第2話
若菜は、高校二年生の夏に、いじめから登校拒否を起こした。愛犬のトイプードルだけが友達という日々を過ごしている。犬の散歩だけが唯一の日課で、それ以外に一歩も家から出ない日が続いている。
いじめはこんな風に始まった。ある日、若菜が学校へ行くと、いつも仲の良い四人グループのうち、一人が、他の二人にこう言った。
「若菜って、韓国入ってるらしいの。聞いたことある?」
「え?初耳。名字だって日本の名字じゃん。高橋。」
「そうだよ。仮に韓国入ってたとしても、良いじゃん、そんなこと気にしなくて。」
「私は嫌だ。韓国嫌いだから。」
「あ、若菜だ。」
若菜は何も知らずに、
「おはよう。」
と元気に言った。三人は、少しよそよそしい態度をとった。若菜はそれが何故だかわからなかった。
「……………おはよう。」
と一言言うと、さっと席を外してしまい、若菜は一人取り残された。その日は、若菜はひとりぼっちで昼休みを過ごした。そして、何故自分が仲間外れにされたのか、若菜には思い当たるだけに辛かった。
「ハルモニのこと、誰かに解っちゃったんだ。」
母方の祖母が韓国人だった。昼休みにお弁当を開き、チヂミが入っているのを、若菜は隠すように食べた。隠して食べた、母の手作りの美味しいチヂミ。大好物を、隠して食べたことが、若菜を惨めにさせた。ハルモニのことは小さい頃から大好きだ。でも、年頃になるにつれ、韓国人の祖母を色眼鏡で見る悲しい習慣が自分の中にも芽生えた。そして、韓国と日本のハーフである母にもある種、情け容赦ない苛立ちを感じるようになった。
ママはどうして、キムチなんて漬けるの?白菜の柚子漬けにしてよ、と言ったこともある。でも、母は毎年キムチを漬けた。母にとって、ハルモニの味を娘にも食べさせたい、という思いは、母親としては当然のものだった。
一人でお弁当を食べるようになって、一週間が経った。若菜は、ある日、母に連れられて、ハルモニの家に遊びに行った。祖父は日本人だ。ハルモニはいつも会うときはチマチョゴリを着ている。そして、韓国式の挨拶をハルモニの前でするのが習いだった。この日も挨拶をするように母に促されたが、初めて若菜は挨拶を嫌がった。ハルモニは、
「いいよ。したくない時もあるよね。」
と、優しく微笑んだ。母は、
「ミヤナミダ、オモニ。」
と、韓国語で謝った。祖母と母は韓国語で何やら話し始めた。若菜には意味がわからない。
若菜は学校で仲間外れにされている原因がハルモニだとは口が裂けても言えなかった。母にも仲間外れにされていることは秘密だった。しかし、ハルモニは察していた。
「私が原因で、若菜が学校で何かあったんじゃないか?」
そう、韓国語で母に言っていた。母は、
「まさか。そんなこと、若菜は何も言わないですよ。」
在日韓国人として産まれ、日本で育ったハルモニは、韓国人であることが日本でどんなに肩身が狭いか身に染みてわかっている。祖父と結婚する時も、両親にも義父と義母にも大反対されたし、結婚してからも様々な苦労があった。義父と義母にも虐められた。今は亡き義父と義母には、亡くなる前にはようやく認めてもらった。しかし、ニンニク臭い料理を作るな、とか、やれ、朝鮮服を着るな、と言われ続けた。チマを着るようになったのは、二人が亡くなってからのことだった。
「お祖父さんに会って行きなさい、若菜。」
ハルモニは優しく言った。若菜は頷いた。
祖父は、リビングでテレビを見ていた。
「お祖父ちゃん、元気だった?」
「おお、若菜。よく来たな。」
「うん。」
「学校はどうだ?楽しいか?」
若菜は俯いて、黙り込んでしまった。
「うん?どうした?」
「……………うん………。なんでもない。」
祖父は、何かあったな、と、独特の勘で思った。若菜に、
「友達と仲良くしてるか?」
と聞いた。若菜は、
「…………。うん。大丈夫。私は大丈夫だよ。今日、ハルモニに挨拶しなかったから、謝ってくるね。」
と言うと、祖母のいる部屋へ行き、
「ハルモニ、今からご挨拶します。さっきはすみませんでした。」
と言い、韓国式の挨拶をした。ハルモニは、
「若菜、いいんだよ。お前は日本人なんだから。」
と言った。若菜は、
「私はクオーターだよ。」
と、微笑んだ。祖母は、ホッとしたように微笑んでいたが、若菜が仲間外れにあっているという予感は拭えなかった。祖母は母に、
「お弁当にチヂミを入れるのはやめなさい。卵焼きにしてあげて。」
と言った。祖母の勘の鋭さは相変わらずだった。昔からこういう面が優れた女性だった。
一週間の孤独は、若菜を強くした。しかし、例の三人組は、若菜に韓国人の血が入っていることを、クラスの中で噂にしていた。聞いた生徒の反応はそれぞれで、若菜に同情する者、そんなことはどうでもいいことだ、と理解を示す者、一方でもう若菜とは口を利かないとつっぱねる者もいる。この噂はあっという間に学年中に広がった。面白半分で言いふらす者は若菜が思うより多かった。影で言われていることは、直接若菜の耳には入らなかったが、若菜は必要以上に悲観していた。全く気にも留めない子が大半だというのに、学年中の生徒から自分は嫌われていると思い込んだ。
若菜は、学校からの帰り道、ホームで電車を待っているときに、ふと、
「飛び込んじゃおっかな。」
という思いがよぎった。そして、大いに慌てた。
自分がもし、電車に轢かれたら、どんな姿を人前に晒すことになるか、考えた。腹が裂けて、内臓が飛び出すかもしれない、頭蓋骨が割れて、脳味噌が飛び出すかもしれない。嫌だ嫌だ。死ぬにしても、綺麗な死顔がいい。
顔面蒼白で家に帰り着いた。母が驚いて、
「若菜、どうしたの、何があった?」
「なんでもない。もう、嫌だ。学校辞める。」
若菜は初めて涙を見せた。母は、祖母に電話をかけた。祖母は、
「気が済むまで学校を休ませなさい。責めちゃいけないよ。若菜だって辛いんだから。」
と言った。
若菜が学校に行かなくなって、しばらくすると、夏休みだった。母は、若菜を連れて、もう一つのルーツ、韓国に旅行した。若菜に韓国を見せるのは初めてだった。祖母も一緒だった。若菜は元気にしていた。初めて見る韓国の地で、旅行を楽しんでいた。
しかし、帰ってくると、すぐにリストカットをしてしまった。母は驚いて病院に連れて行き、何針か縫ってもらった。夏休みが終わると、また、学校を休み続けた。
そして、父は高校の同窓会で同席した獣医の佐藤先生に、娘のことを相談したのだった。
佐藤先生は、山梨から同窓会に来ていたが、富士山の麓の富士見牧場の敬と比奈子の夫婦に子供がいないことを思い出し、夫婦の話をした。若菜の父は、考えさせて欲しいと言った。そして、暫くして、若菜の両親は佐藤先生に手紙で娘を富士見牧場の夫婦に預けたい、と申し出た。
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