第4話
一台の白いワゴンが富士見牧場の駐車場に停まった。若菜と両親は二週間後の土曜日の午後、富士見牧場にやって来た。佐藤先生も、先に牧場に着いて三人を待っていた。
比奈子はチーズケーキを焼いて、待っていた。比奈子のチーズケーキは、いつも富士見牧場が生乳を納入している工場が作っているクリームチーズを使っている。
両親が先に車を降り、若菜は後から降りて来た。三人とも見事な富士山に見入っている。そして、玄関のブザーを鳴らした。
「いらっしゃいませ。遠かったでしょう。さあ、お入りになってください。」
比奈子が玄関で三人を迎え、リビングに案内した。父が挨拶した。
「この度はどうもありがとうございます。佐藤君と私は高校の同級生です。そのご縁でこの度こちらをご紹介して頂きました。こんな素晴らしい環境、いいですね。」
母も、
「こんなに大きな富士山を見たのは生まれて初めてです、私。」
と言いながら、
「つまらないもので、お口汚しですが。」
と、比奈子に菓子折を渡した。
「まあ、東京のお洒落なお菓子。ありがとうございます。」
敬は、
「さあ、お疲れでなかったら、牛を見ますか?」
と誘った。三人は、目を輝かせた。母は若菜を紹介した。
「高橋若菜です。ちょっと学校でいろいろあって、お休みしてます。我が家でも犬を飼っていて、この子は動物が大好きなんです。牛の世話はしたことがないけれど、この子にもできるでしょうか、少し不安です。」
敬は、
「出来ますとも。ただ、忍耐のいる仕事です。でも、必ず牛はこちらの思いを受け止めてくれる賢い生き物なんですよ。」
牛舎に佐藤先生と高橋親子、敬と比奈子が着くと、若菜は入り口のところにいる、まだ生まれたばかりのタンポポを見つけて、歓声をあげた。
「わあ、可愛い。」
比奈子は、
「この子は生まれてまだ一ヶ月も経たないのよ。女の子。ミルクを飲んでいます。やってみようか。」
と、仔牛用の哺乳瓶に生乳を詰めて、タンポポに与え始めた。すごい勢いでミルクを飲むタンポポ。若菜は夢中でその様子を見ていたが、やがてポケットからスマホを取り出して、
「写真撮ってもいいですか?待ち受けにしよう。」
と、シャッターを切った。比奈子は微笑みながら、若菜のことを、全く普通の明るい高校生だと思った。
しばらく牛舎を見学してから、家に入り、リビングでコーヒーと比奈子のチーズケーキを食べた。比奈子は努めて明るく、
「若菜ちゃんは何か食べ物で嫌いなものってありますか?」
と聞いた。若菜の母が、
「なんでも食べます。好き嫌いはないです。ありがとうございます。」
敬が、
「若菜ちゃん、ここへ来たら、朝は四時に起きるんだけど、大丈夫かな。」
若菜は、びっくりして黙っていた。父が、
「できるよな、若菜。」
と言い、若菜も静かにうなずいた。そして、五時を過ぎた頃、三人は東京に帰って行った。
佐藤先生は残って、
「預かって欲しいという先方の思いは変わらないな。どう思いますか?」
と敬と比奈子に聞くと、敬が、
「預かります。可愛い子ですね。いい子ですよ。」
比奈子も、
「あの子にいじめの影はなかったです。きっとこの環境で立ち直れます。そんなふうに思いました。」
佐藤先生は、
「よかったです。僕から言うより、もう、直接、連絡してあげてくださいますか?」
と言い、敬が、
「わかりました。」
と答えた。
顔合わせから数週間した頃、若菜は両親の車で富士見牧場にやって来た。車の後部にたくさんの衣類や本などの荷物を積んで来た。比奈子と敬も手を貸して、荷物をログハウスの二階にあるゲストルームに運び込んだ。
「お部屋が片付いたら、下でお茶飲みましょう、降りて来てください。」
比奈子はゲストルームで荷物を片付けている若菜と母にそう言った。敬と父はウッドデッキにあるチェアに座って富士山を見ながらビールを飲んでいた。帰りは母が運転するということだった。敬は、
「僕たちは子供がいないから、願ってもないお話で、嬉しいんです。若菜ちゃんみたいな子がいたら楽しくなるだろうな。」
父は、敬の方を見ながらビールの入ったグラスを傾け、
「ありがとうございます。何か悪いことした時は、遠慮なく叱ってください。叱れば言うことを聞く子です。素直には育ってくれてます。」
敬はうなずいた。
父と母は、若菜を置いて、その日、帰って行った。若菜は早速、母とラインでチャットをしていたが、自分で母とのチャットも慎もうと思い始めた。比奈子が、
「私のことを牧場でのお母さんだと思って、なんでも相談して頂戴ね。」
と言っていた言葉を思い出したのだ。母からのラインには、お食事の準備や片付け、お掃除、お風呂の掃除、なんでも自分でできることは手伝いなさい、と書いてあった。比奈子さんは牛の世話で忙しいんだからね、と結んであった。父からは、朝四時に起きること、これを守りなさい。土曜日も日曜日も牛の世話に休みはないんだよ。糞の掃除など、人が嫌がることを率先してやりなさい、と言って来た。そして、自由な時間には読書をすること、と書いてあった。
比奈子は、
「若菜ちゃん、お風呂に入ってね。うちは敬さんが一番風呂なの。その後、若菜ちゃんね。それから私が最後にお湯落とすからね。そうしてね。」
敬は風呂上がりのビールを楽しんでいる。若菜は、
「はい。じゃ、お先に頂きます。」
と言って、入浴した。
檜のお風呂は、初めてだった。いい香りだ。お湯は湧き水を沸かしているという。柔らかい湯だった。
お風呂から上がると、比奈子が冷蔵庫で冷やした冷たい牛乳をグラスに入れて持って来てくれた。
「今日絞ったばかりの牛乳よ。お風呂上がりには一番よ。飲んでみて。」
若菜は嬉しそうにグラスを受け取り、ゴクゴクと飲み干した。
「美味しい。甘いですね。ミルクの甘味ってこういうんだ。」
と言った。比奈子は、
「うちはそんなに広くないけど、牧草地があるから、牛は昼間は草を食べているの。だから牛乳が甘いんだと思うのよ。」
若菜は、
「明日、絶対四時に起きます。もうお仕事ないですか?」
「今日はもう終わりよ。私はお風呂に入って寝るだけ。若菜ちゃん、先におやすみ。明日、早いからね。」
「はい。おやすみなさい。」
明くる朝、三時半に目覚ましを仕掛けておいた若菜は、四時には野良着用に母が用意してくれたジャージを着てリビングに降りて来た。比奈子は若菜の後からリビングに来て、
「おはよう!早いわね。よく起きられたね。眠れた?」
「はい。よく寝ました。」
敬も起きて来た。
「おお、若菜ちゃん、起きたね。早いじゃないか。さあ、行こうか。」
と言うと、玄関を出て、牛舎に向かった。二人も後から追いかけた。
七時まで三時間、糞を取る作業を若菜は進んで引き受けた。軍手をしていても、牛糞の匂いは爪の間まで入り込む。そんなことはお構いなしに頑張った。比奈子はそんな若菜をよく見ていた。朝ごはんを作るために台所に戻る時に、若菜に、
「よく頑張ったね。」
と一言言った。若菜は思いがけない労いの言葉に、びっくりしてうなずいた。比奈子が自分の仕事を見ていてくれたことが嬉しかった。お腹が減っていたから、朝ごはんは美味しくて、ご飯をお代わりした。搾りたての牛乳で作ったカッテージチーズの蜂蜜がけもすごく美味しかった。敬が、
「若菜ちゃん、朝ごはんの後、十時まで二時間、二度寝だ。睡眠不足にならないように、ベッドで休んでね。」
「はい。」
比奈子は、
「十時に仕事始まったら、この間の仔牛にミルクやってくれる?タンポポの世話を若菜ちゃんに頼みたいんだ。」
「タンポポ?」
「うん、仔牛の名前。可愛いでしょう?」
「うん。可愛いですね。」
二度寝の時間は、若菜はベッドに入って目を閉じた。二度寝が終わり、十時前にまた野良着に着替えて、牛舎へ行く。敬たちはすでに牛乳を絞っていた。
「遅くなってすみません。」
「あ、遅くないよ、大丈夫。タンポポの世話の仕方、教えるね。」
比奈子は哺乳瓶を持って来てタンポポがいる方へ若菜を連れて行った。若菜は、タンポポの体をタオルで拭いてやる事、ミルクは一日に二時間おきに五回飲ませる事、などを教わった。
搾乳が終わると、牛たちを牧草地へ連れて行く。牛は順番に牛舎から出て、牧場に向かい、草を食べ始める。そして、夕方の四時までそこで過ごす。牛がいない間に、牛舎の掃除をする。ホースで水を撒いて、デッキブラシでコンクリートの床を擦って磨く。若菜も比奈子が買って用意してくれた自分用のデッキブラシをもらって床を掃除した。そして掃除が終わると、敬が、絞った牛乳を乗せたトラックで、工場に向かう。若菜も助手席に乗せてもらった。
「この工場はもう長い付き合いでね。うちの牛乳は牧草地で放牧しているからと、高い値で買ってくれるんだよ。」
「昨夜、お風呂上がりに冷たいミルクいただきました。今まで飲んだ牛乳の中で一番美味しかった。」
敬は嬉しそうに、
「そう。よかった。嬉しいなあ。」
と言葉少なに喜んだ。
「工場は小高い丘の上にある。敬のトラックは工場へ続く山道を進む。左手に小川が流れ、右手は山肌が迫る。しばらく行くと、工場が見えて来た。車を止め、タンクの中の牛乳を納める。敬は若菜を連れて工場の中へ入る。工場長に挨拶に行く。
「今日は。工場長、娘が出来たよ。笑。」
工場長は驚いて、
「松永さん、姪っ子さんか?」
「東京から来た高橋若菜です。しばらく見習いです。」
と若菜が挨拶した。工場長は、
「感心な若者だなあ。牛の世話は綺麗事じゃできないよ。こんな若い人、嬉しいなあ。」
と言い、敬も、
「そうでしょう?昨日来たんですけど、まあ、これからよろしくお願いしますよ。」
と、工場長に一礼した。
工場を後にして、トラックに乗り込むと、敬は、
「若菜ちゃん、どうだ、ラーメン好きか?」
「はい、大好き。」
「じゃ、ちょっくら道草して食ってくか。」
「おばさん、お昼作ってくれてるんじゃ?」
「いいよいいよ。じゃ、電話入れとくか。」
車で十分ぐらい街中へ走ると、目指すラーメン屋があった。敬はチャーシュー麺、若菜はワンタン麺を頼み、水を飲みながら、話した。
「若菜ちゃん、こんな事いったら気にするかも知れないけど、できれば高校は卒業しておいた方がいいぞ。どんな形でもいいから。通信制でも、定時制でも、なんでもいいからね。何年かかろうが、そんなことは大した問題じゃないんだ。でも、高校は卒業しなさい。」
若菜は黙っていた。それが一番気になっていることだった。敬がこれを言ってくれて嬉しかった。
「おじさんだって、大学までは行ったんだよ。今は牛飼いだから、大学で勉強した知識なんて大して役には立ってないさ。でも、行っといてよかったよ。大学まで出たことを後悔したことはない。親にも感謝してる。」
若菜は水を飲みながら、黙って聞いていた。
「私も大学行けるかなあ?無理じゃないかしら?」
「絶対行けるよ、当たり前だろ。健康で、若くて、それにご両親が揃ってて、後、何が不足だ。大丈夫。焦らなくていい。今はここで牛飼いの見習いだ。これも勉強だ。」
ラーメンが運ばれて来た。
「人生は長いんだ。焦ることはない。今の一年二年なんて後からいくらでも取り返せる。みんなが十八で高校卒業するからってそうしなきゃいけないほうはないさ。十八の時に牛飼いの見習いで勉強して、その後高校を卒業すればいい。全然オッケーだよ。」
若菜はうなずいた。
「さ、延びるよ、食べなさい。」
二人は無口になってラーメンを食べ始めた。
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