【終】心の闇
「は……っ!」
Mはそこで目を覚ました。
彼女より少し早く目を覚ましていた夫Sは、慣れた調子で「おはよ、また嫌な夢でも見た?」と言う。
ベッドから起き上がり、洗面所に行くところだったようだ。
MはSの言葉で本格的に目を覚まし、ちょっとだけごまかすように答えた。
「あー……でもないんだけどね」
「
「ありがと……」
Mは20代半ばでSと結婚し、すぐに妊娠した。
初期はつわりがひどく、数日入院したこともあるが、今は安定期に入っていた。
SはMにコップの水を渡し、ゆっくり飲んでいるMの喉元を見つめながら、「悪夢って現状に満足している人ほどよく見るって聞いたことがあるけど……」と、いつものように言った。
Mは(またその話?)と思いつつ、自分を安心させるために言っているのだと察し、うんうんと意味もなくうなずいた。
「そういえば、どんな夢なの?」
「あー、思い出したくないっていうか、何かすぐ沈んじゃう、みたいな?」
「なるほどね」
Mは高校を卒業後、地元を離れて進学と就職をして、勤め先でSと知り合って結婚した。
だから高校以前のMのことは、Mが話した以上のことは知らない。
当然、K教諭のことなど知るよしもない。
Kを知らない人間になら、Kの例の発言も話せそうだが、そんな不愉快な話をするつもりはなかった。
それでいて「こんなひどいこと言われたんだよ!」という憤りを共有したいという気持ちもある。
SはMを大切にし、尊重してくれる人物だから、自分以上に怒り、傷つくかもしれない。
むしろ「頭おかしいんじゃないの?そのオッサン」と笑い飛ばしてほしいところだが、本当にそんな態度を取られたら、また別な感情が湧くかもしれない。
あれこれと考えた結果、「何も話さない」という結論に落ち着いたのだ。
***
過去に誰かに傷付けられたりした人間に、「幸せになることが何よりの復讐」などと諭す人がよくいる。
実際、MはKに復讐したいわけではない。
もし反撃をするとしても、Kの心の爪痕を残す暴言をはく程度のことしか許されないだろう。
もっといえば、それができたとしても、やはりKの発言は許せるものではない。
たとえごく普通に幸せになったとしても、Kの存在は、自分の人生という名の布地のどこかにしみをつけた人物として記憶に残ってしまう。ただ、
***
「妊娠でホルモンバランスとか崩れてるからかなあ?」
「そうかもね」
「不安なら、
「そこまでじゃないし。大丈夫だよ」
Mは妊娠が分かった後、たびたび赤ちゃんの出てくる夢を見た。
記憶の中のKの孫(娘か息子かは分からない)のこともあるが、全く知らない赤ん坊のこともある。
多分、幼い頃に見た自分や兄の乳児写真のイメージもあるだろう。
夢の中でMは、いつも赤ちゃんの頬に触れ……その先がぼんやりする。
攻撃するつもりなのか、単に触れたかっただけなのか。自分でも分からない。
MとSは、結婚後すぐの妊娠を喜んだし、立派に育てようと少しずつ話し合い、いろいろと計画も立てている。
自分たちでできる範囲でにはなるが、我が子を幸せにしようという覚悟はできているつもりだ。
それでいて、Kのあの根拠もなくくだらない「いじり」は、確実にMにとって軽い呪縛になっていた。
自分も何かの拍子に、子供をコインロッカーに押し込む人間になるのかもしれない。少なくとも、その可能性が全くゼロではないのかもしれない――と。
【了】
因果 夏野ロージー @yurinoki2024
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます