7 雪音の秘密
「お母様。あのね、お隣のお兄ちゃんがね、もう二度と遊んでくれないって。
あれも、今夜と同じく初冬の晩だった。大切な友に拒絶され、心の奥に空虚な穴を抱えたかのような寂寞の中。止めどなく涙を流す幼い雪音の背中を撫でて、母は生き様を説いた。
「雪音、したたかに生きるのよ。誰かを愛することほど、無駄なことはないわ。だから、ふとした拍子に他人に依存してしまわないよう、普段から割り切って過ごすのよ」
だが、当時の雪音には理解しがたいことだった。雪音は肩を震わせながら反駁する。
「でも、そんなの独りぼっちみたいで悲しいよ」
「いいえ、違うわ雪音」
母の声は柔らかいが、体温が通っていない。
「本当に悲しいのは、手に入れた大切なものを理不尽に失うことなの」
「お母様も、何かを失くしたの?」
「そうね」
雪音の背中を撫でる手が一瞬止まり、それから何事もなかったかのように再び滑る。
「失くしたわ。でも当然よ。最初から手にしてはならないものだったのだから」
その声があまりにも切なげだったので、幼く純真だった雪音は拳を握り母を真っ直ぐに見上げて言った。
「お母様、私はずっとお側におります。だから寂しくなんかありません」
「雪音」
母は驚きに目を丸くして、湧き上がる感動を堪えて唇を噛む。やがて数秒の瞑目の後、再び瞼の間から覗いた黒い瞳からは、一切の感情が抜け落ちていた。
「雪音、あなたは殿にそっくりね。早く独り立ちして、私の見える場所からいなくなって頂戴。あなたを見ていると、思い出してしまうの。いつか、私が殺してしまうかもしれないあの人のことを」
濡れた頬が凍りつくように冷えている。続いて全身を強烈な寒気に襲われて、雪音は身震いをして瞼を開けた。
「嫌な夢でしたこと」
呟きながら、ひんやりとした頬を撫でる。冷たくなった涙を拭い、瞬きを繰り返しながら薄暗い視界に目を慣らす。
唯一の光源は、正面の岩壁に空いた小さな通気口から差し込む陽光だ。白い光芒が妙に眩しい。その反対側には鉄格子。どうやらここは、牢の中らしい。
雪音の記憶は、町人地の川辺を最後に途切れている。
状況把握のために首を巡らせた時、脈打つような頭痛を覚え、額を抱えて唸った。そういえば、何者かから頭部辺りに衝撃を受けたのだった。軽い脳震盪でも起こしたかもしれない。
深呼吸をして痛みの波を堪える。雪音はゆっくり顔を上げ、這うようにして鉄格子の側へと向かった。
ぐう、と情けないいびきが聞こえた。見れば、看守らしき人間の男が
雪音は袖で口元を覆い、軽く眉根を寄せる。
「まあ。不用心な」
音を立てないようにそっと距離を詰める。淡い光の中、男の手に鍵束が握られているのが見えた。おそらく、この牢を開く鍵もそこにある。
罠ではなかろうか。
あまりにも都合のいい状況に、雪音は束の間躊躇する。けれどもすでに囚われの身。これ以上悪い方向には進むまい。雪音は格子の間から手を伸ばす。指先が、鍵束に触れた。
金属が擦れる音が地下空間に反響して肝を冷やしたが、どうしたことか男はぴくりともしない。変わらず健やかな寝息を立てるだけである。
雪音は、外側にある鍵穴を手の感覚を頼りに探り当て、何本か鍵を挿して開錠を試みる。三本目でようやく正しい組み合わせを見つけると、錠は呆気なく外れた。
ぎぎ、と古びた音を立てながら、鉄格子が開く。囚われ人が脱出した気配に、並んだ牢の奥から、身じろぎする音がした。
他にも閉じ込められている者がいる。目を凝らして隣の牢の闇を窺えば、女ばかりが詰め込まれていた。牢内に漂う微かな
「あなた方は……
その時だ。
「おい、誰かいるのか」
進行方向にあたる階段の上から、足音と共に男が接近する。雪音は後方へ身を隠そうと肩越しに振り返るが、薄闇の中に黒い壁が立ちはだかるのみ。行き止まりだ。
薄らと積もった砂を足裏が擦る音が次第に大きくなる。雪音は唾を嚥下して顎を上げ、階段の先を見上げる。
ふわり、と男の匂いがした。眼球の奥に少し力を込める。地上側から漂ってくる無色透明な靄――生物の雄ならば皆必ずその身に纏う、陽の気が視えた。
雪音は目まぐるしく思考を巡らせる。
囚われた妖狐を解放し、全員で敵に対抗すれば、この場を切り抜けられるかもしれない。……そうだ、妖狐。彼女らがいるのだから、看守らの身に何が起こったとしても、雪音の仕業だと断定されることはないだろう。そして何よりも、熟考するだけの時間が残されていなかった。
「おい、そこにいるのは」
男が言い終わらぬうちに雪音は地を蹴って、相手の首に抱きついた。突然のことに驚きの声を上げる男の首筋に軽く噛みついて、そして吸った。
「な……」
己の身に何が起こったのか、理解が追いついていないらしい。男は反射的に雪音を抱き留めた格好のまま、よろめいて岩壁に背中をつけた。それから我に返り、雪音の身体を引きはがそうとするが、四肢からはとうに力が抜け落ちている。反撃かなわず、ずりずりと背中を擦るようにしてその場に蹲る。
「おま、え、白澤の」
「見間違いよ」
首筋から唇を離し、男の視界に顔を寄せる。食事の名残を惜しむように自身の唇をぺろりと舐め、雪音は、恍惚と嫌悪の間で揺れ動く男の黒い瞳に向けて嫣然と微笑んだ。
「もう終わりなの? やっぱり殿方は屈強に限るわね。さあ、お休みなさい」
気力を保とうと震える睫毛に、優しく手を添わせる。軽く撫でれば男は、抵抗も空しく意識を消失した。
雪音は大きく安堵の息を吐く。気を取り直して、床几に座る居眠り看守の方へと戻る。顔を覗き込めば、変わらず規則正しい寝息を立てている。この騒ぎにも覚醒の気配が全くないのが妙ではあるが、都合がいい。雪音は牢の中で様子を窺っていた妖狐に向けて言った。
「待っていて、今出してあげるから……」
「そこまでだ」
突然、地下空間が明るくなった。思わず目を細め、手で眼球を庇いながら視線を向けると、煌々と燃え盛る
「まさかここで会うとはな」
地を這うような低い声が雪音の
彼を、知っている。それどころか、かつて思慕を抱いていた。想定外の人物の姿に、雪音は瞠目する。
彼の姿を目にした途端、腹の奥底から粘質で重苦しい感情が溢れ出す。それはやがて四肢の先まで広がって、全身を絡め取る。呼吸すらままならず、雪音は小さく喘いだ。
「あなたは」
「見ず知らずの男の生気を吸うとは、夫のある身で相変わらず節操がないな、雪音。いいや」
男は口の端を歪めた。
「悪しき妖狐、と呼んだ方がいいか」
様々な感情が浮かんでは消え浮かんでは消え、手が震えそうになる。雪音は唇を引き結び、鍵束を強く握り締めて平静を装った。男は一歩足を踏み出す。その背後に、数人の男が雪音を牽制するように立ち並んでいることがわかった。
「まさか、おまえが白澤の姫だったとは。しかし五年前と全く見た目が変わらないな。実際はいくつなんだ」
やけに饒舌なのは、彼も気が立っているからなのだろうか。雪音は細く深呼吸をしてから、飄々と返した。
「まあ、お久しぶりですこと、
袖を口元に寄せ、拗ねるふりをしながら様子を窺うが、喜助は表情を変えない。雪音は嘆息して答えた。
「十七ですわ。狐は三歳で大人になりますの。だって、いつまでも子どもだったら、殿方の陽の気を吸えませんでしょう」
「では認めるのだな。白澤の姫の正体は妖狐であると。……まあ、どちらにしてもこの鬱陶しいほどの麝香の匂い。言い逃れのできぬ証拠だ」
喜助は背後につき従う男たちに向けて、鋭く命じた。
「拘束せよ」
その一言で、まるで滝が落ちるように、上階から人の波が押し寄せる。あっという間に捕らわれて、雪音は全身の自由を失った。眉一つ動かさずにその様子を眺めていた喜助に向けて、雪音は吐き捨てるようにして言った。
「偉いお立場になられたのね、喜助様。貧しい農村暮らしの中、妖山の麓で
煽る言葉に、喜助の頬がぴくりと痙攣する。けれども、それだけだった。彼は冷淡な目で雪音を射ると、
「屋敷に連れて行け。一応、主の縁者だ。丁重に扱うように」
(主の縁者。ということはやっぱり)
雪音は心の中で呟いて、男らに促されるまま足を進めて階段を上った。背後からは、囚われの妖狐らが固唾を呑んで心配げな眼差しを送っている。
雪音たちが地上に出る直前。牢の中、妖狐たちの間から、四足歩行の影が現れ鉄格子をすり抜けた。それは誰に気づかれることもなく喜助の腰辺りに飛びつくと、どろんと
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