了知
開いた戸から兄さんの顔が見えた時、何故だかまた泣きそうになってしまった。
俺が人を殺めている事を知ったらなんて思うんだろうか。命を奪って得た金で生きながらえている事をどう感じるんだろうか。何年も何年も前に押し殺したはずの感情がどっと湧き出て、忽ちその場にしゃがみ込んでしまう。
「ロージェ!」
兄さんが心配して駆け寄ってくる。
「ごめん、何でもないんだ」
「何でもない訳がないよ」
背中を摩ろうと伸ばされた手が俺の体に触れた時。
——僕はロージェに何をしてやれるんだろうか
"気持ち"が言葉となってが意識に入り込む。駄目だ。これ以上は駄目だ。何も出来なくなる。
「本当に何でもないんだ。少し疲れているだけだと思う」
「……そっか」
兄さんはそれ以上何も言わなかった。自分の口からも返せる言葉が出てこない。翌朝を迎えても上手に会話が出来ないまま、俺は街へ出た。
日中の仕事は身に入らなかった。昨日起きた出来事の一つ一つが頭の中に過り、自分に何が起きてしまったのかという不安が身体中を蝕んでいく。あの老人が死に際にかけた呪いが答えじゃないかとどうしても思ってしまう。だとしたら相当嫌な奴だ。差し違えもせず相手に苦しみを与えるなんて、そういう性分が自ら死を招いたんだぞと責任転嫁したくなるが、殺したのは俺だ。相手側からの報復も受け入れる覚悟で入ったこの世界なのに、命を奪った責任を手放そうとしている自分がいる。分かっていた筈なのに、今更そんな事を考えてしまうのはどうかしている。ぐるぐるぐるぐると脳内で独り言を重ねている内に、気付けば日が暮れそうになっていた。もう時間だ。とっとと論文書を奪わないといけない。
「ロージェくん、一度でいいから考えてくれないか?」
厄介なギルド長が話しかけてくる。
——きちんと話をしたい
まただ、また意識が伝わってきた。でも分かっていても放っておけない。
「……少しだけ、お話を伺います」
自分の感情に流されるまま返答をしてしまい、対話を許してしまった。
「前から伝えている通り、次期ギルド長の件なんだが……」
どういう事を言われるかは分かっていた。ただ、そこまで許してしまうと都合が悪くなる。いつもならすんなり断れるのにどうも断りきれない。
「どうだろうか。君にとっても悪い話ではないと思うが」
分かっている。何もなければ喜んで首を縦に振るだろう。だがそんな事は出来ない。いくら貰える金が増えるとはいえ、そんなのは微々たるものだ。時間と責任が増えて身動きが取れなくなるのは避けたい。
「申し訳ありませんが、その話はお断り……」
——断ってほしくない
「……考えておきます」
「そうかそうか、直ぐにとは言わないが、前向きに捉えてもらえたら助かるよ」
「はい、失礼します」
逃げる様にその場を後にする。その場凌ぎとはいえ、このままではまずい。でもそんな事を考えている時間もなかった。夜が更けるのを待ち、目的地へ向かう。
昨日の事もあり、学者ギルドの周辺は警備の目が厳しくなっていた。入念に侵入経路を構築し、慎重に足を進める。人という人の目を掻い潜り、ギナの部屋へなんとか入ることが出来た。が。
「嘘だろ……」
昨晩まで器具や文献で溢れていたこの場所は、もぬけの殻だった。机や棚など全て綺麗に片付けられ、床に染みた血の色だけが目立っている。やってしまった。論文書がどこに持っていかれたなんてもう知る術もない。警備兵や学者に扮して内部から探ることも考えたが、それで取り戻せる確証もなければ正体を知られた時の危険性の方がよっぽど高い。なにより今の状態で誰かに問い詰められた時に冷静でいられる自信もない。失意の中、この失態を報告しに行くしかなった。
「依頼不達成。報酬はなしだ」
「……あぁ、分かっている」
このまま呪いが続いていけば、こんな事の繰り返しになる。なんとかしないといけない。
「なぁ、別件で聞きたいことがある」
少しでもこの呪いを解く手掛かりが掴めれば。
「なんだ?」
「数日前に仕留めた老人の依頼人なんだが」
「……依頼人の情報は秘匿される決まりになっている。そんな事も忘れたのか」
「そう、だよな」
「本当にどうしてしまったんだ?」
「なんでもない。忘れてくれ」
たまらずその場を飛び出す。物事はこんなにも急に立ちいかなくなるのか。分かっていた事も分からなくなり、犯す筈がなかった失態を犯し続けている。このまま家に戻ったらまた泣いてしまうんだろう。それは嫌だ。そう思うと自然に身体は老人の居た家へ進み始めていた。そこで何かを見つけられる事を祈りながら。
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