8 奥方の命と引き換えだしね

 剛厚つよあつは思わず腰を上げ、やや離れた小岩の側を指差した。なぜか地面に、たたききゅうりが散らばっている。粉砕されて飛び散った汁が、なつめの嗅覚を捉えたのだろう。


 たたききゅうりの側には、土に塗れた白布の切れ端と、そして。


「黒い羽根?」

戸喜左衛門ときざえもん様の羽根だわ」

「何、わかるのか?」


 なつめが弾かれたかのように立ち上がり、小岩の側に駆けつける。どうやら、無残に打ち砕かれる前までは、きゅうりと羽根は共に布に結ばれ連なっていたらしい。


 鴉か何かの悪戯かと思ったが、どうも気にかかる。地面に転がる緑と黒の組み合わせは、つい最近どこかで目にしたような気がするのである。きゅうりと羽根。きゅうりと羽根。ぼんやりと脳裏に浮かび上がる、二つの人影……。


「まさか」


 剛厚が口を開きかけた、その時だ。


「うるさいなあ」


 がさり、と下草を踏み分けて、蒼い長髪をした線の細い若者が現れた。顔色が青白く、目元には薄らと隈が浮かび、不健康そうな容貌だ。若者は杉の幹にもたれかかり、気怠げに言う。


「見慣れない奴らが次々とやって来るんだけど、今日は何かの祭りなの? 静かに眠らせてくれない?」

「そなたは、この辺りに住むあやかしか?」

「僕は南蒼なんそう。この川そのものだ」

「川そのもの」


 つまり、川の化身である龍ということか。南蒼は眼球だけ動かし、最小限の労力で剛厚へ視線を向けた。


「それで、あんたは何者?」

「申し遅れた。それがし妖山あやかしやま城主、白澤源三郎。彼女はこの辺りに住む河童のなつめだ」

「はあ? その子河童じゃなくて変装した人間でしょ」

「いいや、彼女は河童だ」


 剛厚が強く訂正すると、南蒼は胡散臭そうになつめを眺め回したが、面倒になったのか剛厚へと視線を戻した。


「まあ何でもいいけどさ。で、ご領主様とあやかしが連れ立ってどうしたのさ」

北藍川ほくらんがわが溢れたのはご存じか。実は我が妻たちが、氾濫に巻き込まれてしまったかもしれぬのだ。それゆえ、手がかりを求めて山に入ったという次第。南蒼とやら、小柄な人間の女人にょにんと某よりも少し年長と見える天狗の男を見かけなかったか」

「人間と天狗……ああ、それらしい二人なら日中にその辺りをうろついてたよ。その変なごみを置いて行ったのも彼らだ」

「まことか!?」


 思わず唾を飛ばしながら詰め寄る剛厚。南蒼はうっとおしそうに少し身を引いた。


「暑苦しいなあ。そんなに顔を近づけなくても聞こえるよ」

「うっ、それはすまぬ。して、二人はどこへ」

「ああ、流されてたね」

「流され……」


 あっけらかんと告げられ、息を呑む剛厚。真っ白になりかけた思考を繋ぎ止めたのは、なつめの湿った声である。


「や、やっぱり。ううっ、ふ、ふえええええええん」

「なつめ、気を確かに!」

「ねえ、君たち本当に騒がしいよ」

「だってえ。わ、私のせいでえ」

「あーあ、はいはい。詳しい事情は知らないけど、多分大丈夫だよ」


 南蒼は眉根を寄せ、口の片端を下げて嫌悪も露わに溜め息をつく。


「二人は自然の鉄砲水に流されたんじゃないから」

「と言うと?」

「兄さんが連れて行ったんだ」

「兄……もしや、北藍川の龍か?」

「うん、そう」

「兄君はなぜ雪音を連れ去った!」

「さあね。人間に対しての切り札だと思ったのかも」


 剛厚は意図が読めずに顔を険しくする。南蒼は幹から肩を離し、腕を組む。


「僕さ、今にも倒れそうだろう」

「うむ、あ、いいや」

「気を遣わないでよ。自分でもわかるくらい弱ってるんだから。全ての原因はね、人間だよ。目的はよくわからないけど、南蒼川に水封じのまじないを施した人間がいるみたいなんだ。おかげで南蒼川は干上がって、僕はこんなにやつれたってわけ。あーあ、少し前までは美青年で通っていたのにさ」

「はあ」

「だから兄さんは雨を降らせて僕を助けようとしてくれている。でも、何より手っ取り早いのは、水を封じた術師に呪いを解かせることだ。あの小娘が城主の奥方だっていうなら、人質として役立つかもしれない」

「だが、某を脅したとて、術師に心当たりはないぞ。そもそも水封じの呪いなど眉唾ではないか。そのようなものがあるならばとうに、国中どころか隣国、そして島国中に広がり、水害とは無縁の世になっているはずだ」

「じゃあどうして、忽然と川が消えるのさ」

「うむ、それは」

「まあとにかくさ、敵の根城の検討はついているんだよ。妖山殿はもちろん、事件解決のために動いてくれるよね。財や権力、人脈も全部使ってさ。だって」


 南蒼は薄く微笑んだ。


「奥方の命と引き換えだしね」

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