2 天狗と河童娘
翌日、まだ日が昇りきらない早朝に、
西の海辺にある観山城。北の山深い地域に位置する妖山との距離は、馬を急かせれば日のあるうちに行き来可能な程度である。少人数の供を連れ、剛厚は物思いに耽りつつ馬を駆る。
かつて、島国全土の山に籠って暮らしていたあやかしら。人が山を切り開き川を堰き止め地形を変えたことで住処を失い、彼らが平地へ下りざるを得なくなってから、かれこれ四百年近く経っている。
今や、人間とあやかしは隣人である。互いに禍根なく暮らすために、あやかし三箇条も制定された。それゆえ、狭瀬当主の正体が鬼だと知れ渡っても、それだけでは城を追い出される理由にならないだろう。
けれども所詮、鬼と人間は別種族。人間同士ですら、領地や権力を求めて血みどろの戦いに明け暮れているのだ。たとえば半妖の次兄
あやかしの中でも特に、鬼は人間に恐れられている。あやかし三箇条により、生きた人間を食うことが禁じられているとはいえ、死肉を食らうならば悍ましい存在であることに変わりないなのだ。
剛厚が生まれ育った狭瀬の城には、人間の家臣が多くいた。領地に住まう人間らの中には、当主の三男坊である剛厚に敬意を払いながらも、気さくに接してくれる者もいた。剛厚は、人間のことが好きだ。あやかしに対するのと同じように、親愛の情を抱いている。
何よりも、常に怒りと嫉妬の中に生きていた母の姿を見て育った身としては、争いごとはもううんざりだ。
それゆえ剛厚は、自身の鬼としての本能を、長兄のように割り切ることができていない。とはいえ、次兄幸厚のように、鬼を嫌悪し人間の側に立とうと思うわけでもない。立場を明確にできない己が情けなく苛立たしい。
図体の大きさには定評がある。けれども肝はたいそう小さい。それが剛厚という男であった。
はああああ、と大きく息を吐く。
気づけば妖山城の門へとたどり着いていた。剛厚は手綱を近習に託し、浮かない気分でのそのそと、平時の住まいとしている御殿の方へと足を進めた。このような日は、
まさか鬼としての葛藤を吐露することはできないが、彼女と会話をするといつも、冷え切った心に温かな灯火が生まれるような心地がするのだ。
雪音は時折、鬼の本性を持て余し、人との関係に悩む剛厚の心を見透かしたかのような言動をとる。無論、完璧に人間に化けた剛厚だ。先日の妖狸のように、化けることに精通したあやかしならばともかく、人の娘である雪音が剛厚の正体に気づくはずもない。つまり雪音は、何も知らずとも夫が求める言葉を導き出せる、聡くてよくできた女人なのだろう。
「雪音はいるか?」
帰城早々、憔悴した様子で妻を呼ぶ城主の姿に、侍女たちが含みありげな視線を交わし合う。情けないと思われたかと、もう一つ溜め息が零れかけるが、どうやらそういうことではないらしい。侍女の一人がおずおずと口を開いた。
「奥方様はご来客の対応を」
「来客? どこの誰だ」
「それが」
「案ずるな、何でも言ってくれ」
鷹揚に促せば、口ごもっていた侍女が、城の
「妖山にお住まいのご友人だとか。今は奥の菜園できゅうりを収穫しています」
邪魔をしては悪いかと思ったが、客人の予定など聞いていない。雪音の旧友ならば悪意はないのだろうが、こそこそと隠れるような来城だ。警戒しておくに越したことはないだろう。
そう考えて険しい顔を作り大股で菜園に向かったのだが、どうやら杞憂であった。眉間の皺も、何かあれば締め上げる準備万端の力こぶも、彼女らの呑気な様子を前に、無駄になる。
「まあ、殿。お戻りは明日かと」
色合い鮮やかな小袖の上に、土がまだらに付着した前掛けという、ちぐはぐな姿をした雪音が、きゅうりの盛られたざるを抱いて駆け寄って来た。剛厚の浮かない表情に気づいたのか、雪音は眉尻を下げる。
「観山城で何かございましたの? 顔色がよろしくないようですわ」
「あ、いいや。大事ない。それよりも」
剛厚は、黄色い花をつけたきゅうりの側に立つあやかしへ目を向けた。
「天狗と……河童?」
「ええ、私のお友達ですの。天狗の彼は
長い鼻の先が赤らんだ山伏姿の男と、頭部に扁平な皿を持ち手足の先が緑がかった長身の娘。それぞれ、天狗と河童だ。……いいや、天狗はともかく、彼女は河童、なのだろうか。
「そなた、その皿は」
自称河童のなつめは、剛厚の視線を受けるや否や、天狗戸喜左衛門の背後に隠れた。
「ひゃっ!」
「これはこれは、妖山殿。お初にお目にかかる」
基本お人好しの剛厚であるが、努めて目を鋭くし、二人の本性を見極めようと凝視する。が、少し気弱そうな河童娘とほろ酔い天狗男というだけで、腹に何か抱えている様子はない。多分。
「それで」
剛厚は咳払いをしてから分厚い胸を張り、威厳のある声音を作り上げた。
「なぜ我が城においでなすった。いいや、無論、雪音の友というならば歓迎するが」
答えたのは雪音だ。
「先ほど戸喜左衛門に、山の頂上まで連れて行ってもらったので、お礼にきゅうりを差し上げようと思い城に招いたのですわ。あの、勝手にごめんなさい。事前にお伺いを立てるべきでした?」
少し潤んだ瞳で見上げられ、剛厚は束の間言葉に詰まる。やがて溜め息と共に吐き出されたのは、何とも煮え切らない声であった。
「いいや、別にその限りではないのだぞ。しかしな、近頃は乱世。いくら故郷とはいえ、むやみに城を出て山登りなど、いや、もちろんそなたにも息抜きは必要だろうが、しかし」
「して、妖山殿」
しどろもどろになりかけた剛厚を見かねたのか、戸喜左衛門が上機嫌に口を挟む。
「ご不在の折に奥方様をお借りしご無礼いたした。よろしければ次回は妖山殿もご一緒に山頂を案内いたしましょう。高所からはご領地が一望できますゆえ、何かとお役に立てるのではないかと」
「うむ、確かに」
「では、わしとなつめはそろそろ失礼つかまつる。此度はお会いできて光栄でござった。以降、どうかよろしくお頼み申す。では」
言うなり
黒い翼がばさりと広がり風を切り、娘を抱えて軽々と飛翔する。目を丸くしているうちに、戸喜左衛門は松の枝にいったん降り立ち弾みをつけて、そのまま更に高く舞い上がり
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