0.3/Doubt Without Out
D.W.O-1
◇
ツキの腕にはウロコのような模様がいつだってついている。彼女の指は樹木の細枝のようにしなやかで美しいのに対し、白い肌に網目のようについているその腕は、いつだって人の目を引いていく。それはおそらく奇異としての視線でしかなかっただろうが。
「美味しい?」とツキは僕に向けてそう聞いてきた。
彼女の白い肌から、そのウロコのような傷跡からにじみでる赤い液体を僕に滴らせて、恍惚を表情に浮かべてそう聞いた。僕はいつも通りに、美味しいよ、とそんな意味合いを含め頷きをを返したけれど、彼女はその肯定を本気と受け取って、また白い肌を絞るようにして血液を僕の口にすすらせていく。
錆びついた鉄の臭いと、固まったようなヘドロの感触が口の中を潤わせていく。最初からそれを呑み込むことができれば、きっとこの感触はなかったのだろうけれど、実際に美味とは思えないその味を、喉に流し込むことは僕にはできなかった。
無理にそれを呑み込んだ。ごくり、と喉の音が鳴るのを感じて、口の中が軽くなる感覚を覚える。喉に流れるまとわりつくような液体の感触に咳き込みそうになりながらも、彼女が優越感を感じてくれるように、僕はそれをにっこりとした笑顔を表出しながら、僕の口の中を彼女の視界に移す。彼女はそれをこれまたにっこりと蕩けるような表情で見つめていた。
彼女のウロコのような腕からは、いつまでも血がしたたり落ちている。それもそうだ、と僕は今さらながら思った。彼女は魚でもないし、人魚でもない。蛇でもないし、ウロコのつくような生態の性質が混じっているわけではない。
彼女の腕がそうなっているのは、すべて彼女の自傷行為によるものであり、錆びついてしまったカッターナイフによって自らつけた傷が、ウロコのようにおびただしくついているだけだった。ウロコの網目を演出する継ぎ接ぎのような肌については、白い肌に添うように赤かったり、黒かったりした。もしくは朱色と表現するべきなのかもしれない。彼女はそれをいつも、痒い、と言ってそれを掻こうとするので、僕はその度に彼女の血液を口に含んで、その行為のすべてを肯定した。そうすることでしか、僕は生きることができなかった。
◇
記憶の欠落についてを語らなければいけない。
僕のこの意識がはっきりしている段階で、過去の記憶というものは、すべて僕からするりと抜け落ちてしまっている。
目が覚めたときには、暗い部屋にベッドが二つと、唯一の灯りとなるらしいがスランプがあるくらいで、それ以外のものは、牢屋のようなコンクリートの外壁と、目の前にいるツキくらいしか、僕の目の前にはなかった。
記憶とは経験であり、経験とは体験である。体験では情緒が養われ、経験ではそうして人格が養われる。つまり、記憶を欠落している僕という存在については、人格というものは存在せず、おそらく赤子のようなものといっても差し支えはないはずだった。
「乳飲み子だね」とツキは言った。
記憶は欠落していたけれど、その言葉については知っていたし、それ以外の基本的な言葉のすべては知っていた。だから、その言葉に納得をしていると、彼女はいつから持っているのかわからないカッターナイフで自らの腕を裁いて、そうして僕に血を飲ませ始めた。乳飲み子ならぬ血飲み子だね、と彼女は笑いながらそう言った。きっと、気色の悪い話だと思えばよかったのかもしれないけれど、僕は疑うこともなく、信じるようにそれを啜って味わった。最初の彼女の血はただの鉄の味だったことをよく覚えている。
ここでは時間というものはわからなかった。時計というものはなかったし、目の前にいるツキという女の子も時間を気にすることなく生きてきていた。不思議と腹が減る、ということはなく、いつまでも無為に時間を過ごしてもいいことだけが、この世界のルールでもあると、そのように感じた。
疑問を持つことはなかった。世界とは与えられた環境から逸脱することを許されていないのだから、この環境こそがすべてであると、僕は信じて疑うことはなかった。
目の前にいる女の子のツキだってそうだった。彼女は彼女自身のことを理解しているし、僕とは違って記憶というものはきちんと存在しているらしい。
けれど、それだけでしかない。
僕はこの意識が生まれてから、何度かこの世界について聞いてみたことがある。幼心というべきか、純粋な意思で、外に出る目的とか、そんな野蛮な思想を持つことはなく、単純に気になって質問をしたことがある。
僕たちは、どうしてここにいるのか。どうしてここにずっといなければいけないのか。外の世界というものは存在するのだろうか。僕の記憶がないのはどうしてだろうか。
そんなことを、何度か彼女に聞いたけれど、そのすべてを彼女からははぐらかされてしまった。
別に、ここにいなくてもいい。ここにずっといなくてもいい。私たちがそれを選んだだけであり、そこに制限は存在せず、自分が自分を縛っているだけ。ここだって外の世界のひとつであるし、もしかしたら、あなたの言うように外の世界がさらにあるのかもしれない。記憶なんてどうでもいい。与えられた環境がすべてなのだから、それに沿うように生きることができればそれでいい。
確か、そんなことを言われたはずだった。支離滅裂としか思えない言葉だったように思うけれど、聞いた当時の僕は、不思議とその言葉の嵐に呑み込まれてしまって、納得という感情を抱いてしまった。それから、外の世界というものを気にすることはなくなっていった。
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