第三話 妖狐と夜間不審死事件

1 事件の始まり

「寝ている間に息を引き取って、朝にはもう冷たくなっていたんです」


 弔いのこうが漂う一間。白布を被り横たわる若者の枕元で、彼の母親がはらはらと涙を流している。


 季節は初冬。粉雪がちらつき始める時期のこと。


 島国の北部に位置する白澤の所領は例年、冬の訪れが早いのだが、今秋はいつにもまして駆け足だ。朝晩の冷え込みが激しくなるこの季節、夜間の突然死が増えるのは毎年のこと。けれども今年はいっそう不穏である。


 恐ろしげな噂が、まるで忍び寄る雪雲のように人々の間に影を落としているのだ。


 深夜、妖狐ようこが若い男の部屋に忍び込み、一晩の快楽と引き換えに生気を吸って去っていく。翌朝、生気を奪い尽くされた男が屍となって発見される。それも、被害を受けたのは一人や二人ではないらしい。そんな、常ならばあり得ない話である。


 あやかし三箇条第二項に「生気を吸う性質のあやかしは、殺めるほど吸ってはならない」と定められているのは周知のこと。どうやらこの辺りには、人間とあやかしの共存のために制定された取り決めを、堂々と破る者がいるようだ。


 剛厚つよあつが知る限り、最初の不審死は一週間ほど前。当初、被害者は山際の農村に集中していたのだが、いよいよ城下にまで波が押し寄せて、白澤の縁者に死者が出た。


 この日、剛厚は近習を連れ、雪音ゆきねと共に、被害に遭った家臣の屋敷を訪れている。


 本来、城主の妻は、そうそう奥から出るものではない。剛厚とて、当初は雪音を伴うつもりなどなかった。けれども彼女は同行すると言って聞かないのだ。


 嗜めても「あやかしが関与する事件でしたら、お任せください。妖山に馴染みのある私ならば、些細な不審点にも気づくことができるかもしれませんわ」と息巻くのだ。


 胸を張って断言されれば、なるほど確かに一理ある。雪音は妖山の麓で育った。それゆえ、鬼とはいえ人間の城で育った剛厚よりよほど、あやかしに対する理解が深い。


 ということで、近頃では妻に滅法弱いと噂の白澤源三郎剛厚は、身分を隠した雪音を連れて、事件の現場を訪れたのである。ところが。


「このお方の死因は、妖狐ではありません」


 病間びょうまに足を踏み入れるや否や、横たわる遺体を静かに見下ろして雪音が発した言葉に、一同が目を剥いた。


 妖狐は、美しい女に化けて、人間あやかし問わず男を誘惑し、彼らが発する陽の気を吸うあやかしである。そのため、家人が妖狐に誑かされた挙句息を引き取ったとなれば、外聞はよろしくない。男の母親は、妖狐の関与を否定する雪音の言葉に飛びついた。


「妖狐ではないとすれば、いったい何が原因でしょうか」

「毒を盛られた可能性はございませんの?」

「ないとは言い切れません。ですが昨晩、就寝前まで何も変わった様子はありませんでした。最後に言葉を交わした時には、夕餉からもう一刻(二時間)ほどは経っていたはずです」

「遅れて効果が出る種類の毒という可能性は?」

「それも考えましたが、中毒にかかったというには妙なのです。苦しんだ形跡が一切ありません」


 母親や侍女の頬に流れる涙に胸を抉られながら、剛厚は「失礼」と断り、遺体の頭部を覆う布を軽く持ち上げた。細い隙間から覗いた死に顔に苦痛の痕跡はなく、ただ穏やかであった。


「ひとまず城の侍医を呼び、毒物の調査を行わせよう。それで、小雪こゆき殿」


 剛厚は雪音の偽名を呼び、問いかける。


「妖狐の仕業ではないと断言する根拠はあるのだろうか」

「妖狐が殿方を誘惑する時、麝香じゃこうのような甘酸っぱい香りが出るのです。この部屋にはその名残がありません」

「うむ、しかし時間が経っている上に、今は死者を弔う香が焚かれているだろう。すでに麝香の匂いは消え去ったのだとは考えられぬか」

「妖狐の香りはその程度では消えませんわ。むしろ、皆様がこれは妖狐の仕業だと考えたのはなぜなのでしょう」


 詰問する調子にならないようにという配慮だろうか、雪音は柔らかな声音で遺族に訊ねる。母親ははなをすすり、目線で庭の方角を示した。


「昨晩、すぐ近くで狐の鳴き声がしたのです。珍しいなとは思いましたが取り立てて騒ぐことでもないので、様子を見に行くことはありませんでした。今思えば、あの時屋敷内に見回りを出していれば……」

「ご心中、お察しいたしますわ」

「それに、昨晩は吹雪いていましたでしょう? 朝目覚めると、庭に積もった雪に狐の足跡が残されていたのです」


 雪音は軽く眉根を寄せて、何やら考え込んでいる。


 母親は、記憶を言葉にしているうちに無念と憎悪が溢れてきたらしく気が昂った様子である。次第に声が高くなる。


「全てはあやかしのせいです。妖山なんてなくなってしまえばいいわ。そうよ、そういえば先代の白澤様だって、朝がきたらお亡くなりになっていたのでしょう? 先代様にも以前から、妖狐のせいで衰弱なさったのだという噂が」


 そこで、ぴたりと声が止まる。雪音が、静かながらも強い非難の籠った眼差しを注いでいたからだ。母親はやっと失言に気づいたらしく、血の気の引いた顔をいっそう青くして、剛厚に向けて平伏した。


「大変なご無礼を」

「う、うむ」


 小雪が白澤の姫であることは、この家の者には明かしていない。けれども実際、父を悪し様に言われたのは雪音の方だ。内心で憤慨していても不思議ではない。剛厚はちらりと雪音に視線を戻す。彼女の目に浮かぶのは、怒りよりもむしろ、言い知れぬ悲しみのような情だった。


「とにかく」


 軽く目を閉じ大きく息を吸ってから、雪音は常と変わらぬ柔和な声音で言った。


「状況はわかりましたわ。大変なところありがとうございました。どうかお気を落とされませぬよう」


 その後、剛厚たちは、屋敷の庭に直線的に刻まれた狐の足跡を観察し、帰路につく。


 賑やかな城下町を抜け、妖山城の門へと続く坂道を上りながら、剛厚は死者の母親の涙を思い出し呟いた。


「奇怪な事件を止める手立てを持たぬ己の無力さが遣る瀬無い。あの家は、若くして先代当主を亡くしていたはずだ。一人息子の早すぎる死には、いっそう堪えるものがあるのだろう」


 頭部をすっぽりと覆う被衣かつぎの下から、雪音の声が返ってくる。


「家督はどうするのでしょうか」

「親類筋から次期当主を迎えるのだろうな」

「そうですか。いっそう許せませんわね。このような非道を行う者どもが」

「心当たりがあるのか、雪音」

「いいえ、まだ。けれど」


 それきり雪音は黙り込む。聡明な雪音のことだ。きっと、剛厚には見えないものを見て聞こえないものを聞いているのだろう。


「よいか、くれぐれも危険なことはしないでくれよ」

「……心得ておりますわ」


 回答までに空いた微妙な間に、心底不安になる剛厚であった。

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