第二話 龍の住まう川
1 狭瀬の三異母兄弟
「して、
長兄厚隆が愉快そうに言い、小型の
「はあ、今のところは」
「何だ下女でも食ったか」
「なっ、人聞きの悪い!」
「冗談だ」
ははは、と豪快な声を立て酒を嚥下した後、厚隆は赤ら顔を剛厚に寄せ、少し声を潜めた。
「で、白澤の姫との仲はどうなのだ。姫からの文を読む限り、上手くやっているようだが」
「へえ、文、ですか」
そういえば厚隆は、以前から
はあ、とか、へえ、とか、図体に似合わぬ声を漏らす異母弟に何を思ったのか、厚隆は剛厚の肩を抱いて、にかり、と笑う。
「別にやましいことはないぞ。剛厚からの文は淡白過ぎるのだ。白澤領の細々としたことを知るには、
「いや、
「ならばいいが。それで、姫はどうなのだ」
「はあ、
「そうか、ならばひとまず安心だ。しかし剛厚。昔からおまえは自制心が強い男だと思っていたが、ここまでとはな。やはりわしの目に狂いはなかった。どうやって空腹に耐えている」
「それはもう、他の食べ物で胃を満たしてですね」
「ほう、わしには無理だ。三日で姫を食う」
あっけらかんと
厚隆の正室は鬼の血を引く半妖であり、
それよりもむしろ、妖狐や雪女を側において厚隆の身は問題ないのだろうか。
男の身体に流れる生命力の源、陽の気。妖狐や雪女はそれを吸う存在だ。頻繁に情に交わせば、こちらが生気を吸い尽くされてしまいかねない。まあ、長兄はいつもすこぶる元気なので杞憂なのだろうが。
「正直、某もいつ妻を食ってしまうかと危惧しましたが、何というか、雪音の香りは普通の娘のそれとは少し違うのです。もちろん美味そうではあるのですが、こう、もっといい匂いがするような」
「血肉の匂いではなくてか?」
剛厚は斜め上方に視線を彷徨わせる。記憶を揺り起こし、寄り添う度に嗅覚を満たす雪音の香りを反芻した。
「甘いような酸っぱいような、胸の奥をぎゅっと締めつけるような」
「それはおまえ」
厚隆がにやりと笑う。
「色香にやられたか」
「え、違いますよ、断じて!」
「夫婦なのだから遠慮することはないだろう。いやしかし、用心は怠るな。理性を失った鬼が、睦言の
「はあ、実はそれが恐ろしく雪音とはまだ」
不意に、ごん、と酒器を板床に打きつける音がした。口を閉ざして目を向ければ、次兄
酒精のせいですっかり頭から抜け落ちていたが、実は次兄に人食いの話は禁句である。何せ彼の生母は。
「幸厚。おまえの母上は人間だったが、父上に食われて消えたわけではないぞ」
「どうしてそう言い切れましょうか」
顔を上げた幸厚は、意図して煽るような言葉を吐き出した長兄に、氷のような眼差しを向けた。
「母上は、父上と領地の視察に行ったまま姿を消したのです。大名の側室がなぜ、理由もなく失踪するでしょうか。そして父上はなぜ、捜索も復讐も試みず、そのまま逃げるように隠居してしまったのでしょう。全ては、父上が母上を食ってしまったからだとすれば、説明がつく」
二人の異母兄の視線が重なる空中に、火花が散った。争いごとを好まぬ剛厚は何度か瞬きをして、ちかちかと点滅する幻覚を振り切り、上体を乗り出した。
「ち、
ぎろり、と鋭い眼光がこちらを射抜く。次兄の視線にたじろいで、動転した口から余計な声が飛び出した。
「しかし、いかに鬼とて己の息子を産んだ女をそう簡単に食おうなどとは」
「その理性を失わせるのが鬼の本能だろう」
「うっ、それは」
心当たりがありすぎる。妻を前にして何度腹が鳴ったことか。剛厚は言葉に詰まり、情けなくも長兄に視線で助力を請うた。けれども厚隆は口元に薄らと笑みを浮かべたまま、肩をすくめるだけである。
「私は帰ります」
兄と弟から視線を外し、幸厚は立ち上がり憤然として部屋を出た。
「あ、小兄者」
「呼び止めんでいい」
幸厚の背中に向けられた剛厚の言葉を遮り、長兄厚隆は億劫そうに手をひらひらと振る。
「放っておけ。どうせ幸厚の館は、この観山城下にある。用があればいつでも呼び出せるのだ。それよりもわしは、遠く妖山で暮らすおまえと久方ぶりにじっくり話したいぞ」
「はあ」
「しかし幸厚にも困ったものよ。あいつの身体に流れる血の半分は鬼だ。にもかかわらず軟弱なことに、心はほとんど人間に近いらしい。聞けば、これまで一度も人間に食欲を感じたことがないとか」
「それはうらやましい」
「しかし、せっかく鬼に生まれたというのに人の血肉の美味さを知らぬとは、哀れだな。わしはあやつのことが理解できん。剛厚、おまえだけがわしの真の弟だ」
――あんな女の産んだ息子を、長兄と慕ってはなりませぬ。
不意に、幼少期の記憶の糸に絡みついた甲高い声が脳内をこだました。
――
剛厚の母の声だ。
十年ほど前、父の隠居と同時に、観山城を出てどこかへ旅立った、あやかしらしく自由奔放な母。父が現役の頃には、厚隆の生母かつ正室であった女人といがみ合い、いつも苛立っていた。そればかりか、寵愛争いに己の息子を巻き込み、剛厚の野心を煽ったものだ。
――でも母上、争いごとはよくありません。大兄者は嫡男です。それにお母君もやんごとなきご身分で……。
紅を引いた母の口元が、嘲りと失望できつく歪む。
――大きな身体をして、何て情けない子なの。家督争いは世の常だというのに。よくお聞きなさい。あの女の息子、源太郎様は心根の歪んだお方です。あのような者に一国を治めさせてはなりませぬ。ええ、断じてなりませぬ。
「……まあ、とにかく」
異母兄の声で現実に引き戻される。顔を上げれば、記憶の中の母と同じ形に口を歪めた厚隆がいた。
「幸厚の行動には注意せねば。謀反を起こされては困る」
厚隆の顔に浮かんだ物騒な表情は瞬きする間に消え去ったものの、「謀反」の言葉に剛厚の胃は軽く痛んだ。
(だから小兄者をお側に置いているのですか? 見張るために)
口を衝いて出かけた疑問を辛うじて吞み込む。
厚隆は剛厚の様子には気づかないらしい。大袈裟に溜め息をついて、座敷の飾り棚に視線を向ける。違い棚の下層部に、豪奢な装飾の古風な
矢というものは、いわずもがな細い。両手で力いっぱいたわませれば、いとも簡単に折れてしまう。けれども三本まとめれば、そうそう
これを剛厚らの父が聞き及び、ぜひとも息子らの心構えにせんとした。そうして、いつからか飾られ始めたのが眼前の箙と矢であった。
剛健だった父も、内心では妻たちの争いに辟易し、息子らの和合を望んでいたのだろう。
「矢は一本では容易く折れる」
思わず零れ落ちた剛厚の声に、厚隆はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「ああ。しかしこの観山地域固有の矢竹は節が狭く強靭だ。他の国で生産される矢はすぐに折れるだろうが、わしらの矢は人間ごときには破壊できまいよ。まあもっとも、鬼の膂力にかかれば三本でも四本でも真っ二つだがな」
剛厚の胸の内など知らず、まあ飲め、と酒が注がれた。波紋を描く水面を眺め、ぼんやりとしながら杯を傾ける。
夏の盛りが目前に迫る夕べ、西の空を染める落陽が板張りの床を赤く照らし出していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます