3 種族は違えども

 剛厚つよあつは天狗が巻き起こした旋風を顔に浴び、唖然と呟いた。


「堀も塀も全くもって意味がないではないか」

「だからこそ、人間とあやかしは共存しているのですわ」


 多くの場合、人間にとってあやかしは厄介な存在である。人の血肉や生気を食うし、時には化かして私財を掠め取ることもある。


 同族同士ですら殺め合う人間のこと。これまで幾度も、あやかしを排斥しようと策が巡らされた。けれども、いずれも失敗に終わった過去がある。なぜなら、戸喜左衛門がいとも簡単に築地ついじ塀を飛び越えたように、あやかしらは人間とは比にならないほどの身体能力や超常能力を持っているからだ。


 その結果、人間とあやかしの間には三箇条が合意され、共存に至ったという経緯がある。とはいえやはり、人間の中にはあやかしを憎み嫌う者も少なくない。


雪音ゆきねはあやかしが恐ろしくないのだな」


 思わず呟くと、雪音は首を傾ける。


「まあ、恐ろしくなどありません。もちろん気が合う者も合わない者もいますけれど、それは人間だって同じことですわ」

「そうではなく、たとえばそなた、あやかしに食われかけたことは」


 墓穴を掘った。ふわりと鼻をくすぐる甘い血肉の香りが、剛厚の胃を熱くする。


 急に口を閉ざして腹部をさすり始めた剛厚に不思議そうな目を向けてから、雪音はざるを抱え直してきゅうりの方へとのんびりと足を進めた。


「もちろん、ありませんわ。人食いといえば鬼ですが、彼らも人間と同じように野菜でお腹を満たすこともできますもの」


 雪音はぶら下がったままのきゅうりを物色し、これはというものを選別すると手際よくもいだ。


「うふふ、惚れ惚れするほど艶やかな緑ですこと。ちくちくして新鮮で、太くて強そうな」


 雪音はたおやかな手できゅうりを撫でてうっとりしている。


 残念ながら剛厚には、野菜を愛でる感性は宿っていない。回答に困り、はあ、と気のない相槌を打つ。


 夫の無骨な手に、採ったばかりの極太きゅうりを押しつけて、雪音は再び葉と葉の間に入り込んだ。


「どうぞ召し上がれ。採れたては格別の美味しさですわ」


 促され、軽く砂を払ってきゅうりに歯を突き立てる。ぱりっとした歯ごたえの後、じわりとみずみずしい汁が口内を潤す。嚥下すれば、胃の中で滾り暴れていた食欲の獣が、少し落ち着きを取り戻したようだった。


「そうそう、妖山あやかしやまの頂上から見た景色は壮大でしたわ」


 ゆったりとした口調で、雪音は言う。


「殿はご存じのことでしょうけれど、山の向こう側に海があるのですね。海の幸がたくさん獲れて、海峡を隔てた対岸には、異民族の住む土地があるのだとか」


 剛厚は頷いた。奥野国おくののくに北部の辺境にある妖山。これほど辺鄙な場所に城を構える理由はまさに、北方の港である。


 海峡の向こうから、いつ敵が攻め入るかわからない。有事への備えのために、この出城があるのであった。


 また、妖山が聳え立つため、交通の便がよくないが、今後、山を貫く街道を通すことができれば、交易や漁業により莫大な利益が得られるだろう。経済的な意味合いでも、妖山近辺は重要な拠点になり得るのだ。


 現に、宿場や街道を造るという話は定期的に上がるのだが、あやかしらとの合議が進んでいないため実現には至っていない。妖山城主としては、北の港は頭痛の種でもある。


「今までは何も気にせず呑気に山暮らしをしていましたが、妖山城主の妻として、色々と学ばなくてはなりませんね」

「頼り甲斐のあることだが、危険なことはせぬようにな。……しかしなつめといったか、あの娘は河童ではないだろう。ほら、頭の皿は生身のものではなく陶器のようだった。それで、烏帽子えぼしのように紐で顎に固定されていて」

「なつめは、赤子の頃に川に捨てられていた人間なのです」


 剛厚の疑問を汲み取って、雪音が説明する。


「幼少期から河童の両親に育てられ、河童と同じように暮らしているのですわ。だから頭に皿を乗せ、手足の先に緑色の入れ墨を彫って、容貌も仲間と同じであろうとしておりますの。彼女の身体は人間でも、心は紛れもなく河童です」


 雪音がいつになく強く断言するのを聞いて、剛厚は己の視野の狭さを恥じた。大切なのは、種族ではない。心なのだ。鬼でありながら人間に化けて暮らす剛厚は、あいにく鬼にも人間にもなり切れていない。それゆえ、自らの外見まで変えて河童になった娘なつめの信念が、どこか眩しく思えた。


 剛厚は素直に詫びる。


「それは不躾なことを言ってしまった。なつめにも、その友人の雪音にも、申し訳ない」

「いいえ。私こそ、出過ぎたことを申し上げました」


 雪音は目元を緩め、きゅうりの物色を再開した。


「ともあれ、河童と天狗とは、妙な組み合わせであったな。妖山のあやかしは、種が異なれどああして友誼を交わすものなのか」

「実はあの二人、許婚なのですわ」

「河童と天狗が?」

「まあ。愛に種族は関係ありません」

「あ、いいや、別に茶化すつもりはないのだが、その、珍しいなと」

「確かに、空を飛ぶ天狗と水に暮らす河童の組み合わせはあまり聞きませんわね。とはいえ、あやかしが人間と添うことすらあるのですから、あやかし同士なら特別驚くことでもありませんわ」

「うむ、まあ確かに」


 実のところ、異種の夫婦というならば剛厚と雪音も同じなのだから、頷くより他にない。


(雪音はそれがしの正体を知っても、河童と天狗が連れ合うのと同じように生涯を共に過ごしてくれるだろうか)


 心の奥に、ぽつりと切ない火が灯る。それはやがて火花となり、ぽつぽつと音を立てて剛厚の全身を打ち、疼くような痛みを……。


「あら、雨」


 雪音が空を見上げて呟いた。


 その視線を追い、剛厚も天を仰ぐ。いつしか妖山の稜線から灰色の薄雲が迫り、雫を落とし始めている。分厚い筋肉を打っていたのは、淡い思慕から生まれた熱ではなく、普通の雨だった。


 強面巨体に似合わず詩的な妄想を抱いてしまったことに気づき、全身が熱くなる。剛厚は呻いた。女々しい心中の片鱗もない、獣のような唸り声だった。


「まあ、殿。お腹が痛いのですか? きゅうりが悪かったのかしら」

「う、い、いいや違うぞ」


 雪音の前で頻繁に腹を鳴らした結果、彼女の中で剛厚は、腹の弱い男だと認識されているらしい。鳴っているのは腸ではなく胃だ。さすがに馬鹿正直には言えないが。


「とにかく」


 剛厚は袖の端を掴んで傘の代わりにし、雪音の上にかざして促した。


「急に冷えると身体に障る。室内に戻ろう」


 突然翳った視界に驚いたのか、雪音は目を丸くした。いらぬことをしてしまったかと心配した剛厚だが、雪音はしばらく瞬きを繰り返した後、ゆっくりと花が綻ぶような笑みを見せた。無論、きゅうりの花ではない。菫か桜のような、小さくて愛らしい花弁だ。


「はい、戻りましょう」


 ざるを抱えた雪音が、剛厚の袖の下、脇腹辺りに寄り添った。途端に濃密になった甘い香りに胸が苦しくなる。けれどもそれは不思議なことに、どこか幸福を覚える疼きでもあった。

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