第四話 あやかし化かし合い合戦

1 捨て去ってしまうべきもの

 雪音ゆきねが閉じ込められたのは、小綺麗な屋敷の一室だった。見張りは皆、女である。男では、妖狐ようこに生気を吸われて失神させられてしまう可能性があるからだ。


「おまえが妖狐だというのは聞き及んでいたが、実際に所業を見ると驚くな」


 突然、襖越しに男の声が飛び込んでくる。畳の上に座してぼんやりとしていた雪音は、全身を強張らせて息を呑んだ。


「この声は」


 女人ばかりの屋敷に低い声が響いたことよりも、襖の向こう側にいると思しき黒幕の声に聞き覚えがあったことの方が、雪音を驚かせた。けれども一瞬の驚愕が過ぎ去ると、雪音の心に浮かんだのは、過去抱いた疑念は妄想ではなかったのだという納得感であった。


「まあ。妖狐だとご存じの上で源三郎様とめあわせたのですか」

「妖山城主の妻となる者の素性くらい、調べていて当然だろう。まあそもそも最初から、全て我が父が仕組んでいたことだがな」

「お父上が?」

「先代の白澤当主のところへおまえの母をやったのは、わしの父だ。白澤の血筋には身体の弱い者が多いだろう。あやかし三箇条を守っていても、妖狐と契れば白澤当主は年々弱り、そのうち病を得て死ぬはずだ。それから狭瀬はざせの血族を城主に据えて、妖山あやかしやま支配を深めようというのが魂胆だ。ああ、白澤の先代は哀れだった。仕組まれたこととはいえ、妖狐に魅入られたのが運の尽き」


 雪音は男の言葉に不快感を覚え、眉根を寄せる。父も母も、狭瀬の手のひらの上で転がされていたというのか。


 母は父を愛していた。だからこそ、どれほど請われても側室の座を拒み、早々に身を引き妖山に戻ったのだ。


 父は時折お忍びで、母と雪音に会いに来てくれた。その度に母は嬉しそうな、それでいて悲しそうな複雑な目をして、愛した男を見つめていた。


「お父様とお母様は出会うべきではなかった。そうすれば誰も傷つかなかった」

「ほう。だがそうなれば、おまえは生まれていなかったがな。しかし傷つくとは滑稽な言い様だ。先代白澤当主はともかくとして、妖狐は何とも思わぬだろう。情を交わした男を平気で衰弱死させるあやかしなのだから。おまえとて夫を都合のよい食事だとでも思っておるのだろう」

「食事だなんて」

「何だ、ではおまえらの間には愛情があるとでもいうのか。妖狐なのに?」


 そう、人を愛する妖狐など、欠陥品だ。だが、母はまさにそれだった。そして雪音も母と同じく、心に致命的な瑕疵を負っている。


 胸が針で刺されたかのように痛む。雪音は胸元で拳を握り、唇を噛んだ。





 ――五年前、雪音は淡い恋をした。異性を食事として扱う妖狐には、あるまじきことである。


 妖狐には女人にょにんしか存在しない。つまり、全ての妖狐の父親は人間かあやかしだ。けれども父の種族が何であれ、彼女らの腹から生まれ落ちたのが女であるならば、それは一切の例外なく純血の妖狐であった。それは種としての特性でもある。


 雪音の父親は人間だが、彼女自身は紛れもなく妖狐である。にもかかわらず、雪音は人間と同じように、特定の一人だけを特別に慕わしく思う心を得てしまった。


 いいや、今思えばあれは、恋というよりも、自らを受け入れてくれた存在への依存だったのだろう。


 当時、妖山あやかしやまの麓屋敷で暮らしていた雪音は、つゆの獲物、つまり化かし相手である喜助きすけと出会った。喜助は農村の名主の五男である。寒冷な奥野国おくののくにでは作物の実りはさほどよくなく、農村の権力者の子といえども、決して裕福な暮らしはしていなかった。


 けれども彼は、飢えた子猫に化けた露の葉に毎日のように食事を分け与えていた。たいそうなお人好しだったのだ。


 その年は豊作であり、哀れな子猫に施しをやる余裕もあったのだろう。けれども富があり余るということはない。雪音は露の葉から喜助の話を聞いて、純粋な興味を抱き、人間の娘の姿をとって彼に近づいた。


「なぜ猫に、貴重な食べ物をやるのです」

「父の教えだ。困っている隣人には手を差し伸べよ、とね」

「まあ。でもこの子は隣人というよりも」

「ああ、猫だ」

「ではどうして?」

「妖山の麓で暮らしていると、人間以外の生き物の営みがとても近く感じられるんだ。あやかしも動物も人間も皆、同じ生き物だ。真心で接すればきっと、相手も同じように真心を返してくれるんじゃないかと思う。まあ、さすがに猫からの見返りなんて期待していないけど」


 自己満足だよ、功徳を積めればそれでいいのさ、と笑う喜助。子猫――露の葉を見る目がとても柔らかい。猫に、人のような義理人情があるとでもいうのだろうか。もしそうならば。


「あやかしも……人間を化かすあやかしにも、真心があると思いますの?」

「もちろん。なあ俺、変な奴だよな」

「変だなんてことはありません。私は、とても素敵だと思います」


 彼の回答を耳にして、雪音の胸に、かつて見たことのないほど鮮やかな色の花が咲いた。

 

 喜助は若く、純粋だった。そして雪音は、幼く愚かであった。二人は次第に惹かれ合い、やがて恋仲となった。この時を境に、喜助は露の葉ではなく雪音の獲物となった。露の葉と雪音が仲違いをしたのは、この事件がきっかけである。


 妖狐は、触れ合いを通して男の持つ陽の気、つまり生気を吸い取る存在だ。


 雪音は喜助から少しずつ生気を奪う。喜助が病を得てしまわない程度に、少しずつ。けれどもその冬、喜助は病床に伏し、生死の境を彷徨った。生気の薄い身体に、酷寒が猛威を振るったのだ。


 ちょうどその時期、村には陰陽師崩れの僧侶が滞在していた。彼は喜助の病状を一目見るや、不自然な虚弱とその身体に染みついた麝香じゃこうの匂いから妖狐の仕業だと断定した。そして、妖狐を祓うためのまじないを喜助に施した。


 そうして、人間に化けて恋人を装っていた雪音の正体が白日の下となる。一命を取り留めた喜助の前に引き出され、雪音は涙ながらに詫びた。


「ごめんなさい。こんなつもりではなかったの。ただ私は、本当にあなたのことを」

「では雪音、おまえは本当にあやかしだったのか。なぜ先に教えてくれなかった? 愚かで利用しやすい俺のことを、裏で嘲笑っていたのだろう。あやかしはやはり、人と同じ真心など持たないのだ。消えてくれ。二度と姿など見たくない」


 彼と出会ってからずっと胸の中で可憐に咲き誇っていた花が、凍りついて粉々に砕け散った心地がした。


 ――本当に悲しいのは、手に入れた大切なものを理不尽に失うことなの。


 幼い頃、「妖狐は危険だ」と嫌悪され、隣家の友と引き離されて泣いた時、母が告げた言葉が脳裏を過る。


 そう、雪音は妖狐。恨んでもどうにもならない宿命だ。受け入れるしかないならば、手に入れた、などとは二度と思わぬように、愛も情も全て、心の箱に閉じ込めて厳重に蓋をしよう。そして、陽の気への渇望に全身を焦がされるまま、ただ本能に従って生きればいいのだ。どうせ、誰も彼も、雪音が妖狐だと知れば去っていくのだから。


 異性を慕わしく思うことは不毛であり、誰のためにもならない。喜助と別れてからの五年間、雪音は愛を知らぬあやかしとして過ごしてきた。それなのに。


 ふと、剛厚のごつごつとした強面が脳裏に蘇る。必死に己の本性を隠し、妖山城主として、雪音の夫として人間らしく振舞おうとする姿が目に焼きついている。


 半年ほど前の祝言の晩、屈強な鬼である剛厚を一目見た瞬間、心に蓋をした雪音が抱いたのは妖狐らしい本能的な歓喜であった。


 人間よりも心身共に強靭な鬼ならば、生気を吸ってもそう簡単には衰弱しないはず。つまり彼を夫にすれば、いつでも好きな時に陽の気をたらふく食って、妖狐としての欲望を満たせると思ったのだ。


 けれどもそんな雪音とは対象的に、剛厚は純粋に鬼の本能をひた隠し、雪音を慈しもうとしてくれた。


 ならばそうかと、無理に問いただすことはしなかった。剛厚の正体を追及した結果、雪音が妖狐であることが露呈してしまえば、せっかく手に入れた獲物が去って行くのではなかろうかと懸念したという事情もある。


 そうして今日まで二人は化かし合い、傍から見れば滑稽な茶番劇を繰り広げてきた。


 剛厚は、人間だと信じて疑わない妻を食ってしまわぬように、雪音に触れることを躊躇った。


 妖狐の身としてはもどかしい。


 剛厚は気づいていないらしいが、夜間にこっそりと手を握り、陽の気を吸い取ったこともある。愛おしさを抱いてしまってからは、「手を握ってくださいませ」と上目遣いに願ったこともある。


 つい加減を誤った翌朝、剛厚がくしゃみをしたり洟をすすったりするのを見て、最初は、案外弱々しい鬼に失望を抱いた。けれども次第に、次回は気をつけよう、明日は手を握るのは我慢しようと、妖狐らしからぬ配慮を抱くようになっていった。


 気づけば雪音は、剛厚を獲物とは思えなくなっていた。寄り添い、共にあり、他愛のない会話を交わし合い。そうした何の変哲もない日々の全てが愛おしい。心の奥底に封じた感情の箱は音を立てて壊れてしまった。


 本来、妖狐にとって異性は、愛情の対象などではない。たとえ、己が孕んだ子の父親を衰弱死させたとしても、妖狐は何の感慨も抱かない。そうして代々、血を繋いできたのだから当然のことである。


 だから、剛厚に対する雪音の軟弱な感情は、いわば本能を雁字搦めにする枷。捨て去ってしまうべきものなのだ。


 それなのに。


 妖狐であることを悟られないように、という自分勝手な思惑はいつしか、胸を凍えさせるような恐怖へと変わっていった。


 剛厚に正体を知られてはならない。絶対に。あの屈託のない笑顔と不器用な優しさを失うことが、どうしようもなく怖いのだ。

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