D.W.O-END


 屋上を出てから、ツキがいる方角へと僕は目的を定めて、歩みを進めていく。先ほど見た景色の変化を視界にとどめながら、歩くたびに命を踏み荒らしていく。きっと、そこに命を見出すなんて意味のない行為なのだろうけれど、それでも歩くということは命を摘み取ることと連なっているのだから、ただただ踏み荒らすように歩いて行った。


 歩くたびに木々の狭間の闇は深くなっていった。太陽があったはずの空、その日射が届いていたはずの木の葉の隙間からは、とうとう光すら漏れないようになっていった。それほどまでに雑草のような葉が重なっているのかもしれないし、太陽という存在が消えたのかもしれない。温度に差異など特にはなくて、ただただ暗くなっていく視界の中を、ただまっすぐに歩むことだけを繰り返す。まるで景色の死骸を心に集めているような気分になった。


 道が開けることはなかった。次第に、森に存在していた木々の数々は減っていった。おそらく光が届かなくなった故に、その周囲の木々を目視できなくなってしまったのかもしれない。だが、屋上の踊り場で感じていたような風の一部も、木の葉が嵩んで揺れる音も聞こえず、静かに、ただ静かに景色が変哲のない暗闇へと変化を繰り返すだけに終わった。


 心細くなった。独りになったのは初めてだった。いつだってあの部屋にはツキがいた。ツキがいて、いつも抱き合いながら体温の冷たさを共有していた。彼女の指先、足先はいつだって冷えていて、その冷たさを覚えるたびに、僕の手指で温めようとした。そんな僕の様子をにっこりと笑いながら、慈しむように見つめていたツキの姿があった。そんな姿が、今は昔のように懐かしい。


 心細くなったついでに、僕は独り言を話そうと思った。というよりも、ツキに呼びかけようと、声を出そうと思った。


 視界は鮮明にはならない。屋上で見届けていた彼女への水平線も視界に入ることはない。視線でとらえることもできず、明度はそこにないのだから、もし彼女がそこにいたとしても、声でしか僕は存在を確認できないと思った。


 声を出した、声を出そうとした。だが、声は出せなかった。


 息を呑んだ。息を呑むことができた。鼻から呼吸をすることができた。すべての酸素は鼻腔から取り込まれ、肺に向けて流されていた。それだけで生きている心地を感じた。


 口を開こうとした。口を開こうとして、口が縫い付けられていることにようやく気付いた。いつからそうなったのかはわからない。この外の世界みたいな場所に来た時からそうだったのかもしれない、僕がそれを感じた瞬間に口は縫われていたのかもしれない。今まで声を出そうとしていなかったのだから、その違和感を覚えることさえ、僕にはできていなかった。


 唯一、音のようなものを出すことはできた。肺の中に取り込んでいる酸素を口に向けて吐き出して声帯が振れる。その振動によって、声にはならない音が、口の中でくぐもるだけの雑音が鳴っていた。


 暗闇の中、一人でしかいない孤独な環境の中で、その雑音だけが僕の存在を証明する材料になっている。そのことに気づいてから、必死に声にならない雑音を繰り返して発し続けた。それは悲鳴にも近い音だった。


 途端、眩暈を覚えた。


 耳に空気が溜まっていく感覚がした。肺が吐き出そうとした酸素の行方は、口から漏れることはなく、鼻から涼しく出ていくはずだった。だが、それはできなくなっていた。


 酸素の行方を失くしてしまった、耳に空気が溜まっていって、いつか感覚全てを失うような焦燥感に駆られた。こうして立っていることができるのも、三半規管によるものだということを理解していたから、僕は雑音を奏でることを一度やめて、そうして耳を抑えた。口以外の呼吸を意識して、足を止めて、呼吸を繰り返す。繰り返す、繰り返すけれど、その甲斐はなかった。


 歩けば歩くほどに地面はすべて揺らいでいく。水面に浮き立つさざ波のように、それは波紋のように揺らいでいく。あらゆるすべてが液体へと変化したように、彼女が水平線の中にいることを示すように、地面は闇となって、確かに僕の足を呑み込もうとしている。


 沈む、沈む。沈んで、消えていく。


 感覚がない、感覚がない。


 足を上げようと力を入れるが、その足がない。力を入れる先がない。もがいて、もがいて、闇からそうではない場所へと這い出ようとしていた。


 沈む、沈む、沈んで、すべてが闇に覆われていく。


 足は消えていった、関節がなくなっていった。自分が地面に垂直に立っていることが不思議で仕方がなかった。いや、それはただの錯覚でしかなかった。暗闇しかない視界の状況下で、自分が地面に立つことができていたかなんてわかりはしなかった。


 もがいた、もがいたけれど、それでも沈んでしまう。もがくたびに沈んで、喉まで闇が覆っていく。


 沈んでしまえば、もう戻ることはできないかもしれない。


 無意識が、頭の中がそう理解していた。直感のようなものだった。この闇にさらわれてしまえば、僕はもう二度と世界に戻ることはないと、ツキと再び巡り合うことはないのかもしれない、と。一瞬の時間の中で、何度も何度もそれを反芻して苦しくなった。息苦しさが確かな痛みとなって、よりもがく力は強くなっていった。


 でも、もう遅かった。


 耳の中に溜まっていた空気が爆ぜた。大きな音が自分の中から聞こえ、自分の存在が消失しようとしていることに気づいて、震えそうになった。そんな音さえも闇は静かに飲み込んでいき、僕はそのまますべてを失おうとする。


 嫌だ、と声に出したかった。縫われている口のすべてを、どれだけ痛くとも切り裂いてしまいたくなった。声に出して、ツキ、と彼女の名前を呼びたくなった。




 ──結局、僕は彼女の名前を呼ぶことはできなかった、けれど──。




『──大丈夫、だよ』




 ──確かに、そんな声が、空白から、聞こえた、ような、気がした。

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