8 共同戦線といこう

小兄者しょうあにじゃ、今何と?」


 雪音が姿を消した翌日。剛厚つよあつは、まるで梵鐘ぼんしょうにでもなったかのようにがんがんと揺れる頭部を片手で抱え、次兄幸厚ゆきあつに問い返した。


 夕日が障子越しに差し込んでいる。橙色の光に染まる座敷にて、幸厚は神経質そうな顔に憎悪を張りつかせ、対面した異母弟を鋭い目で見つめている。彼は、ゆっくりと噛んで含めるように、再度同じ言葉を発した。


「そなたの妻が、我が家臣を害したのだ」


 雪音ゆきねが、幸厚の家臣を害す。あの華奢な雪音が、か。到底信じられず、剛厚は顔を険しくして、喧嘩腰に上体を前傾させた。


「何を仰るか。全く話が読めぬ。荒唐無稽だ」

「ならば順を追って説明しよう」


 幸厚は異母弟の強面に浮かんだ鬼の形相にも動じることなく、淡々と口を動かす。


「非番だった我が近習が先ほど、意識を喪失した状態で発見された。倒れていたのは町人地の川辺。日当たりが悪い上、除雪作業により雪が積み上げられた側道だ。彼は雪の壁に背中を預けて眠っていた。幸い、救出が早かったため大事には至らなかったが、少し発見が遅ければ命はなかっただろう」


 雪山で、眠るように凍死する人間は多くいる。危うく近習もそうなりかけたのだろう。けれどもそれが、どうして雪音と繋がるのだろうか。むしろこの話は。


「近頃騒がれている、夜間の不審死事件と似ている」

「その通りだ、源三郎。つまり、我々は真犯人特定に近づいたというわけだ。あの事件は、おまえの妻と何らかの関係があるらしい」

「待つのです、小兄者。だからどうしてそこで雪音が」

「近習が、見たと申しておる。あやつは白澤の姫に首筋を吸われて気絶したのだ。そこまで接近しておきながら、見間違えることなどない」

「は、首……」


 想定外過ぎる言葉に、思わずぽかんと口を開けてしまう。幸厚は己の首筋を指先で叩き、躊躇いもなく言った。


「接吻だ」

「せっ!」

「源三郎、半年以上も夫婦として共に暮らしながら、なぜ気づかなかった。あれは妖狐ようこだ」

「な、無礼な!」


 妖狐はその妖艶さを武器に、男性の持つ陽の気を吸い取るあやかしだ。そのため、同じように男を誑かす女のことを、人間は嫌悪を込めて妖狐と呼ぶことがある。人の妻を妖狐扱いとは、兄といえど許せない。


 怒りが一周して、むしろ冷静さが戻ってきた。剛厚は、いわおのようにごつごつとした顔をいっそう険しくして、低い声音で言った。


「小兄者、そなたまさか、仕組んだのでは?」

「仕組む?」

「小兄者はご自身の半鬼たる血筋ゆえ、両親ともに純血である大兄者おおあにじゃそれがしを疎んでいたではないか。もしや、雪音を諸悪の根源に仕立て上げ、某を失脚させて妖山あやかしやま城を落とし、さらには、某を城主に任じた大兄者の責任までも追及して観山みやま城から追い出して」

「何を言う。妻可愛いさに罪をなすりつけるか。そなたは悪しき妖狐に騙されているのだ。わからぬか!」


 幸厚が激怒で顔を真っ赤に染め、唾を飛ばしながら言った。負けじと腰を浮かせ、剛厚は返す。


「雪音が悪しき妖狐だというならば、小兄者は飢えた鬼そのものだ。異母兄弟を死に導き、残された領国という血肉を貪り食わんと企んでいる」

「いったい何を言っているのだそなたは。支離滅裂だぞ」

「雪音はどこだ。会わせろ。会って直接話を聞く」

「会わせろも何も、居場所など知らぬ」

「白をきるか!」


 まるで火がついたかのように身体中が熱くなる。剛厚は片膝立ちになり、腰の刀に手をかけた。


「ことと次第によっては、兄弟とて容赦はせぬぞ」


 幸厚は座したまま、瞳に一筋の哀れみを纏わせながら、異母弟を見上げた。


「抜くがいい。だが、私を斬る前にそなたが刀の露となる」


 ざ、と襖が開く音がした。眼球だけを動かし視線を遣れば、隣の間に幸厚の配下が並び立っている。彼らは一様に柄に手をかけて、今にも抜刀せん勢いだ。


 剛厚は舌打ちをして、柄を握り直す。


「小兄者、父上の教えをお忘れか。矢は一本ならば素手でも折れる。しかし、三本束になれば、そうそう折れやしない。ゆえに狭瀬はざせの三兄弟も、互いに支え合い国を守るのだ。……父上はいつも、我らにそう言い含めていたではないか。にもかかわらず、伏兵を潜ませるなど、何事です。まさか最初から、某を討つつもりだったのか」


 詰問する剛厚に、幸厚は表情一つ変えず、淡泊に言った。


「矢など、観山固有の矢竹で作ったならば、一本でも十分強靭だ」

「大兄者と同じことを仰るのですね」


 異母兄弟の絆を信じていたのは、剛厚だけだったのだろうか。胸に沈殿する怒りの水面を、空虚な風が撫でた。それきり、沈黙が場を支配した。


 橙色に染まる畳に落とされた影たちは、いずれも微動だにしない。一触即発の緊迫感が漂っている。誰かが唾を呑む音すら聞こえそうなほどの静寂だ。


 やがて、張りつめた沈黙を破ったのは、てしてしてし、という気の抜けるような駆け足の音と、突然飛び込んだ高い声である。


「待って待って、喧嘩しないでおくれよう!」


 足裏の爪が廊下の床板を忙しなくひっかく音がして、障子と障子の間から身体をねじ込ませるようにして室内に転がり込んだのは、茶色い毛玉。剛厚は目を剥いて裏返った声を上げた。


「つ、つゆ!? 囚われていたのでは」

「お二人とも、兄弟喧嘩はだめだって! そんなことをしたら、奴らの思うつぼだよ」


 妖狸ようりの乱入に、咄嗟の言葉が出てこない。ただ目を丸くする剛厚とは対象的に、幸厚は冷静だ。


「妖狸よ、奴らとは何者だ」


 露の葉は畳の上に四足で立ち、幸厚を見上げ、それから剛厚に目を向けた。その瞳が、今にも泣き出しそうに潤んでいる。


「ううっ、あ、妖山様あ! ごめんなさい。全部あたいのせいなんだよう。奴らのところで聞いたこと、みんなみんな話すから。お願い、お雪を助けて!」

「雪音? 雪音に何かあったのか!」


 剛厚が刀から手を離して詰め寄ると、露の葉はいよいよ涙を零し、しくしくと言葉を紡ぎ始めた。


「あたい、妖狐と間違われて奴らに捕まっちゃって。それで他の妖狐と一緒に牢に入れられたんだけど、お雪が来て、それで、枯れ葉に化けて喜助きすけの腰にくっついて抜け出して」

「待て、落ち着いて話すのだ」

「うん、えっと……」


 露の葉はぶるりと全身を震わせて気持ちを静めてから、真相を語り始める。耳を傾けながら剛厚は、腹の底で激情が沸き立つのを感じた。


 燃えるような憤怒が血管に乗り四肢の末端にまで流れ込む。体内で飽和状態となった感情が筋肉を隆起させ、額に集い、鬼の角を形作る。余裕を失った剛厚はもう、人の姿を保っていられない。


 騒ぎを聞きつけて集まってきた近習の間から、ざわりと戸惑いの声が上がる。


「お、鬼……」

「殿は噂通り鬼だったのか」


 指摘されて初めて、己の姿を理解する。狭瀬家に鬼の血が流れていることは、決しておおやけにしてはならぬことである。けれども、今さら姿を取り繕うことはできない。剛厚は周囲の騒めきを無視して露の葉に問いかけた。


「うむ、状況はわかった。それで露の葉。敵の首魁は何者だ」


 露の葉の全身の毛が一瞬逆立った。やがて、小さな口が涙ながらに開かれた。


「や、奴らが主と呼んでいたのは、恐れ多くも……」


 震える喉から発せられた名を耳にして、剛厚は瞑目する。再び押し寄せた強烈な感情を、拳を握って身体の奥底に押し込めると、瞼を上げて次兄を見る。


「お聞きになりましたか、小兄者。我らは二人とも、彼に踊らされていたのです。おそらく、我々兄弟の仲を分断させて妖山城を接収するために」


 幸厚はじっと黙り込む。動かない主を前に、幸厚の近習から声が上がる。


「荒唐無稽な話です。まさか、真に受けていらっしゃるのですか。素性の知れぬあやかし、しかも人を化かすことで悪名高い妖狸の言葉ですぞ! お、鬼である妖山殿と通じ、何やら企んでいるのかもしれません」


 幸厚の眉がぴくりと動く。近習は畳みかけるように続けた。


「実際、近頃はあやかしが人間を害する事件が増えているではないですか。妖狐に天狗に、それから」

「そなた」


 剛厚の喉から、低い声が漏れる。はっと口をつぐんだ近習に向けて言葉を叩きつけた。


「今は仲違いしている場合ではないとわからぬか! このまま奴の目論見通りに進めば、あやかしと人間の間に凄絶な争いが始まるやもしれぬ。我らは奥野国を守る立場にある。あやかしだの人間だのと言っていられる状況ではないのだ。小兄者、あなたならば、おわかりでしょう」


 幸厚は異母弟に慎重な目を向ける。数秒、互いの瞳の底を窺い合い、やがて幸厚は頷いた。


「今は手を取り合うべきだ。だが、妖狸の言葉を完全に信じたわけではない。少しでも妙な気配があれば、妖狸も源三郎も、共に斬る」

「それで結構です」


 剛厚は異母兄に頷きを返してから、鬼の姿のまま、居並ぶ面々を見下ろして宣言した。


「皆、互いに思うところはあるだろうが、ここは共同戦線といこう」


 第三話 終

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