ゆらゆら

内谷 真天

ゆらゆら

 かげろう、ゆらゆら。ゆーらゆら。

 逃げ水ってんだよ。そんなことも知らないの。

「なんだよ逃げ水って。笑う。聞いたことねーし」

「すぐ変な言葉使う。バカの証拠なんじゃね」

 かげろう、ゆらゆら。ゆーらゆら。

 アスファルトの先に揺れている。追っても追ってもたどり着けない幻。

「ゆらちゃんまた来たの?」

「うん。あそべる?」

「えーうん」

 あ。そうだよね。ごめんちょっと寄っただけ。また今度ね。

 かげろう、ゆらゆら。ゆーらゆら。

 由良優愛ゆらゆらだからゆーらゆら。なんという安直な。みんな子どもだったんだ。悪気はなかったんだ。仕方ない。

 らゆかなた。ちっちゃい頃は違ってたのに。

 どういう神経してたんだろう。それとも頑然たる「離婚はしない」みたいな意思表明だった? 守れない決意はしない方がいいと思うんだけれども。

 揺れている。

 振り回されている。

『なら、君だって結婚しちゃえばいいじゃない』

 そうね。できるならね。

 ゆーらゆら。揺れてる。実体がない。そんな人間だれも相手にしてくんない。

『でも君って魅力的だと思うけど』

 そう? 本当に? 私のどこが?

『見ようによってはキレイだし』

『それに感受性も豊かで、色んなことだって知ってる』

『ほんとは心の優しい人だってことも』

 そういうんならさ、じゃ、具体的に挙げてみてよ。私が優しい証左。

『ほら、うまくはいえないけどさ』

 やめよう。

 ばかばかしい。


 ✲


「高校のときの。覚えてる?」

「え。高校?」

「バイト先の男の子に惚れてたじゃん」

 氷たっぷりのアイスティーをストローで吸いながら怪しい目でこっちを睨む。そんな遥か彼方の旧石器時代みたいな話、持ち出すなよって顔。

「たしかにあのときは相談にのってもらったけどさ」

「別に恩を返せって言ってんじゃないよ」

「じゃあなに。意味もなく蒸し返さないでよ」

「私のアドバイス的確だったでしょ」

 気になる人できたからって相談受けて、ちょっと意見ちょうだいってバイト先まで呼ばれて、客を装ってちらっと見た相手の横顔。一瞬だった。一瞬しか見てないけどすぐにわかった。

「そうね。前もってゆらに注意されてたから助かったけど」

「ひどいやつだった」

「相当ね」

「私には人を見る目がある」

「いや。だけどさ」

 手で遮ってもう一つ続ける。大学で知り合ったばかりの子を紹介されたときの話。そのときも会った瞬間にわかった。あの子は気をつけたほうがいいよ、って、あとでそれとなく。

 ストローからずずずっと音が鳴る。あんまりにも面倒くさくって体面なんかどうでもいいやって態度。どうも相談する日を間違えた。

 会った瞬間に不機嫌なのはわかった。

「ゆらに特定の能力があることは認める」

「だからお願い」

「でも今回は絶対違う。冷静になれって。向こうだって酔ってたんだし」

「だって私とだけ。ずっとおしゃべりしてたんだよ」

 ストローの口を爪でカリカリ。まずい。相当気が立ってる。

「たまたま目についただけだろー」と隠さず言う。「その気があるなら向こうからアクション起こしてるって」

「昔から人見知りなとこあったじゃん」

 私も私で引くに引けない。売り言葉に、の勢いも加わって。

「人見知り? あいつが?」

「でもなかった?」

「どの時のこと言ってんのかわかんない」

「え。だって」

「まあ、あったかもしれない。覚えはないけど」

 そうなの? じゃあ。私の前でだけ?

 ってことは、もしかして、昔から私のこと……。

 うん。それならやっぱり。

「とにかく。セッティングしてよ。お願い」

「もう。そんな言うなら自分でやれって。最近忙しいんだから」

「だってどうやって」

「ライン教えるから。勝手にやって。だけどゆらの勘違いだからね。そりゃ場の空気でそんな気分になったかわかんないけど」

「私が会いたいって言ってるわけじゃない」

「あいつがって方がよっぽど無いよ。っつーかうちの弟に発情すんなってマジで」

 だから違うんだよ。

 だって、そういう目されちゃったから。


 ✲


 ……ああ。なんて謝ろう。

 あまりにも恥ずかしい。申し訳なくって合わせる顔もない。

 これで親友一人失った。

「冷静になれって」

 たしかにそうだけど。

 でも冷静だった。

 私の方には全く気がなかった。ありえないとも思ってた。

 ただ何かが引っかかって、だから何度も分析してみたし自分の立場になってシミュレーションもした。考えるほど頭に食い込んできて。

 地面にくぼみがあって、形の合う壁をはめこんでいったら自然と道ができてしまったとでもいうような。

 から間違いなんてない、って。

 なんでかな。今までこんなバカな真似したことなかったのに。それが、どうしても私の方から動いてあげなきゃって駆り立てられてしまった。

 駆り立てられたあとのことは、うん。冷静さを欠いていた。相談にいったときには妄想に囚われていた。それは認める。けど、

 試合開始のホイッスルは音階もわかるくらい平坦に聞いていた。

 だから。なぜ?

 それとも試合開始なんて考えてる時点でまだおかしいのかな。

 申し訳ない恥ずかしい。もそうだけど、やっぱりちょっと腑に落ちない。

 幼い頃から自然と身についてた。

 顔色を読むっていうのは誰にだってあるけれど、私は人より鋭敏で。尖りすぎてて返って苦労するくらいなのに。

 コンビニの会計、街ですれ違う人、同性からのあるかないかの牽制。なにかを求められてるときの、応じられないもどかしさ。ご体裁で続けてくれてる会話のいたたまれなさ。眉のちょっとした苛立ち。口元のかすかなゆがみ。努めての笑顔の裏の本心。

 性格、所作、言動、一目で大体のとこわかってしまう。私への好意の、どのくらいの深さか、も。

 だからいっつもキツい。

 それが、大切な親友の、今回に限って。何が起きてるかわからない。

 本当にまだ狂ったままなのかな。

『案外間違ってないんじゃない。ゆらの勘』

 だって。

 じゃあどうして?

『ゆらだってあの子に脅されて動揺してたでしょ。それで変に肩ひじ張っちゃって。噛み合わなかったんだよ。初めから』

 うん。

 最初から失敗しまくりだった。噛み合わなかったのは確かにそうだけど。

『ね。文面からは感情まで読み取れないもん。それでお互いに変な受け取り方をしちゃっただけ。お互いってのが重要だよ。お互い』

 違う。

 そんなんじゃなかった。最初の返事でわかったよ。思ってた熱量と全然違ってること。

『だから。文面からは感情まで読み取れない』

 ううん。

 そんなことないよ。もういいんだって。

 ばかばかしい。

 あの返事は額面通りに受け取るべき事柄。

 これは現実。都合のいい妄想を展げるのはだめ。そこは認めなきゃ。

『じゃ、なにをそんなにくよくよしてるの』

 だって。

 また小石が跳ねたんだ。

 こんな、一番あっちゃいけないタイミングで。しかも生まれて初めて。

 ぴょんってさ、また、小石が跳ねたんだ。


 ✲


 かげろう。ゆらゆら。

 その日、私は小石を蹴っていた。

 来週には学校が休みに入る、炎天下の下校時間。

 すこしみんなから遅らせて、なににも邪魔されない青々とした大空と、水田や果樹園や建物がごっちゃの静かに熱気を漂わせる地表。

 ランドセルひとつだけの見慣れた光景。

 校門を出たところで歩道の脇にすぐに見つけたこぶりな石が、大きさといい形といい、惹きつけた。

 たまにやる石蹴り遊びの最長記録を、きっと塗り替えてくれるんじゃないかって。

 蹴ってみた。なにかがフィットした。

 いつもなら最初の交差点に着く前に飛び込んでってしまう雑草の茂る空き地、は楽々通過した。次の交差点も越えた。踏切のくぼみも、床屋さんの横も。記録更新どころの騒ぎじゃなかった。

 どんどん伸びてく自己ベストに、だんだん愛着もわいてきた。小ぶりで、どの角もくっきり鋭い、のにどこか可愛らしい、石っころ。

 これ、家まで蹴って帰れるやつだ。

 運命が、そのとき胸の内側に、はっきり飛来した。

 わざと歩道と電信柱の細い隙間を通してみたり、思いっきり力を込めて蹴り飛ばしてみたりもやってみた。運命ならどんな恣意にも動じないはずだから。

 小石はやっぱりぜんぶ私の願いを叶えてくれた。今日の友だち。

 そうしてやってきた、ひなびた田舎の駅前の大通り。

 初めて小石が跳ねた場所。

 いなかの私鉄の沿線。車通りもないけれど幅はじゅうぶんにとってある直線の道。ふっと対岸の歩道に振り向くと古い建物が目についた。

 道の先にはそのときも逃げ水が浮かんでた。

 ◯◯商会とか◯◯商事とかって響きがよく似合う、古めかしい事務所。

 表の板戸にぼかし山水のガラスをはめ込んだ、隣の建物と比べても異彩を放つ、私が子どもの頃にだって絶滅危惧な、伝統的貫禄の。

 もちろん以前から存在は知ってた、けど、その事務所を見た瞬間にとつぜん胸騒ぎが起こった。

 とみ、こうみ、って見比べる。足下の小石。ガラス戸。

 リーズナブルで納得いってしまう、釘付けにされる連想だった。

 でも運命。それはやめられなくて。

 幅員は充分あったし、車道と歩道のあいだにはアオムシが屈伸移動してるみたいな谷と山の縁石もあった。手前と向こうで二つ。小石とガラス戸はちょうど二つの山に遮られていて。

 胸騒ぎは、まかり違ったって、気のせい。スロットマシンでジャックポットを出す夢のほうがまだ分がありそうな。

 それに、そのときの私は冷静だった。小学生らしからぬ沈着さ。

「胸騒ぎを感じるなら、そう感じるに見合うなにかがあるのかも」

 だから一旦その場で立ち止まり、深呼吸。

 ここさえやり過ごせばいいだけだから、軽く小突けばいいだけ。かるーく。小刻みに、危険が消えるところまで、回数を重ねて、運んでやれば、いいだけ。

 石の辺、面、頂点、足の向き。こう当たれば、こう飛んでゆく。うん。それならゼッタイに間違いなんておこらない。

 蹴った。

 小石のピークにつま先が垂直にヒットする様子を私はしっかり見届けた。

 よし。

 と思った。小石が跳ねた。

 次の瞬間には、もう手前の縁石を軽々越えていた。車道を水切りの石みたいに小さくバウンドしながら、目指してる。

 呆然。だけどホッとした。その高さなら向こうの縁石にぶつかってはい終わり。すぐに理解するにはあまりに不可解、だったけど、あれなら事なきは得る。

 なのに小石は車道の終わりにまたポンッとイレギュラーに跳ねた。

 え。

 と思ったのも束の間。がしゃーん。

 中から三人くらい男の人が出てきて、こっぴどく叱られたし親まで呼ばれた。私の説明は私の方でもわけがわかってなかったから、もっとわけのわかんないことになっていた。

 小石が跳ねた。入射角に直角の、エネルギー計算までおかしい横っ飛び。

 話にならない、って様子で私を見下ろす複数の敵意。

 混乱する頭、泣き出したい瞳、で私は母や彼らから視線をそらす。

 かげろう。ゆらゆら。遠くで揺れている。

 印象的な光景だった。

 落ち着いて状況を語れる今でも、聞き手からは作り話だと思われるに決まってる。せめて目撃者でもいれば。

 小学四年生のときに味わわされた実体験。


 ✲


 それまでの運命は私に好意的だった。

 なにか予感が大きく働くと、必ず私の望むとおりにやってきた。

 小石が跳ねてからガラッと変わってしまった。

 他人のことは今でもよくあたる。

 悪い予感もよくあたる。

 私に都合のいい場合は、どうしてだろう。邪念が入るのかな。

『冷静ではあったんだよ』

 私だってそう思いたいけれど。

『思い込みに支配されてる最中だって、ゆらは冷静だった』

 どうかな。本当にそう思うの?

『小石が跳ねたんだ。冷静ではあったけど、拠り所は間違っていた』

 はあ。とため息。

 奇跡的な連鎖反応の、対偶的奇跡な、そういう類のアクシデント。誰に話しても信じてもらえない。今回のことも、説明すれば余計に頭がおかしいと思われる。

 こんなことに人生が断定されてきた。

 よりによって。中学時代からの、大切だった親友。

 の弟くんに手を出そうとして抜錨直後に撃沈。恥ずかしすぎる。

『別に、ゆらにその気はなかったんでしょ?』

 わかんない。

 今になってみればどうだったのか。

 ただ、喜んでくれると思ったんだよ。

『そういう目されたから』

 そういう目されちゃったからね。

 相手の気持ちを考えてみましょう、なんて訓練、したこともない。しなくても見ればわかるから。それくらい私には自然なことなのに。

 それが今回に限って誤った解釈をもたらした。奇跡的に能力が大外れ。

『ゆらって色々持ち合わせてるよね。能力。予感。運命。五感の外の諸々の』

 ぜんぜん嬉しくない。

『当たんない予感なら逆の行動をとればいいじゃない』

 逆ね。

 知ってるでしょ、そうすると、それもまた裏目に出るってこと。だから対偶的奇跡。命題からどう動いても、気づけば向こう岸に着いちゃってる。

『そういうのはさ、もしかすると才能を自分のために使ってはいけない、という訓戒かもしれない』

 訓戒ねえ。というか私のため?

『どっかでおためごかしだったんじゃない?』

 かもね。

 かもしれない。

『少なくともいい経験にはなった。自己を見つめ直す機会だよ、これは』

 そのために実際的に多くのことを失ってる。

 信用も、信頼も、友情も。弟くんにまで気を遣わせちゃって。もっと誰も巻き込まない形でもいいでしょ。

『それじゃ痛手を負わない。人って心の深くにまでナイフを刺されないとわからないものだもの。そうなってようやく更生のシナリオが浮かんでくる』

 そんな考え方、まるでカルト宗教のソレだよ。今はそんな気分じゃないの。とにかく申し訳ないし謝りたいしセミみたいに七年くらい潜りたい。

『なら、しばらくはそうしてな。でもわかんないよ。もしかしたら』

 なに。

『案外やっぱり誤解しあってるだけなのかも。慣れない相手との文面での会話。そりゃ、お互い間違って受け取ることもあるよ。ゆらも、いつものゆらって感じを出せてなかったし。だから実際会って話してみたら……』

 いいの。お願い。本当にやめて。

 気持ち悪い妄想にすがろうとしないで。

 私。

『重症だ』

「君ともお別れしたい」

『また?』

 そうだよサヨナラだよ。二度と現れないで。

『いいけどさ。でもどうせ、また別の僕が現れるよ。別の外見で別の人格で、だけど同じように好意的な解釈をゆらに浴びせかける僕』

 もう、こんなことうんざりなんだ。

『だって、誰だって人間は認められたい。じゃないと壊れちゃう。自己肯定の手段は必要さ。今までだってそうしてきたでしょ。僕はまた現れるよ。僕が望んでることじゃない。ゆらの望みによって』

 でもいつだって現実に則してない。君の助言が一度でも当たった試し、あった? 君だって外してばっかでしょ。なんにも寄与してない。

 今回のことだって。

『そりゃそうだよ、僕はゆらの願望を具体化してるだけだもの。現実には起こり得ない願望を無理やり現実と引っ付けて、どうにか形にしたフィクションの物語。当たるとか外すとかって問題じゃない。もともとありえない妄想なんだ。でもそうしないとゆらの心がもたない。だから僕はだめだとわかって提供してる、ゆらがヒロインのハッピーエンドをね』

 現実と区別がつかなくなるからやめてほしいって言ってるの。

『じゃ、誰が君を慰めてくれるの?』

 いないよ。誰も。いなくていい。

『人間は孤独に耐えられるように作られてはないよ』

 だけど孤独を回避する手段が新しい孤独を創造してる。矛盾してるんだよ、君の……ううん、私のやってることは。

『矛盾。当たり前だよ矛盾してるに決まってる。人間はそもそも矛盾する生き物だし、孤独っていう現実と、孤独に耐えられないっていう精神と、二つの解決できない問題に板挟みにあって、このジレンマを強引に解決しようって方法が僕なんだから。矛盾しないわけ、ないでしょ』

 わかってるよ。だからいいよ、それでも自己完結型なら。こんな意味のないセラピーが他人の迷惑に及んでる。私にはその方がよっぽど問題なんだ。

『誰にも迷惑を与えない人間なんて、それこそ存在しないって。現実社会さえ異なる人格同士の矛盾で形成されてるんだから、どっかでは必ず衝突の火花が散らされる。ゆらはそういうことを重く受け止めすぎなの。もっと軽くでいいじゃない。なにも考えないで楽になりなよ』

 ねえ。それだってさっきと言ってること違ってる。

 やめてほしいの。お願いだから。

『重症だ』

 ゆらゆら。実体のない幻。


 ✲


 これはとある成功体験のエピソード。

 道の先に逃げ水をもたない一般的な人物のおはなし。

 その人は小さいときからずっと学校に通えずにいて、義務教育を抜けて高校に進学してからも、程なくすると、教室の空席を当たり前のようにしてしまってた。

 そんな自分に、人生のなにか、危機みたいなのをずっと感じながら。

 あるとき急に運命がやってきて、今日なら生まれ変われるかもしれない、とかけっぱなしの制服に袖を通した。

 夏の暑い日で、外に出るともわっと熱気が取り巻いた。

 足下で干からびたミミズに、強い陽射しが降り注いでる。ミミズを見下ろすこっちの視界まで黒くなってってしまいそうな、容赦のない太陽だった。早くも尻込み。

 運命なんて気のせいだったかも。

 だけど今日しかない。今日を逃したら。

 慣れないバスに乗り込んで、日中の制服姿に浴びる視線も臆病を刺激して、電車は何番線かも忘れてしまったから駅員に訊くのも恐ろしくって。車内ではどちらもうつむいてばかりいた。

 最寄りの駅で降りてからも、考えたいのは逃げ出すことばかり。

 むせ返るアスファルトの熱気に頭もくらくらする。どうにか踏み出す一歩、また一歩、がおぼつかない。

 後ろから来た人がすっと横切ってゆくスピード感の差に自分と世の中の違いをまざまざ思い知らされてるようでもあった。

 ……明日にする?

 ううん。今日じゃなきゃだめ。

 ここで逃げたら、もう一生ずっとこんなんだ。

 何度も奮い立たせて、ようやく着いた。

 教室の前ではやっぱりその奥に恐怖の想像しかなかったけれど、後ろのドアをゆっくりスライドさせて、そうしたら初めは驚いていた何人かのクラスメイトが、休み時間になると気さくに話しかけてきてくれた。

 お昼もいっしょに食べた。帰り際には、また明日ね、と笑顔までもらって。

「卒業してから、その子たちとは疎遠になっちゃったけど」

 でも忘れられない思い出。おかげで世の中はすてきな出会いで溢れてるってことを教えてもらった。

 家で感じたあの運命は、誰のもとにだってやってくる、とその人は語る。

 感動的で、いいお話。

 あっていいと思う。そういう人生のすばらしさ。

 けど。

 途方もない決意と苦痛の先に、着いてみたらその日はたまさか創立記念で全校おやすみでした、が私。

 結局そこからまた半年引きこもった。

 調べておかなかったのが悪い、はそうだけど、運命の神さまには前髪しかないって聞く。その日つかみ損ねたら、勇気の方は次にはいつ出せたんだろう。

 ううん。

 ふっと起こった衝動にも従えない私。明日にしよう明日に、という情けなさに、ちっぽけな自分の限界を知らされてしまうだけ。打ちのめされてしまうだけ。

 出せなくなってゆく。

 調べる調べない。よりも。そもそも運命のやってくるタイミングがおかしい。

 という話。

 ゆーらゆら、っと立ちのぼる。


 ✲


 なんだか色々嫌になっちゃって長いことぶらぶらしてる時期があった。

 そのとき友人に男の子を紹介された。

「お互いフリーなんだしうまくやりなよ」って。

 初対面ではなんとも感じなかったけど、相手の好意にさらされてるうちに段々こっちもその気になってった。何回か会ったあとにはこの人のこと好きだってわかった。

 告白は向こうから。もちろんオーケーした。

 あるとき私は言った。

「デート代いつも出してもらってるの悪いし、やっぱ働くよ。なんにもしてないっていうのも、なんか情けないし」

 喜んでくれたし応援してくれた。言葉以上に私の熱意は高かったから、その反応がたまらなく嬉しかった。

 やっぱり太陽がギラつく暑い日。まっ黒な街路樹の葉っぱと青空の印象とが密接に結びついてしまっていた日。

 夏に似合う爽やかな匂いの香水を彼はつけていた。

 そういうところも好きだった。

 社会復帰の職場は、まあそこそこのところ。可もなく不可もなく。ただ朝が早いのだけちょっとしんどくて。五時には起きないと間に合わない。

 彼が起きる頃を見計らって「おはよー」のメッセージを飛ばすのが通勤中の楽しみ。運転中に一言添える文面を考えて、信号のあいだに手早く。

 眠気も返事でふっとんだ。

 あるとき車の窓から覗いた景色に、私はなんとなく運命を感じた。

 毎日行き過ぎる何の変哲もない幹線道路。

 過ぎ去ってゆくその街並みみたいに、人生が華やかな方向に進んでる実感が、確かにあった。

 私、幸せになれるのかも。この人となら。

 付き合いだして五ヶ月くらい経ったとき言われた。

「彼女ができた。別れてほしい」

 ……カノジョ?

 昔本気で惚れちゃった子と偶然再会してお互い……お互いってのが大事。お互い抑えられなくなって、って成り行き。私のどこが悪かった?

 どこも悪くないって。朝イチのルーチンも別に重くなかったし、寝ぼけ眼に見るのが毎日の楽しみだったとも。

「ゆらのこと、好きだった」

 私だって。同じだよ。

 だけどもっと大きい運命にあっけなく爪弾きにされた。

 さようなら。

 3週間後には会社からも解雇を言い渡された。

 クビっていうか、支所の閉鎖につき。下半期の業績次第であらかじめ決まってたことらしい。そんな状況でなぜ新規雇用?

 みんな私に気を遣って言い出せなかったんだって。

 もう、色々と。

 改めて見渡したら元の位置に戻されてる。

 過ぎ去ってゆくその街並み。

 一瞬つかめたと思った逃げ水の先端。遠い向こうで揺れっぱなし。

 こんなことばっか。


 ✲


 昔本気で惚れちゃって偶然再会した二人。

 いつか結婚したって聞かされた。

 あれ。この人、私と彼が付き合ってたって、知らなかったっけ? でもなんだか自分のことみたいに無邪気に語ってた。

 子どももいて、お腹にもう一人。幸せそうだったって。理想の、だって。

「運命だよね。中学のときから好きだったらしいよ」

 そっか。

 調子は無理に合わせたけれど、なんて答えていいかわかんなかった。

 その日はぼんやりしてた。帰って一人でぼんやりしてた。

 私とのことは過去のこと、というよりも、過去ですらなくてきっと無かったことになっている。

 二人で行った大切な思い出の場所にも、新しいその人と行ってしまったりしたんだろうな。上書きされて、保存されて、痕跡までどっかに消えちゃって。当たり前だけど私のことは口にはしない。

 ちょっとさみしいな。

 でも仕方ないよ。たった五ヶ月だもんね。

 かげろう、ゆらゆら。ゆーらゆら。


 諦めなければ偶然の素敵な出会いって必ずある。

 どんな人のことだって神さまはちゃんと見てるから。


 どうしていつもこうなってしまうんだろう。

 私の神さまは?

『ま、見てるには見てるよね。神さまにも色々あるからさ』

 いたの。

 そんな皮肉じゃなくて、底なしに間が悪い人間だってハッキリ言えばいいよ。

『そう思えれば笑い話。笑えないけどね』

 ひとまず言っとくね。

 おかえり。

『迎えてくれるんだ?』

 諦めたよ。これ以上失いたくないからさ。だから望まないことにした。もう失うものもないけど。なーんにも。

『そして君は妄想の内側に』

 うん。

 耐えられない。せめて嘘でも幸福に身を浸してないと。

『結局元の位置に戻される。進めやしない』

 結局ね。

 あの日見た逃げ水がどこまでも追いかけてくる。

 今日も陽射しが強烈で、どろどろに溶けちゃいそうな地面の先に、やっぱり実体のない幻が浮かんでる。足下に視線を落とすと、少し角張ったちょうど良さそうな小石が転がっていて。

 じっと見る。

 蹴らなきゃ始められない石蹴り遊び。

 運命がほくそ笑んでいる。蹴らずに佇む。

 ゆらゆら揺れながら。

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ゆらゆら 内谷 真天 @uh-yah-mah

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