W.I.P

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 空を見ていた。見上げていた。その行為に意味なんてなくて、ただ青い空を見つめることで時間をつぶしていた。それだけ暇に明け暮れていたというだけの話でもあるし、僕が単にやるべきことさえも見出すことができない人間だということを示していた。


 空は青色だった。詳細な色を語るのならば、おそらくそれは水色に近い色なんだろうけれど、海と空の色では寒色の深みが異なっているのに、それを言葉で表現することには抵抗感があった。だから、適当に青色を名付けるだけ名付けて、ぼんやりと空を見つめていた。穴をあけたように綿が白として世界から抜け落ちている姿を見て、いつかは雨が降るのかな、とか考えていた。そんな荒唐無稽なことしか、僕には考えることはできなかった。


「しりとりをしよう」


 突然、そんな声が僕に向けて発せられた。僕に向けて、という部分を理解したのは、僕が空を見上げている屋上には、声の主と自分しかいないからだった。僕はその声の主について名前は知らなかったけれど、親し気に話しかけてくる声にうなずいて返した。どうせ暇だったから、その時間をしりとりで費やすのも悪くないような気がした。


「りんご」と彼は言った。セオリーを考えるのならば、ゴリラ、とかそういった言葉を吐けばよかったのかもしれない。


 でも、僕はゴリラとは言わなかった。


 いや、言えなかった。


 口は糸によって縫い付けられていた。それは誰かによる意図なのかもしれないと思った。いつの間にか縫い付けられて結んでいる口に対して、僕はもごもごと音にもならない声を鼻息から出すことしかできていなかった。それを声の主は笑いながら「ごりら」と間延びした声で、一人でしりとりを続けていた。


 口を縫い付けられるということは、この先は言葉を発してはいけないということだった。いつの間にかガムテープで口をふさがれて、違う場所に監禁をされているような気分になった。目に映る空の色が遠くなって、いずれそれが黒色になることを自分自身で理解した。


 天気が変わっていく。天気が変化を重ねていく。世界という穴から抜け出したように、白い綿がぼろぼろと世界に落ちていく。いずれそれはカビを吸い込んだように灰色へと変わり果て、最終的には汚濁を吸い込んだような黒色に変わっていた。いつの間にか月さえ出てきていた。目の前の状況に理解を示すことなどできやしなかった。


 そこには、僕しかいなかった。


 そこには僕しかいない。声の主という役柄もいつの間にか消えていたし、先ほどまでいた晴れ晴れとした屋上の空もそこにはなかった。ただ憂鬱な心情を表すかのような、ただそれだけの暗い色が目の前に広がって、目をつぶっても開いても黒いだけの視界に、僕は息を吐いた。


『──だよ』


 そんな時、から声がした。


 それは無とも言えるものだった。それは存在しないからこそ存在を許されている産物であり、矛盾を抱えた物として、それは空白という名前が付けられていた。


 空白の声ははっきりとしなかった。だよ、という言葉の前に何か言っていることは理解したけれど、具体的な単語などは聞こえてこなかった。けれども、その声があることにだけ僕は安心感を覚えた。


 なんて言っているんだ、と心の声で呟いた。それが空白であるというのならば、空白にしかならない心の言葉も伝わると思った。無にはそれだけの力があると僕は信じていて、その勢いのままに心で言葉を吐いた。現実的ではない行動に笑いそうになりながらも、そもそもが現実でないことを知っていた僕は、心の底から狂信的にそれを肯定していた。


『大丈夫だよ』


 今度は、確かにはっきりと聞こえた。


 それは音ではなかった。音ではなかったからこそ聞き取ることができた。それは思念のようなものであり、それは世界の意志でもあるかのように感じた。


 僕は、息を吐いた。安堵の息を何度も吐いた。いつの間にか縫い付けられていたはずの口が解放されていることに気が付いて、鼻からではなく口から大きな呼吸を繰り返した。


『大丈夫だよ、大丈夫。きっと、また会えるから』


 僕が安堵の息を重ねていると、それはニヤニヤとしたような笑みを浮かべている、そんな雰囲気の思念でそう伝えてくる。それに表情があるのかなんてわからないし、僕がそう感じたのかはわからない。けれど、確かに空白がそういうのならば、きっとそれで大丈夫なんだろうな、と。また会えるんだろうな、と信じて疑うことはなかった。


「『ああ、もう時間だ。そろそろ行こうか』」


 空白は無を見つめながら、そう呟いていた。呟くようにしていた思念が僕の意識に入り込んで、僕自身がそう呟いていたことに後から気づいた。


 ああ、そうだ。もう時間なのだ。時間なのだから行かなければいけない。


 そんな気持ちで僕は、暗い世界を後にした。

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