第17話 4
「しかし、なんでそんなこと考えたんだ? ただ掃除するだけでもいいんじゃないか」
残念ながら、部屋に箒はひとつしかない。
女子のカバンを勝手に触るのもなんだか憚られる。
おれはひとまず、鞄には触れずに棚を雑巾で乾拭きしはじめた。
それはそれとして、明久里がなぜ掃除という依頼の先まで考えているのか、今はそれが気になる。
明久里は夢中で砂や埃を外に吐き出し、お菓子のクズや雨の袋などはちりとりに乗せている。
「それは⋯⋯」
明久里は口を開き、手を止めた。
双眸は箒の毛先に向いている。
「昨日の夜読んでた漫画に、本当に人の為になることとは何かって話があったんですよ」
「元々人の役に立ちたいなんて微塵も思って無さそうだったのに、漫画に影響されたか」
「なにか引っかかります。その言い方」
怒気が僅かに含まれたような口振りをさせながら、俺に向けて目を見張る。
「いや、悪い方に捉えないで。むしろ感心してるんだよ」
「はぁ」
「だって明久里、最初は人の役に立ちたいとか一切考えてなかっただろ? ただ部長になりたくてアニメの影響を受けて何となく人助けみたいなの始めて」
「まあそうですけど」
視線を逸らすと、明久里はまた手を動かし始めた。
俺としては、本当に感心しているのだ。
漫画だろうとなんだろうと、良い方向に影響を受けるならそれは素晴らしいことだ。
もし変な影響を受け、眼帯と包帯を装備しながら「我が眷属よ。共にこの
「それを最初の依頼からそこまで考えてできるなら、明久里はもう立派な
「あ、ありがとうございます」
褒められて困惑したのか、明久里は頬を染めながら、手を早めていた。
褒めてやる気が出るのは良い事だと見守っていると、ズボンのポケットからバイブレーションが届く。
「嘘だろ⋯⋯」
嫌な予感がし、恐る恐るスマホを取り出すと、ロック画面に白い横長のバーか現れ、そこに警告を表す黄色い三角にビックリマークの絵文字と、「心拍が急激に上昇しています」という文字列が浮かび上がった。
「あああああ!?」
パニックになって声を荒らげてしまう。
明久里の心拍が上がった原因は明白。
ただ褒められて照れているだけだ。
だがそれにしても、いきなり危険水域まで上がるなんて急すぎる。
どれだけ褒められ慣れてないのだ。この中身も爆弾の少女は。
「どうかしたんですか?」
突然の俺の叫びに反応し、明久里がまた手を止めて首を傾げた。
たしかに今も顔は少し火照っている。
「いや、なんでもない。なあ明久里、ガム噛まないか」
「え? でも学校で噛むのは」
「いや、この学校授業中じゃなきゃお菓子もジュースも大丈夫だから。部活によってルールはあるけど。別にこの部活にお菓子禁止なんてルール作るつもりないだろ?」
「⋯⋯そうですね。その方がはじめさんの精神衛生上もよさそうなので」
そう言うと、明久里はスカートのポケットにいつも入れているガムを取り出し、包み紙を剥がして口に含んだ。
もう話している間にも、スマホの振動は止まっていたが、言っていたように、できる限り噛んでてもらうほうが俺の精神衛生上ありがたい。
「ではちゃちゃっとすませちゃいましょう」
「うん。そうだな」
それから時間はかからなかった。
俺は棚を拭き、明久里は床を掃いた。
部室はそれだけでもそれなりに綺麗になった。
この程度のことすらしていないとは、女子サッカー部の衛生観念が心配になる。
しかしそれでも、壁の汚れやコンクリートの床にこびりついた泥汚れなどはそのままで、カーテンも埃っぽい。
「ある程度綺麗にはなりましたけど」
「ああ、問題はこれだよなぁ」
俺は左足で床を何度も踏んだ。
本来は白か灰色に近い色をしていたであろうコンクリートがやはり汚い。
恐らくは、皆ここで靴を履き替えるので仕方がないのだろうが、これを綺麗にしないことにはただ軽く掃除しただけで終わりになってしまう。
「これはどうせ箒だけじゃどうにもなりませんから、明日でもブラシや紙ヤスリで擦りましょ⋯⋯」
言いかけたところで明久里は口を閉じ、顎に手を当てて思案し始めた。
なにかいい案でも見つかったのだろうか。
再び明久里が口を開くのを、俺は数十秒間無言で待った。
「いえ、今から始めましょう。はじめさん」
「
「⋯⋯」
俺の一言で、その場が凍った。
凍るという表現は、大袈裟だと思われるかもしれない。
だがしかし、本当にこの場所は今凍っているのだ。
明久里の絶対零度の眼差しが、俺を突き刺す。
見るのではない。彼女は凍えた双眸で俺を刺しているのだ。
氷よりも冷たく硬い刃が俺の身体を貫いている。
さらに凍っている証拠に、明久里の外面は瞼や睫毛すら微動だにしない。
先程まで吹き入っていた風も止んでいる。
もしかしたら、この部屋に風の分子が入室した瞬間、凍って運動が停止しているのかもしれない。
どうして明久里はここまで冷たくれるのだろうか。
軽いジョークくらい鼻で笑うなり、無視して作業したらいい。
それをただ無言で冷徹な目を向けるという、もっとも残酷で恐ろしい手法を取ったのは何故だろう。
俺は勝手に、明久里の体内にあるのは、人を一瞬で黒焦げの肉団子に変えてしまう爆弾だと思っていたが、もしかするとそれは先入観による勘違いで、本当に仕込まれたのは、範囲内を氷瀑や氷柱に変えてしまうような、氷爆弾なのかもしれない。
「⋯⋯」
無機質で冷たい目に捕われ、全身が凍ったように動かない。
口を開こうにも、縫いつけられたのか、凍っているのか、とにかく動かない。
漫画やアニメだと、目力だけで人を跪かせるキャラがいるが、明久里はそれに近いかもしれない。
ただまあ、スマホの振動がないので大して問題はないのだ。俺の心がすり減る以外。
「くだらない」
「ぐふっ」
ようやく口を開いたかと思えば、ただ一言、言葉が針となって俺の心臓を貫いた。
胸がキュッと締まる感覚がすること一瞬、俺の身体はまた活動を再開出来たのか、口が動いていた。
「なんでオヤジギャグひとつでそんな冷酷な目つきされなきゃいけないんだ⋯⋯」
「ごめんなさい⋯⋯あまりにもくだらなすぎてつい」
「そこまでか⋯⋯」
氷の床を踏み抜く⋯⋯わけはなく、明久里は固いコンクリートの上を歩き、箒とちりとりを元の場所に戻した。
「さっきははじめさんのくだらない塵芥みたいな冗談で言いそびれましたが、今からここの掃除もやりましょう」
俺がまたギャグを放つと思ったのか、はじめという言葉を回避した。
それにしても、塵芥だなんて酷い。
これが恵梨や部長なら⋯⋯きっと冷めた目で愛想笑いしてくれだろう。
「まあそれはいいんだけど。紙ヤスリなんてどこにあるか知らないし、ブラシだけじゃ土が固まっててどうにもならないぞ多分」
「いいんです。今日はそれで。私に考えがあります」
自信ありげに、明久里は胸を張った。
胸を張ると、その立派なふたつの山が強調される。
まあ、だからなんだという話だが。
「どうしたんですか。なんか鼻の穴広がってますけど」
「まじかっ」
慌てて俺は鼻の頭を擦った。
無意識に荒くなったであろう呼吸を鎮めるのに、その行為は意味があったのだろうか。
とりあえず、鼻の穴が広がることに関して、「明久里じゃあるまいし」なんてデリカシーゼロの発言をしなかっただけ、俺は紳士と言える。
「まあじゃあ、バケツと雑巾戻してくるついでにブラシも持ってくるから待っててくれ」
「お願いします。あ、ブラシってデッキブラシですよ。歯ブラシじゃないですからね」
「⋯⋯どちらかというとそういう天然ボケをしちゃうのは明久里だと思うんだけどなぁ」
何か腑に落ちないまま、バケツと雑巾を持って部室を出る。
まだ部活の時間はたっぷりと余っている。
明久里は下校時間になるまで少しでも掃除するつもりなのだろうか。
明久里が長時間の清掃で心拍を上げないか、それが心配だ。
バケツと雑巾を教室のロッカーに片付け、鍵をして職員室に鍵を戻す。
明久里ご所望のデッキブラシだが、たしか用務員や正門前の清掃係が使用する倉庫にあったはずだ。
「あの、掃除用具とか入ってる倉庫の鍵借ります」
「ああはい、わかりました」
俺はたまたま近くにいた名前も知らない先生に尋ね、白いテープの上に黒いマジックで『正門倉庫』と書いてある下にある鍵を取った。
その倉庫は、正門からやや西側の、自転車置き場の近くにあった。
人が10人くらいは入れそうな倉庫の鍵を開けると、埃っぽい中に3、4本のデッキブラシが立てられていた。
ごちゃごちゃとものが入った棚や箱を探せば、紙ヤスリなんかも出てきそうだが、足場の悪い倉庫の中で探し物をして万が一があると困るので、諦めて鍵を閉めた。
ツルツルとした木の柄に、緑の何か合成繊維か何かで作られたブラシを見ながら歩いていると、またくだらないことを考えた。
──歯ブラシ持っていったらどうなるだろう。
試してみたい。部室の入口横にデッキブラシを潜め、歯ブラシだけを見せたら明久里はどんな反応をするだろうか。
「⋯⋯っ」
まず浮かんだのは、先程の人を人とも思っていないような目だ。
真面目に活動しようとしてい明久里にふざけた真似をすれば、先程のとは比べ物にならない恐怖体験が待っているかもしれない。
「やめよ」
ほんの1分前に頭の中に浮上した案を、即座に握り潰した。
さながらそれは、上司が企んだ悪事を阻止する誠実な人間のように。
「ほら、ブラシ持ってきたぞ」
部室に戻ると、明久里は壁にもたれかかれながらしゃがみ、ガムを噛みながらスマホを見ていた。
その姿だけ見ると、無関係の部活の部室に、鍵が空いていたから勝手に上がり込んだ不良少女に見えなくもない。
ブラシをコツンと壁に立て掛けると、明久里が顔を上げた。
「ああ、よかったです。もし歯ブラシなんか持ってきたら動画にとってSNSにあげようかと。『恐怖! 男子高校生のくだらなすぎるギャグ!』みたいな感じで」
──よくやった俺。
心の中で自分を褒めながら、俺はさっそく明久里にブラシをひとつ手渡した。
だが渡してすぐ、明久里は目の前でブラシを寝かせると、またスマホに目を向け、立ち上がろうとしなかった。
「おい、どうしたんだ」
まさか俺の居ない数分の間に、やる気をなくしてしまったのではあるまい。
いったい何を見ているのか、そっと画面を覗いてみると、ただ普通にアプリで漫画を読んでいた。
「掃除するんじゃなかったのか」
「⋯⋯説明するので、とりあえずドアとカーテンを締めてください」
「⋯⋯わかった」
漫画を読んだまま言われ、俺は従ってドアとカーテンを締めた。
鍵こそかかっていないものの、半分密室状態と言える。
女子サッカー部の部室でふたりきりの男女、変な噂を立てられたら、弁明するのは難しいかもしれない。
「で、どういうことだ」
明久里の横に立つと、明久里はスマホをポケットにしまい、顔を上げた。
「とりあえず、はじめさん。今更ですけどこの依頼は明日も継続です。てことで家庭科部ではなくこちらに来てください」
「あ、そう⋯⋯まあいいけど」
どうせ俺に拒否権なんてないのだ。
家庭科部に顔を出したところで、明久里が迎えにでも来たら、部長に強制的に追い出されるに決まっている。
そもそも、顔を出した時点であの人なら怒るかもしれない。
「で、今日はもう疲れたからこのまま恵梨達が戻ってくるまでサボって働いたふりをするのか」
「⋯⋯はじめさんは私がそんな汚い人間にお見えですか」
見える。と言ったら、明久里はどんな反応をするだろうか。
「そういうわけじゃないけど、ただ釈然としないというか」
「それはつまり、数十分前のやる気はどこにいったんだ。ということですね」
「うん。そういうこと」
「ではご説明しましょう」
そう言ってから、明久里が話し始めるまでは、少しタイムラグがあった。
なぜなら、明久里はまたスマホを取り出し、先程途中まで読んでた漫画を、1話終わるまで読むのを再開したからだ。
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