会ってきた人達は、皆が自分の幸せの為に精一杯で、レインを配慮する人などいなかった。


 リヴは単に諦めていただけで、本当は芯の強い子なのだろう。


「お前んち、どこだ?」


 レインが話題を変えようとたまたました質問に、リヴが顔を伏せる。


「村には、帰りたくない」


 なんで、とレインが尋ねた。


「母さんが、死んだんだ」


 自分の言葉に、改めて母を失った事を実感させられる。胸の奥から熱いものが込み上げてきて、目頭が熱くなる。それを押さえ込むかのように、リヴは顔を膝に押しつけた。


 体は弱かったが、とても優しい母だった。


 海の香りと湿気を含んだ風が、優しくリヴの髪を撫でていく。


 レインは、そうか、と呟くと、リヴの肩を優しく抱き寄せた。

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