第7話
新年が明け、あっという間に一年で一番酪農家にとって厳しい季節がやって来た。手が悴んでゆうことをきかない。何をするにも、ハーっと息を掌に吹きかけてからになる。富士の麓は年間を通して比較的温暖な気候だが、雪が積もる日もある。毎朝の仕事は特に辛かった。
敬が若菜に言った。
「冬は辛いんだ。おじさんも酪農始めた頃は大変だった。若菜ちゃんは初めてだから堪えるよな。頑張れ。」
朝、四時に起きるのは、ますます厳しいことだった。比奈子は寝る前に湯たんぽをくれる。じんわりと暖かくて、気持ちよく寝入ることができる。しかし、一晩寝ているうちに湯たんぽの中の湯は冷め、起きる頃には冷たくなっていた。それがかえって早起きするためには、ベッドに未練を残さなくて良いのだ、と比奈子は笑った。確かに比奈子の言うとおりだ。目覚まし時計が四時に鳴り出すと、思わず止めて、あと五分、あと一分という誘惑の気持ちが起こる。その時、冷たい湯たんぽを触ると、いっぺんに目が覚めるのだった。
冬場は乳量は増える。脂肪分も多いし、乳質も良い。若菜が来てから、牛のお産が一度あった。雌牛が真夜中に産気づくと、若菜は眠さも忘れて、お産を見つめた。今度も比奈子が牛用の味噌汁を作り、敬が仔牛の蹄が見えると、滑りを拭き取って、ガッチリと掴み、引っ張り出した。仔牛の腿が現れると、敬が残念そうに言った。
「オスだ。オスだ。」
今度はオスだった。比奈子は名前をつけず、六ヶ月間だけ育てるんだと若菜に説明した。若菜は涙を見せたが、すぐに拭って、
「じゃ、私、この子にもミルクやります。名前つけたらダメですか?」
比奈子は、
「若菜ちゃんが名前つけて。でも、名前があると、お別れの時、辛いんだ。」
若菜は黙って仔牛を見つめていた。仔牛は産まれてすぐに元気に立ち上がって母牛の初乳を飲み始めた。
「私、お肉食べる時、今までよりもっと感謝しよう。」
若菜は比奈子に抱きついて泣いた。比奈子は黙ってうなずいた。
若菜はその夜、眠れなかった。眠れない夜は、富士見牧場へ来てから初めてだった。その夜産まれた仔牛の運命。生きたくとも生きられない、健康なのに、人間の勝手で命を奪われる幼気な生き物。 ホームで電車に飛び込んでしまおうか、と思った時、生まれて初めて、死にたいと思った。リストカットした時も、死にたいと思った。死ななかった。人間って、死んだらどこへ行くんだろう。牛は殺されたら、どこへ行くんだろう。あの仔牛を食べる人は誰だろう。
そんな事を疲れた頭で取り止めもなく考えていたら、夜が明けた。若菜はオスの仔牛の名前をムサシとつけることにした。ムサシの短い命を精一杯支えようと思った。
ムサシもタンポポも健康そのものだった。タンポポは生後五ヶ月になり、随分と大きくなったし、若菜にすっかり懐いている。若菜がよく毛繕いをしてやるので、毛並みもよく、佐藤先生も時々来ては、若菜を褒めていた。
佐藤先生は、ムサシが産まれて、一度、健康チェックに来てくれた。母牛の健康状態も診てくれた。先生は、この母牛は、もう、子供は産まない方がいいだろうと言っていた。そろそろ、母牛は、乳の出も悪くなって来ていて、屠殺される運命なのだった。若菜もこの話を聞いていた。敬が、
「若菜ちゃんのいる間は、この牛は屠さない。先生、私はこの子にあの思いはさせたくないんです。」
佐藤先生は、黙ってうなずいていた。
若菜は初めて、その夜夕飯のビーフステーキを残した。一口も食べられなかった。比奈子は、
「今夜はご馳走なのに、どうしたの?」
と、不思議そうに若菜を見た。敬は、
「牛は食べられてナンボって言う人もいる。でもな、こういう仕事してると、複雑だよな。比奈子、卵でも焼いてやれ。」
と言った。若菜は、
「大丈夫。頑張って食べる。牛の命、いただいて、大きくなる。」
若菜は、ステーキを小さく切って、味わって食べた。目に涙が浮かんで来た。比奈子も、
「大事な命だから、味わって美味しく食べましょう。うちのステーキは、プロに習った焼き方で、美味しく焼いてるんだ。そこは私もこだわってるのよ。」
敬は、
「若菜は、本当に大きくなった。立派なもんだ。見直したよ。」
と、頼しそうに若菜を見て言った。
搾乳も楽しいし、ホースで水を撒いて床を擦る掃除も楽しい。若菜は富士山をバックに牛たちが草を喰む姿や、搾乳機などの珍しいもの、もちろん、可愛いタンポポやムサシも自由時間にスマホで写真を撮ってSNSに投稿していた。学校の友達とは一切連絡を絶っていたが、インターネット上では友達はいっぱいいた。仲の良かった四人組の三人がラインで連絡して来たことがあったが、あえて無視した。噂を流された事を恨んではいない。でも、六ヶ月の言うなれば富士見牧場でのミッションを終えるまでは、連絡をしないでおこうと、決めた。ソーシャルメディアでの友達は、本当に会ったこともない人たちだったが、その人達の存在が大いに心の支えになっていた。
比奈子もFacebookをしていた。若菜と繋がっているので、若菜の友達関係もだいたい分かっている。怪しい人が寄って来たりしたらと、気をつけてくれていた。
比奈子と敬にとって、若菜はもはや自分の子供以上だった。自分が産んだわけでもない、育てたわけでもない。しかし、毎日、寝食を共にし、牛舎や牧草地で体を動かして一日一日を過ごして来た。若菜がいなくなったら寂しくなるだろうな、と、二人とも思っていた。
そして、厳寒期を乗り越え、三月になり、少し暖かくなったある日、敬と比奈子は話し合った。
「若菜ちゃんを今月の半ばに東京に返そう。」
敬が言うと、比奈子も、
「そうね。高校に戻ることを考えてるって本人が言ってたから、それが良いわ。」
「一度、俺がお父さんに電話しておく。迎えに来てもらわないといけないしな。」
「お母さんから聞いたけど、来学期から元いた高校に戻る手続きはしてあるらしいわ。」
「そうか。もういじめなんかで挫けないさ。ここで真冬を立派に経験したんだから。大抵のことには挫けない強さを身に付けたと思う。」
「そうね。四時起き、見事に半年、頑張ったね。褒めてやろう。」
比奈子はその日の夕飯を食べながら、若菜に三月十日をもって、見習い卒業だと言った。若菜は、少し驚いていた。
「別れは辛いけどね、若菜ちゃん、高校に戻りなさい。ちゃんと卒業するのよ。学生はちゃんと勉強するのが特権なのよ。」
若菜は、
「教科書は一応持って来ていて、自由時間に読んでたんです。私も、高校にそろそろ戻りたいと思ってたの。戻れるの?私。」
比奈子は、
「お母さんに電話しなさい。ちゃんとお父さんとお母さんが手続きしてくれてるから、大丈夫よ。」
若菜の顔が輝いた。
「私、いじめなんか全然怖くないです。今日、喧嘩別れした友達に久しぶりにラインしてみます。ちょっと嫌味言いたいくらいだけど、そこはスマートに、元気だよって。」
「そう、偉いわ。若菜ちゃん、大人になったね。」
比奈子は言った。敬も、
「若菜ちゃん、ここで冬を乗り越えたのはすごいことなんだよ。ちゃんと四時起きを半年の間、毎日毎日休日もなく続けたんだから。これは自慢しても良いよ。」
若菜はうなずいた。
若菜のお別れ会をすることにした。土曜日のランチに獣医の佐藤先生と、工場長に来てもらった。若菜も料理を作って振る舞った。
「若菜ちゃん、よく頑張ったな。高校へ戻るんだって?」
「はい。学年は一年遅れるんです。もう一回二年生をやります。でも、かえってクラスメイトも新しくなるから、やりやすいんじゃないかと思ってるんです。嫌なこと言う子がいても、無視します。」
「いないさー、若菜ちゃんに嫌なこと言う子なんて。君は本当に素直で素晴らしい女性だよ。」
佐藤先生は言った。敬とはよく若菜について話していたのだ。敬も、
「この子は大丈夫。うちの牛たちが全員認めたんだ。牛に認められたら一人前です。」
若菜は、嬉しそうに笑って、
「タンポポが大きくなったら、会いに来て良いですか?」
比奈子は、
「もちろんよ。来て来て。」
「はい。」
そして、残りの数日を大切に過ごした。仕事は一切手を抜かなかった。これは、この六ヶ月間についても言えることだ。敬も比奈子も感心していた。若菜は最後の日に、タンポポとムサシの写真をたくさん撮り、そして富士山を見上げて、拝んだ。
「富士山、私を見ていてくれた?きっと見ていてくれたんだ。富士山に恥ずかしくないくらい、私頑張った。今まで生きたきた中で、一番充実した六ヶ月だった。」
夕方の富士山は向かって右側から夕陽を浴び、暗くなった空に、その美しいシルエットを映し出していた。それは、まるで観音様のようだ、と若菜は思った。母なる大地にすっくと立ったその姿を、ずっと六ヶ月の間、毎日二十四時間、近くに感じることができて幸せだった。
「敬おじさん、比奈子さん、ありがとうございました。」
若菜は手紙を渡した。
「私、元気で頑張ります。自分のルーツに誇りを持ち、どんなことも乗り越えていきます。まず、高校を卒業するのが目標です。………………。」
父と母が迎えに来た。車に荷物を積み込んで、若菜は東京へ向かった。若菜は窓の外に見える富士山をいつまでも見つめていた。
「ハルモニに、電話してサランヘヨって言ったんだ、ここに来た次の日の夜に。」
若菜は後部座席でトイプードルのミミを抱きしめながら言った。母は、
「そう。喜んでいたでしょう。ハルモニは膝が悪くなったの。あんまり歩けないんだって。杖をついているよ。」
と話した。若菜は、
「そう。」
若菜は、強い口調でこう言った。
「高校、絶対卒業する。勉強、頑張る。」
父は、
「そうだな。若菜はいつでも一生懸命だからな。敬さんがすごく褒めてたんだよ、パパに。若菜なら、きっと頑張れるよ。」
「でもね、冬の間は、本当に泣きたかったよ。朝が辛いの。手は悴むし、あかぎれが痛いし、
牛糞は臭いし。指の匂いを取るために、アルコールで消毒するんだけど、手が荒れるんだ。」
若菜は一人で話していた。
「でもね、そんな時、窓から富士山見えると、ほっとした。富士山って観音様みたいだよ、ママ。ありがたかったんだ、あの景色が。」
「ちょっとお茶して行こうか。」
父は運転しながらそう言った。SAで車を降り、若菜はソフトクリームを食べた。
「うん、合格。やっぱり山梨県のソフトクリームは美味しい。」
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