11 お役に立ちたくて
深夜。青白い月が崖上の
けれども当然、確証がない段階で兵を差し向けることなどできかねる。まずは様子を窺うために三人は、岩の陰に身を潜めていた。
寺の住人が暮らす本坊の明かりは落ち、誰もが寝静まっている。質素な寺だ。けれども一つ、妙なことがある。なつめが首を傾けて呟いた。
「水が豊富ですね」
剛厚たちの鼻の奥をしっとりと満たすのは新鮮な水の香り。絶え間なく鼓膜を揺らすのは、水のせせらぎだ。
崖下から乾いた風が吹き上がる場所に位置しているはずの山寺。通常ならば、地面は乾燥していそうなものなのだが、踏み締めた土は所によってぬかるんでいる。あちらこちらに泉が湧き、小さく噴水が上がっている池もある。
「まるで水の国ですね。河童でも住んでいるんでしょうか」
「何言ってるのさ。ここに住んでいるのはあやかしじゃなくて、人間の山伏だよ」
険阻な道を上った疲労で息を切らせたままの南蒼が、気怠げに言う。剛厚は顎を撫でて唸った。
「水封じの術を使う山伏。都の陰陽師崩れか?」
陰陽師とは元々、都で朝廷に仕える官吏を指したのだが、近年、民衆の需要を満たすために陰陽の術を会得する在野の僧侶が増えている。もっとも、そのほとんどが胡散臭い呪術師であるのだが。
「陰陽師崩れの山伏呪術師」
呟いてから、なつめは生来眠たげな印象の目を精一杯つり上げて吐き捨てた。
「あやかしに詳しくない人間たちからは天狗と同一視されることもある、迷惑な存在ですね」
天狗と将来の約束を交わした娘からすれば、迷惑千万なのだろう。鼻息荒く拳を握るなつめの肩を軽く叩いて宥め、剛厚は促した。
「本坊に近づいてみよう」
隠密行動には幸いなことに、周囲の水音が剛厚たちの立てる物音をかき消してくれる。近づいた本坊の中には人がいるはずだが、相変わらず暗く静まり返っていた。
にもかかわらず剛厚の耳は、少し離れた場所から、じゃり、という砂を踏む音を捉えた。まさか寺の者に見つかったか。ひやりとしつつ、首を巡らせ音の出どころ辺りに目を向ける。
寺の奥に繋がる細い石段の側、そそり立つ大岩の陰に、怪しい小柄な影がある。暗がりに溶け込んでいるため、何をしているのか判然としないものの、剛厚らに気づく様子もないため、おそらくこちらに背を向けているのだと思われる。
「寺の者か?」
「うん? ああ、いや、あれは」
剛厚の呟きで、大岩に身を寄せる人影に気づいたらしい南蒼。なんと彼は、堂々と本坊の前を通り過ぎ、人影に近づいた。
「ねえ」
「きゃっ!」
息を呑むような可憐な悲鳴が小さく鳴る。その声に聞き覚えがありすぎる剛厚は、思わず彼女の名を漏らした。
「ゆ、雪音?」
「ええっ!」
なつめも声を裏返らせる。小柄な影がこちらを振り向く気配がした。
「まあ、殿」
「やはり雪音か!」
彼女の無事を知り、全身の力が抜け落ちるような心地がした。剛厚は足音が響くのも気に留めず、本坊の正面を横切り雪音の前に立つ。
「無事だったか。よかった。心配したのだぞ」
衝動のまま腕を開き、妻を抱き締めようとして……全身に突き刺さる視線を感じ、踏み止まった。見知らぬ短髪の青年が、つまらなそうに夫婦再会の様子を眺めている。
「やあ、奇遇だね。兄さんもここにいたんだ」
南蒼が、短髪の青年に語りかけた。兄、ということは彼が
「おまえ、体調は問題ないのかよ。休んでいろって言ったのに」
「妖山殿が、敵を知らなければ攻められないって言うからとりあえず偵察に連れて来た。兄さんはいったい何があったのさ?」
「俺は……」
再会を喜ぶ龍の兄弟と、ぽつんと寂しげな河童娘のなつめ。剛厚は咳払いをして、雪音に向き直る。
「
「一足先に解放されましたわ。なつめ、戸喜左衛門は無事よ。安心して」
「ああ、よかった……よかったよう」
なつめは全身を安堵に脱力させ、ずびずびと洟をすすり始める。すかさず友の背中を撫でる雪音に、剛厚は訊ねた。
「しかし雪音、なぜここに」
「北藍川の龍から、怪しげな山寺に呪術師が潜んでいると聞きましたの。もしかすると、南蒼川が涸れて北藍川が氾濫した原因が特定できるのではないかと思って」
「ならば一度
「善は急げと思ったのですわ。それに、殿にご相談するのなら、確証を得てからの方がいいかと」
「人間でありながら、なぜ危険に首を突っ込むのか!」
剛厚は思わず声を高くした。人間は、その数の多さと団結力により繁栄したが、あやかしに比べて肉体的にか弱い存在だ。さらに雪音は、人間の中でも小柄であり、儚げな若い女人である。荒事の渦中に巻き込まれていいはずがない。
けれども雪音は動じない。剛厚の懸念をよそに、不思議そうな目をして首を傾けた。
「あら、あなた様も人間でしょう?」
「うっ、しかしだな。図体のでかいことだけが取り柄の某と、華奢なそなたとでは話が別だ」
「私は代々この妖山を治める白澤家の娘です。それに母の身分が低かったので、外で育てられた身。城に迎えられる前には、母と共に妖山の麓に住んでおりましたの。だからこう見えても逞しく」
「だから、ではない!」
いよいよ声が、境内に響いた。龍たちの会話も止まる。剛厚はきまり悪く頭を掻いた。
「その、声を荒げてすまぬ。だが、心配なのだ」
「でも」
雪音の大きな瞳に、みるみるうちに涙の膜が張る。
「私も、殿のお役に立ちたいのです。だって未だ夫婦の営みもなく、妻の役目を何一つ果たせておりません。殿は私のような女はお好みではないのでしょう? ならば一人の人間として、あなた様のお側に」
「うっ、ち、違うぞ。それもこれも、つまり、その」
なつめが興味深そうに耳を傾けている前でこのような話題は気まずい。そして何よりもまずいのは、山中を歩き疲れた剛厚は、たいそう空腹だということである。雪音の全身から立ち上る香しい血肉の匂いと、いつもの甘酸っぱいような魅惑の芳香。剛厚は、沸騰したように熱くなり始めた胃をさすった。
「ま、まあいい。とにかく、来てしまったのだから致し方ない……」
「おぬしら、何者か」
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