第18話 5


「では今度こそ」


 数十秒後、再度スマホをポケットに入れた明久里は、スカートを払いながら立ち上がった。

 

「ようやくか。お前やっぱり不真面目だろ」


 俺の問いかけには答えず、明久里はブラシを手に取ると、部室内をグルグルと歩き始めた。


「まず、心配しないで欲しいのは、このブラシは今日使います。ただし、サッカー部の皆さんが戻ってくるであろう10分前くらいに。まあ、多分6時前後くらいでしょうか」


「はあ、それで⋯⋯」


「とりあえず今日私がしたいのは、この部室を綺麗にするための努力はしたと、サッカー部の皆さんに見せることなのです」 


「いまいち何考えてるか分からないぞ」


「⋯⋯はぁ」


 俺の理解力が乏しいせいか、明久里は失意のため息をつきながら、肩を落とした。

 

「いや、分からなくても仕方ないだろ。そんな失望しなくても⋯⋯」


「てっきりはじめさんも『ゆんひょう』の第5話を見てるものかと」


「そんな名前のアニメ知らないぞ」


「⋯⋯はぁ」


「なんなんだよもうっ!」


 繰り返される明久里の溜息に、俺のハートが傷つく。


「まあ知らないならそれでいいです。で、私がしたいことというのがですね」


 明久里の視線が俺の後ろ、ホワイトボードの方へ向けられる。

 そして書かれている文字か何かを少し目で追うと、また俺に目を向けた。       


「今日必死に掃除してもあまり成果が出なかった所を見せて、明日綺麗にした所を見せるということなんです」


「⋯⋯何となくわかったぞ」


「理解が早くて助かります」


 なぜ明久里はこんなにも俺に対して上からものを言うのか。頭の中に天上天下唯我独尊という単語が刻まれているのだろうか。


 要するに、明久里はサッカー部のメンバーに俺達が苦労する姿を見せたい。

 ろくに手入れされていない部室を必死になって掃除する姿を。

 そして明日以降、俺達が苦労して綺麗にした部室を見せて、掃除に対する意識を植え付けたいということなのだ。


「汚かった部室がこんなに綺麗に。これからはもっと綺麗に使って、こまめに自分達でも掃除しよう」


 というような言葉を部員から引き出すのが目的だ。

 

 果たしてそのやり方で効果が出るかはともかく、やろうとしていること自体は賛同する。 


「まあそれはいいとして、この泥汚れは明日1日で落とせるのか?」


 問題はそこだ。

 このコンクリート、どうやったらここまで汚れるのかと疑問に思うほど、茶色くなり、泥が固まっている。

 力自慢の男数人が必死にブラシで磨けば、2時間程で終わらせることも可能かもしれない。

 だが俺達ふたり、とくにハードワークができない明久里がいたのでは、達成出来そうにない。


「掃除の知識に詳しい人はともかく、何も知らない人に方法を知られるとあんまり意味が無いような気もするので、出来れば明日には終わらせたいですね」


「方法って何があるんだ?」


「簡単です。茶色いシミは酸性の洗剤を付けてブラシで擦り、泥汚れは紙ヤスリで擦るんです」


「⋯⋯なるほと?」


 そんな単純な方法で上手くいくのか、掃除の知識も科学の知識もない俺には分からないが、随分と自信がありそうなので、従うことにしよう。


「ただひとつ問題があります」


「え?」


 自信あり⋯⋯と思いきや、突然明久里は手で口元を抑え、顔を斜め下に向けた。


「洗剤を流すため水を使いたいのですが⋯⋯ここは2階なので水が下の陸上部男子の部室に水が漏れる可能性が」


「⋯⋯じゃあダメじゃねえか」


 きっと、今の俺は真顔になっているだろう。

 視野が若干狭まり、目を合わせようとしない明久里の顔が鮮明に映った。


 感心を返してほしいし、その問題点を分かっているならなぜ話したのだ。


「いえ、でもこれに関しては手があります」


 俺が凝視して向ける圧力に負けず、明久里は目だけを動かした。

 若干睨まれている気がするが、果たしてどうなのか。


「な、なんだよ手って」


 俺は明久里の圧に負けて、なぜか怯んだ敵キャラみたいな言い方になった。


「陸上部男子の誰かに事情を説明し、明日部室を空にしてもらいます。その代わり、陸上部男子の部室も清掃するという交換条件で」


「⋯⋯考えてるなら最初に言えよ」


「でも、行うとなれば土曜日か日曜日になるので、はじめさんが嫌がると思って言い出せなかったのです」


「どうせ俺は強制労働だろう⋯⋯」


 コクリと頷く明久里。ならなぜそんな無用な気遣いをした?


「でもあれだな、陸上部の部室まで掃除したら、他の部にも頼まれそうだな」


「別にいいんですよ。私は同じ依頼が同じ相手から2回来るのを止めたいだけです。硬式野球部と剣道部の部室じゃなければ喜んで掃除しますよ」


「なんかそのふたつへの偏見すごいな⋯⋯たしかに臭いとかすごそうだけれども!」


 アニメ知識なのか個人的な偏見なのか、まあ確かに野球部と剣道部は運動部の中でも特に臭う。

 道具がどうしても蒸れるから仕方がない。


 そういえば、小学校時代の友達に、剣道を始めたが、2ヶ月立たないうちに辞めた子がいた。

 辞めた理由を聞くと、剣道場で借りた防具が臭すぎて我慢できなかったらしい。  

 剣道に憧れた少年でも耐えられないのなら、外国育ちで剣道なんてしたこともないであろう明久里が回避しようとするのも、仕方がないのだろうか。


「まあそれはいいとして。はじめさん」


 明久里はブラシを持っていない方の手を上げた。

 手のひらは握りしめられ、顔の隣の高さにある。


「陸上部への交渉、どちらがするかジャンケンで決めましょう」


「っなんでだよ。明久里が行ってくれよ。部長じゃないか」


「甘いですねはじめさん。私は本来なら部長権限を行使して無条件で貴方に命令することもできるのですよ」


「そんな部長権限ねえよ」


「それなのに公平にジャンケンで決めようと提案する⋯⋯私の心の広さに感謝してほしいくらいです」


 なんという暴論。なんという傲慢。

 やはりこの爆弾少女は人の上に立っていい人材では無い。


 だが、明久里がジャンケンでいいと言ってるのだ。

 下手な事を言って期限を損ねると、これが100パーセント確定の強制になるかもしれない。

 今なら、半分の確率で回避出来る。ならやるしかない。 


「わかったよ。ジャンケンしたらいいんだな」


 俺は黄金の右腕を胸の高さまで上げた。


「じゃあいきますよ。じゃんけん⋯⋯ぽんっ」

 

「ぽんっ」


 お互いの差し出された手。

 俺が出したのは、何トンもする石だろうが、固く閉ざされた少年の心すらも優しく包み込む髪⋯⋯つまりはパーだ。

 

 たいして明久里が繰り出したのは、風で動くことも無く、何かを包むこともない。

 ただ長い年月をかけてお仲間や水に削られていくだけの存在。これに足を引っ掛けて転んだ人間は数しれず。そう、明久里は石⋯⋯つまりグーを出していた。


「おっしゃ」


「っ⋯⋯」


 悔しそうに唇を巻き込む明久里に、俺は勝利のパーを見せつける。

 そう。真の勝者は、何も出来ないグーでも、全てを断ち切るチョキでもない。

 全てを包み込むパーなのだ。


「じゃあそういうことで。よろしく頼む」


「⋯⋯」


 明久里は無言で自分の固く握りしめられた拳を見つめながら、その場に腰を下ろした。

 そして拳を握りしめたまま、ブラシを床に寝かせ、もう片方の手でスマホを取りだした。

 また漫画でも見るのか、気づくと両手でスマホを持っている。


 明久里が完全に読書モードになると、俺もすることが無い。

 ひとり真面目に床を擦ってみようとも思ったが、当てつけみたいで明久里の気分を害してしまう可能性がある。


 てことで俺も、明久里に習って冷たく硬いコンクリートの床にお尻をつけ、スマホを取りだしてネットサーフィンを開始した。


 事情を知らない人が今の俺達を見れば、女子サッカー部の部室にたむろする不良に見えるだろうか。

 その場合、明久里はただの問題児で済むが、俺は変質者として下手をしたら国家権力のお世話になるかもしれない。

 しかし不思議なもので、普段何も考えずにスマホを使っている時は、時間なんて溶けるように過ぎていくのに、こうして何時までの暇つぶし。と考えながら使うと、途端に時間の流れが遅くなる。


 ────


「さてと、そろそろ始めましょう」


 気がつくと、俺は全く興味が無かった、世界三代悪女のサイトを見ていた。

 最初は最近テレビで見かける芸人の情報を見ていたのに、どうしてこうなった。


 スマホに映る時間は5時45分、たしかに、カモフラージュのためにはそろそろ働いた方がいいだろう。

 明久里とほぼ同時にスマホをポケットに入れ、ブラシを持って立ち上がる。


「じゃあ、普通に擦ってればいいんだな」


「はい。綺麗にできるならできるに越したことはないので」


「⋯⋯じゃあ最初から真面目にしてたらよかったんじゃ⋯⋯」


「それだと労力が。やはりお助けアイテムがあった方が楽なので」


「まあそうか⋯⋯」


 とりあえず、手を動かす。

 ブラシで床を擦るなんて、トイレ掃除以外でしたことが無い。

 軽く擦るだけでも、ブラシから円状にふわりと砂埃が舞う。

 実際は立体なのだが、俺の目からは平面的に映り、どこか石を落とした水に怒る波紋に似ている。 

 砂埃は立つが、コンクリートに染み付いた汚れは落ちない。

 だが、表面から浮かんできた砂埃だけでも、それなりの量だ。 


「ほんと、よくこんな部屋で着替えられるな」


 砂埃を防ぐように、腕で鼻と口を覆いながら呟いた。


「体育会系は男女問わずこんな小さなこと気にしないんですよ。はじめさんみたいな運動音痴のインドア派じゃ分からないでしょうけど」


「なんで俺ディスられたん⋯⋯」


 明久里の爆弾がいつ飛んでくるのか、もはや俺には予測不能だ。

 しかもこの爆弾、人をそれなりに傷つけ、イラつかせる。


 もしもだ。もし明久里とあまり話したことの無い男子が、この女の見てくれに騙されて告白でもしたら、その後内面を知って傷つくかもしれない。


「いや、俺女の中身とか気にしないから。女は顔と体っしょ」


 みたいな典型的なチャラ男クズなら、そんな心配入らないが、純粋無垢な男子が騙されないように、明久里との会話は常に録音でもしておくべきだろうか。

 もし邪な気持ちを抱いて明久里に近づく男子が居たら、普段の言動を伝えて地雷を回避させてあげられるかもしれない。


「いや、大丈夫だよ。碧山さんは相手が君みたいな男だから毒を吐くだけで、俺なら平気さ」


 なんて自信家が来た時には、その時は明久里の方を説得して近づかせないようにしよう。


「なにぼーっとしてるんですか。働いてくださいよ」


「っ。ああごめん」 


 明久里の一声で意識が戻る。 


「何考えてたんですか。ハレンチなことですか」


「なんでそうなる⋯⋯まあ、保護者的なことだよ」


 意味が理解できないのか、明久里の顔が傾く。

 俺も自分が何を言っているのか分からないが、とりあえず誤魔化せたようだ。

 

「しかし⋯⋯軽く擦るだけでもこんなに⋯⋯」


「ああ⋯⋯凄い出たな⋯⋯砂」


 ブラシから、箒とちりとりに切り替えた明久里が、浮き出た砂埃をちりとりに掃くと、プラスチックのちりとりの上でジャラジャラと音を立てながら、結構な量の砂が溜まった。 


 明久里はひとまず、部室を出て2階からちりとりの中の砂を捨てた。

 まさかとは思うが、下に人はいないだろうか。


 念の為確認しにドアを超え、通路の柵に手をかけて下を覗くが、誰もいない。


 安堵の息を吐くと、明久里がまた首を古い機会のように動かしながらこちらを向いた。

 またしても目から若干のハイライトが失われ、深淵のようなくらい闇が見え隠れする。


「はじめさん⋯⋯失礼なこと考えてましたね」


「⋯⋯明久里、すまん」


「謝らなくていいんですよ。どうせはじめさんのことです。私を常識知らずの非常識人間と思ってるんですよね」


 ────うんその通りだ。


 返答を何とか心の中に留めると、校舎の影からソフト部の女子が来るのが見えた。

 きっともう部活終わりの時間だ。

 サッカー部のメンバーもすぐにやってくるだろう。


「まあいいです。じゃあはじめさん。後はサッカー部が帰ってくるまでひたすら擦りましょう」


「ああわかった」


 俺は明久里の後に部室に入った。




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