蛹(さなぎ)の季節

長井景維子

第1話

目覚まし時計が四時に鳴る。寝ぼけ眼で、必死に布団の中から手を伸ばし、アラームを止める。ベッドサイドの窓の外はまだ真っ暗だ。布団から這い出して、深呼吸をする。さて、起きなきゃ。

 眠気はひとりでに覚めてくる。もう四時おきは二十年目だ。隣に寝ている夫の敬も今、目覚めて、伸びをしている。二人は阿吽の呼吸で一緒に布団から出て、着替えを始めた。野良着に着替えて、階下に降りてゆく。

 牛舎は暗闇の中に静かに佇んでいる。敬と比奈子は、玄関から真っ直ぐに牛舎に向かった。牛たちは、真夜中には足を折って横になって眠っているが、四時過ぎに行ってみると、みなもう立ち上がって餌を待っている。二人は大きな鋤を持って、餌をたっぷりと与え始めた。

 中に、もうじき仔牛を出産する雌が一頭いる。お腹が大きく張っている。熱い蒸しタオルで体を拭いてやる。今日の昼間にでも陣痛が来てもおかしくない。大きく張った腹を触ると、仔牛が中で元気に動くのが感じられる。

 糞を取り、綺麗に牛のベッドを整えてやる。それから、搾乳機をセットして、一頭一頭から牛乳を搾る。朝が一番牛乳の出が良い。重たい乳房をぶら下げて、牛は餌を食べながら、乳を出す。

 これら一連の朝の仕事が終わると、大体七時になる。比奈子は、家に戻り、台所で、今日搾った牛乳で、カッテージチーズを作る。生乳に酢を入れて、大きな鍋で沸騰させて、フキンで濾せば良い。これに蜂蜜をかけて夫婦で食べる。それから、コメを炊き、味噌汁を急いで作る。夫の敬も牛舎から帰って来た。野良着からデニムに着替える。朝ごはんを食べ始める。

「ベニ(お腹の大きいメス)は、今日あたり産気づくね。タオルを用意しておかなければね。」

と、比奈子はカッテージチーズをスプーンですくって口に運びながら、敬の顔を見て言った。敬は、新聞をめくりながら、白米を噛み、比奈子に答える。

「今日は俺がベニから目を離さないようにする。獣医の先生は、初産じゃないから、多分、安産だろうと言っていたな。」

 夫婦には子供がいなかった。子供は望んだのだが、できなかった。結婚して二十年になる。敬は比奈子と知り合った頃、東京で銀行に勤めていた。比奈子も同じ銀行で働いていた。職場で知り合って、デートを重ねるうち、敬は山梨県の富士山の麓に親が土地を持っているので、そこで酪農をするのが夢だと話した。比奈子は、酪農家の女房になるのは大変そうだと、一時期は敬と距離を置いた。

 二人が交際をやめて、しばらくすると、敬は銀行を退職して、一人、富士の麓の荒地を耕し始めた。そこにログハウスを建て、牛舎を建てて、仔牛を飼い始めた。そこへ、比奈子がひょっこり訪ねて来た。仔牛のつぶらな瞳が比奈子を虜にしてしまった。比奈子は銀行での仕事に行き詰まりを感じていた。二人はこの富士山を望む環境で牛を飼うという将来を共有する決意をした。そして、めでたく結婚したのだった。

 さて、朝食を終えて、比奈子は洗濯を始め、掃除もさっと済ませた。敬は朝食を食べ終わるとすぐにまた野良着を着て牛舎に戻った。ベニの様子が気になっている。

 ベニは、元気に餌を食べていたが、一時間もすると、息遣いが荒くなり、やがて陣痛が始まった。

「おーい、始まるぞ。お湯沸かしてくれ。タオルもたくさん。」

 比奈子はお湯を沸かし、洗い立てのタオルをたくさん用意した。獣医の佐藤修先生にも一応電話をかけておいた。佐藤先生は、産まれた頃に様子を見に来てくれることになった。

 ベニは大きく息をしながら、時折、体を震わせる。仔牛は少しずつ膣を通って、その蹄を外に覗かせて来た。そこを敬が、仔牛の足首を掴んで、引っ張り出そうとする。指が滑って、何度も掴みかけては放し、掴みかけては放し、を繰り返す。濡れたタオルで仔牛の足首の周りの滑りを拭って、しっかりと掴む。そうして、ベニがいきんだと同時にグーっと引っ張り出す。仔牛の膝までが現れた。ベニは苦しそうにしている。目玉を剥いて、はあーはあーと息が荒い。ベニは自力でなんとか息む。

 敬は仔牛の足を持って、思いっきり引っ張る。腿までが現れた。

「ベニ、そら、もう一息だ。頑張れ!」

比奈子はバケツに人肌のお湯を入れ、その中に味噌を入れて、ベニ用の味噌汁を作って待っていた。敬と仔牛が格闘してから小一時間、仔牛が産まれた。元気なメスだった。

「可愛いなあ。なあ。ベニ、よくやった。」

 ベニは後産を食べ、仔牛はようやく立ち上がって、初乳を飲み始めた。比奈子が用意した味噌汁をベニに与えると、喉を鳴らして飲み干した。味噌汁の塩分が産後の雌牛にはありがたいのだった。

「メスでよかった。オスだったら、食べられちゃうんだから。ベニは本当にお利口さんだねえ。」

比奈子はベニの頭を撫でて、感動の余り涙ぐんでいることを隠して、鼻先を人差し指でぬぐった。敬もベニの体をタオルで拭きながら、

「本当にメスでホッとしたなあ。オスを見たときの悲しさはなんとも言い難いからな。」

と、嬉しそうに言った。

 ホルスタイン牛のオスは、成牛になってから肉とする場合もあるが、この富士見牧場でオスが産まれると、生後六ヶ月くらいで肉にする。柔らかくて美味しい仔牛肉は高値で取引されるし、市場に出回る量が限られるので、高級レストランやホテル等から引っ張りだこなのだ。敬も知り合いのレストランのシェフから、オスが産まれたら、仔牛のうちに買い付けたいと言われている。だから、仔牛のオスは、生後六ヶ月くらいまでしか生きられない。

 反対にメスは、将来乳牛になるので、大切に富士見牧場で育てられる。そして、ゆくゆくは他の乳牛たちと一緒に乳を搾られる大切な仲間となる。今回産まれたメスに、比奈子はタンポポと名前をつけた。

 獣医の佐藤先生が、タンポポの様子を見に来てくれた。

「産まれたかい?」

「ああ、先生!ハイハイ。元気なメスだよ。」

先生は聴診器をぶら下げている。心臓の音を聴き、

「ウンウン、問題ない。元気ないい子じゃないの。模様もいいねえ。黒と白のバランスが良いよ。」

比奈子は、

「先生、お昼食べて行って。今、作るから。」

「ありがとう、ご馳走になるか。」

 比奈子は急いでおにぎりを十個ばかり握り、卵焼きを焼いた。それから、野菜炒めを作り、熱いほうじ茶をポットに入れた。それらを、ログハウスのウッドデッキにあるテーブルに運び、にわかな昼食の準備ができた。目の前に雄大な富士山が裾野まで見える。

 おにぎりを頬張りながら、佐藤先生は、こんな話をした。

「俺の知り合いに、東京でいじめにあって、高校を停学している女の子がいる。学校には行きたくないし、家でゴロゴロしているのも良くないから、富士山の麓で酪農している夫婦がいると話したら、もし良ければ、生活費を払わせてもらって、半年ぐらい、見習いで住み込みさせてくれないか、と、親が頼み込んで来たんだ。どうだろう、預かってもらえないだろうか?」

 比奈子は高校生の女の子と聞いて、目を輝かせた。敬の顔を見ると、考え込んでいる。

「一回、会わせてもらってからで良いですか、返事は。」

敬は言った。佐藤先生は、

「勿論だよ。スケジュールはいつが良い?」

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