10 天狗の酒はすごいらしい

 覗き込むと、穏やかな寝息を立てる健やかな赤子の顔がある。まだ生え揃わない水色の髪がふわふわとして愛らしい。雪音ゆきねは心を奪われて、赤子のふっくらとした頬に手を伸ばした。


「何て可愛らしいこと。龍の子は何を食べるのかしら」

「触れるな、汚らわしい人間め」

「まあっ」


 北藍ほくらんは勢いよく身体を捩り赤子を遠ざけ、半身に構えて雪音を睨む。


 雪音は眉をひそめたが、もう一人の弟である南蒼川なんそうがわが人間のせいで涸れたのならば、北藍の態度も無理はない。


 大人しく手を引っ込めた雪音に再度鋭い目を向けてから、北藍は少し肩の力を抜いて、戸喜左衛門ときざえもんへ告げた。


「天狗が来たぜ。戸喜左衛門を解放しろってな。阿呆なんじゃないかってくらいの量の清酒を持ってきた。人質と引き換えだそうだ」

「おお、仲間らが!」

「俺は川なんだぜ。酒なんかいらねえよ。下流で水を飲んだあやかしが酔っぱらったら面倒だし」

「でも、天狗のお酒は質がいいと聞きますわ」


 雪音は大袈裟に驚いた顔を作り声を高くして、身を乗り出した。


「しかも、一杯飲めばどれほどの酒豪でもすぐに気分がよくなるのですって。たとえば城下の商人にでも売れば、たくさんの銭が手に入るはずよ」

「それ、尋常なく強い酒ってだけじゃねえの? とにかく、人間が使う銭なんかありがたくも何ともねえ。富、富、富って、反吐が出る。欲望に駆られて木を伐り、必要以上に山の恵みを奪っていくおまえたちには、うんざりなんだ」

「返す言葉がありませんわね。でも、人間をうまく利用するには、財力がものをいうでしょう? あやかしは人間よりも個々の身体能力は高いけれど数が少ないのですから、拳で人間たちを打ち負かすのは困難だもの」

「けっ」

「幼い弟を抱えて、これから何が起こるかわかりませんのよ。先立つものがあれば、何かと役立つはずですわ」

「おお、雪音殿の言う通りだぞ」


 戸喜左衛門が膝を打つ。


「我らの清酒は純度が高く、悪酔いをしづらいのでござる。その証左に天狗の赤ら顔を見るがよい。老若男女、四六時中酒を飲んでおるが、時に泥酔して日がな横になって過ごしても、翌朝にはすっきりさっぱり素面しらふでござる」

「まあ、それはすごい。北藍、戸喜左衛門と一緒に城下へ清酒を売りに来るといいですわ。妖山城御用達の商人を紹介しましょう」

「何なんだよおまえら」


 いやに活きのいい囚われ人らに、北藍は気味悪そうな目を向けた。それから、腕の中で手足を暴れさせ始めた弟を抱き直し、溜め息をつく。


「まあいい。貰えるもんはありがたくいただいておこう」

「うむ。では交渉成立でござるな。雪音殿、これで我らは晴れて自由の身」

「いや待て、女。おまえは帰さねえ」


 北藍は無遠慮に雪音の腕を掴んだ。


狭瀬はざせの縁者だってんなら、敵との交渉材料にもってこいだ。実は最近、近くの山寺の山伏が妙な動きをしてんだよ。弟の川が涸れたことと関係があるんじゃないかと踏んでいる。だからおまえを人質にして、山寺の主に訴える。南蒼川を元通りにしなければ、城主の妻の命はないぞ、そうなればおまえらは狭瀬と白澤から討たれるだろうってな。そもそも俺は、人間のことが嫌いなんだ。おまえのことも、たんと苦しめて、それで」

「待て待て、そもそも雪音殿はな」


 北藍の不穏な声に、戸喜左衛門が割って入ろうとする。それを片手で制し、雪音は顎を上げた。


「どうぞ、交渉材料にしてくださいな。そうだ、私も共にその山寺とやらに参りましょう。白澤の者として、不届き者に目をつぶるにはいきませんもの。それに、私はあなたの敵ではありませんわ、北藍。妖山の領民は、あやかしも人間も皆、庇護すべき白澤の民ですから」

「雪音殿」


 戸喜左衛門がもの言いたげな視線を投げてきたが、雪音は揺るがない。


 そもそも川の様子を見に来たのは、事態を解決するためなのだ。敵の巣窟へ案内してもらえるというのなら、願ったり叶ったりである。

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