18 顛末、そして、てててて手!
帰城早々、
普段から、
さて、人心地つく間もなく、剛厚は
剛厚らと共に敵の本拠地に乗り込んだなつめは、どうやら家族の許可を得ていなかったらしい。帰城の朝、手を揉み顔面を蒼白にして娘を待ちわびていた養父母に迎えられ、無鉄砲を咎められつつも、無事の再会に涙と鼻水を流していた。
そうして数日後。集められた調査結果を基に合議の場を設けたのが、この日中のこと。北藍川の氾濫時、新たに生まれた支流により村が三つ流されたらしく、治水工事をどのように行うべきか、議論は紛糾している。そのまま日暮れを迎え、合議はいったんお開きとなった。
精神的に疲労困憊した夜。剛厚は寝具の上に胡坐をかいて、うんうんと唸っている。
「氾濫地域の復興までには時間がかかる。季節は盛夏。今から田植えはできぬから、今秋の実りは期待できない。そもそも支流はどうするか。新たに龍が生まれたということは、堰き止めるわけにもいかぬのだし……」
――人間たちは度を越してんだよ。
山寺で、北藍が吐露した心中が幻聴となって耳にこだまする。
――川を汚し、必要以上に水を奪う。それくらいならまだ可愛いもんで、流れを変えて堰き止めることだってする。浸食や氾濫で新しく生まれようとした支流に堤防を築き、弟妹の命をまだ種のうちに刈り取った。それもこれも全部妖山城主の命令だ。
そう、代々の白澤当主が背負った業である。けれどもその方針は、川沿いに住まう多くの人間の命を救い、適切な治水により田畑に実りをもたらした。
新しく生まれた支流のせいで、流された村がある。一刻も早く川を堰き止め、元通りの里を取り戻さねばならない。けれども龍をはじめとするあやかしとて、白澤の領民である。これをいかに解決するべきか。
「支流の周りに田畑を作ってはいかがですか」
「……うぬ?」
正面に
「流されてしまった村はたいへん残念で、民の気持ちを思えば心が痛みます。けれど、どちらにしても一から村を作り直す必要があるのでしょう。今回氾濫した地域はきっと、地形的に難があるのです。水が引いたとしても、今後も水害の危険があるということですわ。せっかく支流ができたのですから、民にはそちらに移住してもらいましょう。川沿いにあたる地域が多くなれば、耕作できる土地もぐんと増えるはずですし。ゆくゆく村が大きくなれば、白澤の所領もいっそう富むはずですわ」
「そうか」
剛厚は腕を組んで呟いた。
雪音の提案は、思い至ってみれば単純な話である。けれども合議では、いかに水を治めるか、いかに人間の地を取り戻すか、という点ばかりが論じられ、簡単なことに気づく余裕すらなかった。
「新たに生まれた川を抑え込むのではなく、共存する。発想を転換すればよいのだな。雪音、さすがだぞ!」
妻が妙案を口にした感激と、頭痛の種が解消された安堵が同時に胸を満たす。剛厚は思わず膝立ちになり、雪音を抱き締めた。
「きゃっ」
腕の中で、ごき、と関節がずれる音がした。あやうく、雪音の華奢な身体が鬼の剛腕に粉砕されるところであった。慌てて抱擁を緩める。
「す、すすすすまぬ!
「い、いいえ。その」
小柄な妻を上から包み込むように背中を丸めていた剛厚の鼻先に、雪音の愛らしい顔がある。どんぐりのような目が大きく見開かれている。やがて頬に朱が差し、ふいと斜めに視線を逸らされた
普段、余裕のある笑みを崩さない雪音。初夜の寝所では妖艶に迫ってきさえした。その彼女が頬を赤らめるなど、想定外である。剛厚は調子を狂わされて狼狽えた。それと同時に胸の奥から熱いものが込み上げて、全身に染み渡る。
愛おしい。叶うことならば己の正体を打ち明け、雪音と真に心を通わせたい。雪音の衿元から、甘い香りが漂ってくる。美味そうで、どこか艶めかしい。
「雪音、その」
ぐ、ぐううううう。
剛厚の腹が上げた無粋な轟きを最後に、寝所中から音が消えた。二人は顔を見合わせる。やがて、雪音は袖を持ち上げてくすくすと笑った。
「まあ、源三郎様ったら。お腹が痛いのかしら。それとも空腹ですか? さあ、きゅうりをどうぞ」
「うむ、かたじけない……って、なぜここにきゅうりが」
「
「丹精込めてきゅうりを育てていたのは、なつめたちのためであったのか」
剛厚は、河童の好物であるきゅうりを半分に折り、片割れを差し出した。やや驚いた顔をした雪音だが、すぐに柔らかく微笑むと両手で受け取り、小さな口に頬張った。
剛厚も、鮮やかな緑に歯を突き立てる。ぱりっとした歯ごたえの後、みずみずしい汁が口内を潤す。嚥下すれば、素朴な幸福感が全身を満たし、食欲の猛獣は腹の奥底に帰って行った。
「あの、源三郎様。お願いがありますの」
きゅうりが胃の中に消えた頃、雪音がぽつりと口を開いた。
「どうしたのだ、改まって」
「手を」
剛厚の言葉に被せるように、ほんの少しだけ上ずった声で雪音が言う。
「今宵は眠る時に、手を握ってくださいませ」
「は」
突然のことに石になる剛厚を、雪音が上目遣いに見つめた。まろやかな曲線を描く頬が微かに赤らんでいる。妻の妖艶な眼差しを浴び、身体中の血が瞬時に沸騰した。
「て、てててて手! このような汚い手でよいのならば、いくらでも」
「まあ。……ふふふ。ありがとうございます」
この頃には雪音の頬は、元の色白に戻っていた。
その晩、二人は宣言通り、手を握り合って眠りについた。翌朝、寝具からはみ出た左腕が冷えてしまったのか、屈強な剛厚にしては珍しく、風邪を引いたらしかった。
第二話 終
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