7 きゅうりが……ある!
「仲間の河童が見たんです。お雪様と
「流されたところを目撃されたわけではありません。でも、あの鉄砲水ですから……」
「なぜ二人は川にいた」
「た、多分、川辺の住民のためです。ほら、最近雨がすごいじゃないですか」
「雨か。うむ、毎日の頭痛の種だ」
「
「長雨の原因は兄弟愛か。わからぬでもないが、そもそもなぜ南蒼川は涸れたのだ」
「それが不明で……ひやっ」
肩越しに振り返り剛厚の顔を見たなつめが、飛び跳ねんばかりに全身を痙攣させて立ち止まる。
思い悩む剛厚の表情が、さぞ恐ろしかったのだろう。剛厚は顔面を手で擦り、強張った頬を緩めようとした。たとえ笑っても、獲物を前に舌なめずりする猛獣のように狂気を帯びて見えると指摘されたことがあるのだが、苛立った顔よりはましだろう。
「いやすまぬ。なつめには感謝しているのだ。ただ、雪音たちのことが心配で」
「え、ええそうですよね。申し訳ありません。私が、お雪様に川の氾濫の話なんてしてしまったから、こんな、ことに……ふ、ふえっ」
「よい! よいから泣かないでくれ!」
「はひ。すみません」
なつめは唾を呑んで嗚咽を堪えると、足を動かし始めた。時折、ずびずびと
氾濫地域には
特になつめは、小心なりに気張っている。河童は頭の皿が乾くと命の危機に陥ってしまうし、皮膚も常に湿らせておかねば荒れてしまう。けれどもなつめは、心は河童ながら身は人間。川辺から離れた山中に分け入っても問題ない。
捨て子であった己を慈しみ育ててくれた河童の皆に恩返しをしたいと健気に語る様を見て、剛厚は涙を拭いたばかりである。
さて、山に入り半刻ほど。太陽は山の向こう側に隠れてしまい、空は紺色に呑まれ始めている。辺りは、木々の落とす影で仄暗い闇に沈みかけ、そろそろ眠りにつこうかという鳥たちが、梢で騒がしく鳴き交わしている。
人間ならば、忍び寄る宵闇に足元が覚束なくなる時刻である。けれども剛厚はあやかしだ。自然の暗さなど、気にするに及ばない。そう、あやかしならば。
「妖山様、あの、足元は大丈夫ですか。人間の目にはそろそろ辛い暗さになってきましたよね。あ! 明かりを持ってくればよかったです。わ、私ったら気が利かず、役立たずで、何をやっても不器用で、それで」
「いやいやいや、問題ない。しかし人間というならば、なつめも同じだろう?」
「私は心配に及びません。物心ついた時から、あやかしと共に山で暮らしていたので、目が鍛えられたみたいで夜でも物が見えるんです。でも妖山様は」
「じ、実のところ
なつめは眠たげな印象の垂れ目を少し見開き剛厚を見上げてから、感心したように頷いた。
「すごい、さすがはご領主様です。あやかしの住まう山をお治めになるためにお生まれになったのですね」
「うむ。それほどでも。……おや、そろそろ川幅が狭くなってきたな」
「あ、なつめ?」
慌てて後を追う。苔むした岩々の連なりを一山越えると、目的の分流点が現れた。なつめは川の飛沫に湿った草の上に蹲り、地面を凝視している。
「何かあったのか……うっ⁉」
おもむろに剛厚を見上げたなつめの顔が、涙と鼻水でびしょびしょに濡れている。彼女の手元を見ると、厳つい錫杖が握り締められていた。
「戸喜左衛門様の錫杖です。こ、こんな場所に転がっているなんて。やっぱり二人は流されてしまったんだわ」
剛厚は、全身の血がすっと冷えるのを感じた。雪音たちが川に呑まれたかもしれないと聞いてからも、心のどこかでは、二人は無事であり、ひょいとどこかから姿を現すのではないかと希望を抱いていた。
けれども、そんな淡い願いは打ち砕かれたも等しい。天狗が常に手にしているはずの錫杖が無造作に転がっていたということは、戸喜左衛門の身を何らかの事件が襲ったと考える他ないだろう。
度重なる心理的衝撃に、なつめの涙腺はとうとう決壊したらしい。緑がかった両手で顔を覆い、頭の皿から水が零れるのも構わずに髪を振り乱した。
「ふ、ふえええええええん。戸喜左衛門様、お雪様」
「だ、だだだだだ大丈夫だ。大丈夫だぞ!」
剛厚とて泣き出したい気分だが、なつめの号泣を目にして涙は引っ込んだ。
「戸喜左衛門は天狗だろう。もしや、雪音を抱えて飛び、濁流から逃れたかもしれぬ。ほら、それゆえ邪魔になった錫杖を放り投げたのだ。うむ。そうに違いない。そなたの思い人は、空を飛べるにもかかわらず、ただ水に呑まれるだけの軟弱な男ではなかろう。仮に下流に流されたのだとしても、おそらく何らかの考えがあってのこと」
なつめはぴたりと動きを止めて、指の間から疑わしげな目を覗かせる。
「まあそこに座れ。一休みしよう。某もくたくただ」
隆起した杉の根を示せば、なつめは錫杖を抱いて大人しく腰掛ける。剛厚も隣に座り、腿に肘を突き両手で額を抱えた。目まぐるしい一日の疲れがどっと出た。家臣らと不作に備えて策を論じていた日中が、何日も前のことのように感じられる。
「そろそろ日が暮れる。一度戻るが得策か」
剛厚が零した声に、なつめは黙ったまま錫杖を撫でた。
「いかに夜目が利くとはいえ、夜間の捜索は危険だ。熊や狼に出くわす可能性もある。我々までもが山で行方不明になるわけにはいかぬぞ」
「でも」
「なつめに何かあったら、戸喜左衛門が悲しむだろう。ほら、城に帰り、採れたてのきゅうりでも食うといい。河童の大好物のはず」
なつめはじっと錫杖を見つめていたが、やがて洟をすすって顔を上げた。
「ぐすん。そう、ですね。ああ、泣いたらお腹が空きました……あれ?」
不意に言葉を止めて、なつめは怪訝そうに首を巡らせる。鼻をひくひくとさせて、夏の夕方の涼やかな風を嗅いだ。
「そういえばさっきから、きゅうりの匂いが」
張りつめていた気持ちが緩むと腹が減る、というのは大いに頷ける。けれども好物の幻嗅など、さすがの剛厚ですら体験したことはない。普段からところ構わず湧き上がる己の食欲を棚に上げ、剛厚は微笑ましさと呆れが入り混じった声音で言う。
「何を申すか。まさかこんな山中にきゅうりが……ある!」
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