第二話 龍の住まう川

1 狭瀬の三異母兄弟

 妖山あやかしやま城から山河を隔てた南西部、海を臨む高台に、奥野国おくののくにを治める狭瀬はざせ源太郎げんたろう厚隆あつたかの居城、観山みやま城がある。その御殿の中、個人的な面会に利用する小さな座敷で、狭瀬三兄弟は酒を飲み交わしていた。


「して、剛厚つよあつ。あやかし三箇条は守っているようだな」


 長兄厚隆が愉快そうに言い、小型の提子ひさげを傾け手ずから末弟に酌をする。剛厚はありがたく杯で受け取って、何とも煮え切らない答えを返す。


「はあ、今のところは」

「何だ下女でも食ったか」

「なっ、人聞きの悪い!」

「冗談だ」


 ははは、と豪快な声を立て酒を嚥下した後、厚隆は赤ら顔を剛厚に寄せ、少し声を潜めた。


「で、白澤の姫との仲はどうなのだ。姫からの文を読む限り、上手くやっているようだが」

「へえ、文、ですか」


 そういえば厚隆は、以前から雪音ゆきねと文を交わしていると言っていた。


 はあ、とか、へえ、とか、図体に似合わぬ声を漏らす異母弟に何を思ったのか、厚隆は剛厚の肩を抱いて、にかり、と笑う。


「別にやましいことはないぞ。剛厚からの文は淡白過ぎるのだ。白澤領の細々としたことを知るには、女子おなご目線の情報も重宝する」

「いや、大兄者おおあにじゃに対してそのような懸念など」

「ならばいいが。それで、姫はどうなのだ」

「はあ、それがしにはもったいない良妻で」

「そうか、ならばひとまず安心だ。しかし剛厚。昔からおまえは自制心が強い男だと思っていたが、ここまでとはな。やはりわしの目に狂いはなかった。どうやって空腹に耐えている」

「それはもう、他の食べ物で胃を満たしてですね」

「ほう、わしには無理だ。三日で姫を食う」


 あっけらかんとのたまう厚隆を、呆然と見る。そのような困難な役目を異母弟に押しつけるとは何たることか。


 厚隆の正室は鬼の血を引く半妖であり、めかけは河童や妖狐ようこ、冬は雪山で雪女も囲っていたような記憶がある。つまり厚隆の女は皆、あやかしなのだ。四六時中人間の娘の血肉に惑わされた経験などないだろう。


 それよりもむしろ、妖狐や雪女を側において厚隆の身は問題ないのだろうか。


 男の身体に流れる生命力の源、陽の気。妖狐や雪女はそれを吸う存在だ。頻繁に情に交わせば、こちらが生気を吸い尽くされてしまいかねない。まあ、長兄はいつもすこぶる元気なので杞憂なのだろうが。


「正直、某もいつ妻を食ってしまうかと危惧しましたが、何というか、雪音の香りは普通の娘のそれとは少し違うのです。もちろん美味そうではあるのですが、こう、もっといい匂いがするような」

「血肉の匂いではなくてか?」


 剛厚は斜め上方に視線を彷徨わせる。記憶を揺り起こし、寄り添う度に嗅覚を満たす雪音の香りを反芻した。


「甘いような酸っぱいような、胸の奥をぎゅっと締めつけるような」

「それはおまえ」


 厚隆がにやりと笑う。


「色香にやられたか」

「え、違いますよ、断じて!」

「夫婦なのだから遠慮することはないだろう。いやしかし、用心は怠るな。理性を失った鬼が、睦言の最中さなかに人間を食い殺した話は多いぞ」

「はあ、実はそれが恐ろしく雪音とはまだ」


 不意に、ごん、と酒器を板床に打きつける音がした。口を閉ざして目を向ければ、次兄幸厚ゆきあつが細面に冷淡な表情を張りつかせて己の手元を睨んでいた。


 酒精のせいですっかり頭から抜け落ちていたが、実は次兄に人食いの話は禁句である。何せ彼の生母は。


「幸厚。おまえの母上は人間だったが、父上に食われて消えたわけではないぞ」

「どうしてそう言い切れましょうか」


 顔を上げた幸厚は、意図して煽るような言葉を吐き出した長兄に、氷のような眼差しを向けた。


「母上は、父上と領地の視察に行ったまま姿を消したのです。大名の側室がなぜ、理由もなく失踪するでしょうか。そして父上はなぜ、捜索も復讐も試みず、そのまま逃げるように隠居してしまったのでしょう。全ては、父上が母上を食ってしまったからだとすれば、説明がつく」


 二人の異母兄の視線が重なる空中に、火花が散った。争いごとを好まぬ剛厚は何度か瞬きをして、ちかちかと点滅する幻覚を振り切り、上体を乗り出した。


「ち、小兄者ちいあにじゃ、すまぬ。人食い鬼の話など」


 ぎろり、と鋭い眼光がこちらを射抜く。次兄の視線にたじろいで、動転した口から余計な声が飛び出した。


「しかし、いかに鬼とて己の息子を産んだ女をそう簡単に食おうなどとは」

「その理性を失わせるのが鬼の本能だろう」

「うっ、それは」


 心当たりがありすぎる。妻を前にして何度腹が鳴ったことか。剛厚は言葉に詰まり、情けなくも長兄に視線で助力を請うた。けれども厚隆は口元に薄らと笑みを浮かべたまま、肩をすくめるだけである。


「私は帰ります」


 兄と弟から視線を外し、幸厚は立ち上がり憤然として部屋を出た。


「あ、小兄者」

「呼び止めんでいい」


 幸厚の背中に向けられた剛厚の言葉を遮り、長兄厚隆は億劫そうに手をひらひらと振る。


「放っておけ。どうせ幸厚の館は、この観山城下にある。用があればいつでも呼び出せるのだ。それよりもわしは、遠く妖山で暮らすおまえと久方ぶりにじっくり話したいぞ」

「はあ」

「しかし幸厚にも困ったものよ。あいつの身体に流れる血の半分は鬼だ。にもかかわらず軟弱なことに、心はほとんど人間に近いらしい。聞けば、これまで一度も人間に食欲を感じたことがないとか」

「それはうらやましい」

「しかし、せっかく鬼に生まれたというのに人の血肉の美味さを知らぬとは、哀れだな。わしはあやつのことが理解できん。剛厚、おまえだけがわしの真の弟だ」


 ――あんな女の産んだ息子を、長兄と慕ってはなりませぬ。


 不意に、幼少期の記憶の糸に絡みついた甲高い声が脳内をこだました。


 ――狭瀬はざせのお家を継ぐのは、あなたです、源三郎。


 剛厚の母の声だ。


 十年ほど前、父の隠居と同時に、観山城を出てどこかへ旅立った、あやかしらしく自由奔放な母。父が現役の頃には、厚隆の生母かつ正室であった女人といがみ合い、いつも苛立っていた。そればかりか、寵愛争いに己の息子を巻き込み、剛厚の野心を煽ったものだ。


 ――でも母上、争いごとはよくありません。大兄者は嫡男です。それにお母君もやんごとなきご身分で……。


 紅を引いた母の口元が、嘲りと失望できつく歪む。


 ――大きな身体をして、何て情けない子なの。家督争いは世の常だというのに。よくお聞きなさい。あの女の息子、源太郎様は心根の歪んだお方です。あのような者に一国を治めさせてはなりませぬ。ええ、断じてなりませぬ。


「……まあ、とにかく」


 異母兄の声で現実に引き戻される。顔を上げれば、記憶の中の母と同じ形に口を歪めた厚隆がいた。


「幸厚の行動には注意せねば。謀反を起こされては困る」


 厚隆の顔に浮かんだ物騒な表情は瞬きする間に消え去ったものの、「謀反」の言葉に剛厚の胃は軽く痛んだ。


(だから小兄者をお側に置いているのですか? 見張るために)


 口を衝いて出かけた疑問を辛うじて吞み込む。


 厚隆は剛厚の様子には気づかないらしい。大袈裟に溜め息をついて、座敷の飾り棚に視線を向ける。違い棚の下層部に、豪奢な装飾の古風なえびらがあり、そこに三本の矢が入っている。


 矢というものは、いわずもがな細い。両手で力いっぱいたわませれば、いとも簡単に折れてしまう。けれども三本まとめれば、そうそう容易たやすくは折られまい。だから三人の兄弟が心を一つにし、家を、領地を守るのだ。遥か南方の武将が息子らに語ったという教訓である。


 これを剛厚らの父が聞き及び、ぜひとも息子らの心構えにせんとした。そうして、いつからか飾られ始めたのが眼前の箙と矢であった。


 剛健だった父も、内心では妻たちの争いに辟易し、息子らの和合を望んでいたのだろう。


「矢は一本では容易く折れる」


 思わず零れ落ちた剛厚の声に、厚隆はつまらなそうに鼻を鳴らした。


「ああ。しかしこの観山地域固有の矢竹は節が狭く強靭だ。他の国で生産される矢はすぐに折れるだろうが、わしらの矢は人間ごときには破壊できまいよ。まあもっとも、鬼の膂力にかかれば三本でも四本でも真っ二つだがな」


 剛厚の胸の内など知らず、まあ飲め、と酒が注がれた。波紋を描く水面を眺め、ぼんやりとしながら杯を傾ける。


 夏の盛りが目前に迫る夕べ、西の空を染める落陽が板張りの床を赤く照らし出していた。

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