6 小さな龍
先ほど目にした分流点の水勢は、
それがどうしたことか、下流に向かうとまるで地面に水が吸い込まれてしまったかのように、川が浅く細くなる。水嵩が減ってからしばらく経つようで、干上がった川底に転がる乾いた石ばかりが目立っている。
とうとう、微かな湿り気を残して南蒼川が途絶えると、辺りには草木の揺れるさわさわという音と、鳴き交わす小鳥の囀りばかりが響いた。
「そもそも、農業や生活にその水を利用されている北藍川ならばまだしも、南蒼川の方が干上がるのは妙でござるな」
「地形の問題なのかしら」
「しかし大規模な地震があったわけでもないようだし、急に水量が変わるのは解せぬこと」
「北藍川の水を南蒼川に誘導できれば、洪水の危険が回避できるかもしれませんわね」
「急に消える水の原因がわからねば、二次被害が起こる可能性が捨てきれぬ。差し迫った状況になればやむなしだが、軽はずみには動けまい」
「確かにそうね」
そのまましばらく辺りを調査したが、さしたる手がかりもない。夏の盛り、昼が長い季節とはいえ、気づけば日が傾き始めている。
二人は、ただ時間ばかりを浪費してしまったことを悔やみつつ、来た道を引き返した。
ほどなくして、例の即席道しるべが現れる。
ゆらゆらと揺れるきゅうりと羽根。このまま立派な野菜を無駄にしたとなればもったいない。結局危険はなかった上、短時間で戻って来たのだから、道しるべは不要であった。
「ねえ、戸喜左衛門」
木に登ってきゅうりを回収してはくれまいか、そう言いかけた時である。
「おいおい、何だこりゃ。人の縄張りにごみなんか捨てやがって!」
粗野な声がしたと同時、高所でぶらぶらと揺れる道しるべを水の刃が襲い、細い布が呆気なく切断される。
ぼとりと悲しげな音を立て、きゅうりと羽根は地面に落下した。重力により意図せず出来上がった、たたききゅうりが哀れ。雪音は眉を怒らせて、水が噴出した方を睨んだ。
「まあっ! 何てことを!」
「ああ? おまえら誰だ。ここは俺の領域だぞ」
木々の間を縫うように浮遊しつつ現れたのは、一尺五寸(約四十五センチ)ほどの藍色半透明の蛇。ではなくて。
「龍でござるか?」
「それにしては小さい」
種類を問わず、大きく強そうなものに心惹かれる雪音である。小さな龍は可愛らしいが、好みではない。
小娘が思わず漏らした声に、藍色の龍はくわっと口を開いて牙を剥く。
「うっせえな、女。おまえだってチビだろ。俺はわざと小さくなってんだよ。でかいと森の中で動くのが不便だろ」
人型だったならば唾でも飛ばしそうな勢いで捲し立てられ、雪音は袖で口元を押さえて顔をしかめた。
「あやかしの中でも特に神に近しいはずの龍が、まるで野盗のように粗暴ですこと」
「そういうおまえは人間……か? それと天狗」
「
「けっ、天狗はともかく、人間になんか興味ないね」
「まあ」
いっそう柳眉をひそめる雪音をちらりと見てから、戸喜左衛門は大仰に肩をすくめてわざとらしく言う。
「して、おぬしは何者なのだ。こちらだけ名乗らせておいて、己は悪態をつくばかりとはなるまいな。よもや龍ともあろうお方が礼を失するなど。いや、よもやよもや」
藍色半透明の小龍はささやかな大きさの舌を盛大に打ち鳴らす。
「ちっ、俺は
「あなたが」
龍は水を司る存在である。ならばもしやと思ったが、まさか彼こそが北藍川の龍だとは。このように都合のいい出会いがあるものだろうか。雪音は身を乗り出すようにして、北藍に詰め寄った。
「私たち、北藍川が溢れそうだと聞いて心配でやって来ましたの。ねえ、今何が起こっているのかしら。先ほど南へ行ってみたのですけれど、川が不自然に途切れていましたわ」
「不自然にって、弟の川が途切れたのは人間の仕業だろうが」
「人間の?」
「俺がいくら雨を降らしても、埒が明かねえ。水を妨げる
「ということは、近頃の異常な雨の原因はあなたなのね」
「仕方ねえだろ。そもそも人間どもが……いや、待てよ」
北藍川は空中を滑って雪音と鼻先を突き合わせた。龍の鼻面からは、清流のようなひんやりとした香りがする。
「妖山城主、と言ったか」
「ええ」
「この辺りを治めている人間だよな」
「そうですわ」
「妖山城主は確か、
「ええ。そして今の妖山城主は観山殿の異母弟よ」
「異母弟。へえ、なるほど」
北藍川の声が低くなる。水で構成されている龍の全身から、まるで氷の塊のような冷気が発せられた。
どこからか冷たい風が吹き、流された雲で太陽が翳る。遠くで雨が降っているのだろうか、湿気を含んだ森の濃密な香りが鼻腔を刺激した。
自他共に認めるほど図太い雪音だが、さすがに不穏を感じて一歩引く。その腕を、雪のように白い男の手が掴んだ。眼前に迫っていた藍色半透明の龍は消えている。代わりに、目が痛むほど奇抜な色柄物を纏った藍色の短髪を持つ若者が立っていた。
「逃がさねえぜ、おまえはいい人質になる」
「雪音殿!」
戸喜左衛門が切羽詰まった声で叫んだのと同時、司川の上流から地鳴りと共に濁流が押し寄せた。状況を理解するより前に、溢れた水に足を掬われて、雪音は川に呑み込まれた。
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