第16話 3
「ふたりとも暇そうだね」
「開口一番それか」
練習着姿でやってきた恵梨は、いきなり軽く毒を吐いた。
「で、依頼ってなんだ」
慌てて漫画を鞄の中に片付ける明久里を横目に、俺が変わりに用件を聞いた。
恵梨は手ぶらで教室に上がる。
外から直接来たからだろうか。上履きを履いておらず、黒色のサッカーパンツの下、膝上くらいまでの白いソックスが床と接していた。
明久里が教室の後方からひとつ椅子を持ってきて、自分の机の前に置いた。
「あ、ありがと。ごめんね」
「いえ。出来ればお茶とか出したいとも思ってるのですが、今はなくてすみません」
──お前は何を謝ってるんだ。
と心の中で明久里にツッコミながら、恵梨が席に着くのを確認した。
「えっと、恵梨さんですよね」
緊張しているのか、何度もスカートの皺を伸ばしながら、明久里は慎重に腰を下ろした。
今すぐにでもスマホを確認したいが、流石に依頼人の前でスマホを触るのは幅かられる。
幸い、スマホはズボンのポケットの中だ。
アラームが鳴ったらすぐに対応できるよう心掛けておこう。
「ではご用件をどうぞ」
まるで宅配の不在票がポストに入っていた時にかける、電話サービスのような抑揚で言った。
「部室の⋯⋯掃除をして欲しいんだ」
恵梨は俺をチラリと見ると、俯いて少し恥ずかしそうに言った。
「はぁ、掃除ですか」
「こんな依頼じゃ駄目⋯⋯かな?」
俯いたまま瞼を上げ、恵梨は明久里を見つめた。
俺は少し安心していた。
恵梨が恥じらっている様子だったので、もっと個人的な生々しいものを考えていた。
いや、考え方によっては女子運動部の部室の掃除というのも、随分と生々しいかもしれない。
さて、断ることは無いと思われるが、明久里は硬直して沈黙している。
なにか思うことでもあるのだろうか。
「それは全然構いませんが、もしかして年間契約でもするつもりですか? それならお断りさせてもらいたいのですが」
「年間契約?」
恵梨が首を傾げる。
明久里が何を言おうとしているのか、だいたい予想はついた。
何故か明久里は答えにくいのか、口を閉ざしているので、代わりに俺が口を開いた。
「まあ要するに、定期的に掃除を依頼するつもりなのかってことだな。例えば毎月最初の日にとか」
「ああ!」
今ので理解したのか、恵梨の顔が晴れる。
「そんなこと考えてないよ。たださっき僕と水樹がはじめ達の話してたらキャプテンに聞かれてね。せっかくだから何かしてもらおうってことになったんだ」
「なるほどな」
サッカー部の部長がどんな人か知らないが、随分とフットワークが軽い人なのは間違いない。
きっと、細かなボールタッチとサイドから素早いドリブルで切り込むのを得意とするタイプだろう。
「で、どうする明久里」
部員らしく部長に確認を取る。
明久里は俺を一見すると、恵梨にその目を向けた。
「分かりました。お引き受けします」
「ほんと? ありがとう碧山さん」
嬉しさから、恵梨の顔が綻ぶ。
「そうか。じゃあ頑張れよ明久里。良かったな。初日から仕事が出来て」
そっと明久里の肩に手を置き、激を送る。
すると明久里は、出来の悪い機械のように小刻みに静止しながら俺の方へ首を捻った。
明久里の目は、コンピューターで例えるなら、処理落ちして一旦電源が落ちた状態だ。目が漆黒で染まっている。
「何言ってるんですか。当然はじめさんも一緒に掃除するんですよ?」
目が怖い。いや、目だけでなく口も鼻も頬も髪も、全てが色は変わらないはずなのに、視覚情報を受け取った脳が危険信号を送っている。
「いや、女子の部室に俺が入れるわけないだろ。部員からブーイングされて最悪変な噂立てられるわ」
「部員だけに?」
「あ、俺上手い。っておい恵梨」
恵梨からの横槍につい反応してしまい、俺は自分の脳を守るように眼球をスライドさせて恵梨に向けた。
恵梨には今の明久里の恐ろしさが分からないのか、いつもと変わらずニコニコ笑っている。
「お前も嫌だと思うだろ? 男子が部室に入るなんて」
「んー。僕はじめなら別に構わないよ」
「それはお前だからだろ。ほかの部員はどう受け取ると思う」
「んー。水樹以外は嫌かもね」
「そうだろう。な、そういう事だ明久里」
明久里は1回1回がやけに遅い瞬きをしながら、桃色の唇をかすかに開いた。
「では部員の皆さんに聞きましょう。ひとりでも嫌がる方がいれば私ひとりで掃除します」
「おお、そうしてくれるか。でも今ほとんど口動いてなかったぞ。どっから声出してた?」
────
さて、恵梨を連れてグラウンドへ向かうと、早速サッカー部のメンバーを集めて恵梨が俺をどうするか話している。
そこに明久里も混ざっているが、見たところ一切口を開けていない。
スマホを確認すると、ギリギリアラームが鳴らない程度に心拍は留まっている。
数分後、明久里と恵梨が戻ってくるが、明久里は徒歩で恵梨は駆け足な分、タイムラグが生まれた。
「むしろ頼みたいって」
戻ってきた恵梨が言う。それはいったいどういう意味なのか。
「どゆこと?」
「なんかぁ、水樹と普通に話せる男子なら逆に信頼できるからいいって」
「⋯⋯なんだそれ。訳が分からん」
眉間に皺を寄せると、目が細くなり、恵梨の後ろのグラウンドから、階段を登ってくる明久里が鮮明に見えた。
「サッカー部変人しかいないのか」
「そんなわけないよ! まぁとにかく、鞄とかあさっちゃだめだからね」
「恵梨、お前は俺がそんな人間だと思ってたんだな。悲しいよ。そんなことするつもりは全く一切毛頭無かったが今沸き起こったよ。お前のノートと教科書に落書きする⋯⋯」
「残念。僕全部置き勉してるから」
「⋯⋯不良生徒め。予習復習はどうするんだ」
テヘッと舌を出して笑う恵梨に、俺は深いため息をついた。
「まあさっきのは何となく。ほら、こういうシチュエーションの定番? テンプレ?」
「うん。まあ分かった。じゃあ行ってくる」
そんな話をしていると、明久里がすぐ側までやって来た。
と思うと、明久里は俺達を素通りして先に部室に向かった。
明久里の手には、部室のと思われる鍵があった。
「じゃあよろしくね、はじめ」
「ああ」
反転し、明久里の元へと歩く。
すると明久里はこちらに振り返り、立ち止まった。
「とりあえずはじめさん。雑巾とバケツだけ何処かから持ってこれませんか。箒とちりとりはあるらしいので」
「あー。わかった」
バケツも雑巾も、教室にあるのを使えるはずだ。
だが目的外使用になりそうなので念の為、山本先生に確認することにしよう。
きっと先生は職員室にいるはずだ。
2階渡り廊下にある職員室に向かうと、ちょうど先生が職員室から出てきた。
「あ、先生」
「業平君、どうしたの? 今から様子見に行こうと思ってたんだけど」
先生はそう言った。
一瞬、熱心だと思ったが、直ぐにその考えは灰とかした。
「様子って、明久里に口止めでもするつもりですか」
「えっ」
案の定、先生の顔に動揺の色が現れる。
「やめといた方がいいですよ。明久里は稀代の悪女かもしれません。それと今教室にいませんよ」
「そうなの? それにしても業平君、悪女ってそんな⋯⋯」
「先生はあれが天然だと思ってるかもしれませんけど、全部計算ですよ」
自業自得とはいえ、生徒の前で秘密が明かされそうになった先生に教えると、先生は目を丸くした。
「う、嘘でしょ」
「本当ですよ。明久里はそういう人間なんです。なので先生、今日貰った分返してから全部チャラにしようと言っても無駄ですよ。その場合あいつは勝負を挑んできますよ。皆の前で」
「⋯⋯私、ちょっと寒気してきたから保健室に行くね」
先生は体を震わせながら、肩を抱き、俺の横を通り過ぎようとした。
「あ、それはいいんですけど待ってください」
「あ、先生の心配は無いんだね」
俺の隣を過ぎたところで、やつれた顔をしながら振り返った。
恐れすぎだと言いたいが、実際あの爆弾娘ならなにをするか分からないので、安易なことは言えない。
「まあそれは自業自得ですし。それよりも」
「そ、それよりも⋯⋯」
先生が声を翻しながら、繰り返す。
「実は早速女子サッカー部から依頼が来たので、教室のバケツと雑巾使っていいですか」
「あーうん。使ったら片付けてね。あと鍵閉まってるから、職員室から持っていってね」
「ありがとうございます」
「じゃあ、先生行くから」
先生は逃げるように小走りで廊下を進み、階段を降りていった。
身から出た錆とはいえ、少し同情した。
職員室で鍵を受け取り、教室に入る。
教室の1番後ろ、窓の隣の銀色の背が高い古くなったロッカーを開けると、モップや箒がまず目に入り、その下にバケツと、バケツの縁に掛けられた雑巾があった。
雑巾とバケツは、普段の掃除では使わない。
使うのは学期末の大掃除くらいで、こ窓を拭く時にも、この学校では贅沢に窓のクリーナーとワイパーを使用する。
雑巾を掛けたまま、バケツを持ち上げ教室を出る。
後で戻しに来るので、鍵は閉めずにポケットに入れた。
東側校舎の間にある部室棟に向かい、階段を上がって2階の外廊下を少し歩くと、横書きでサッカー部と書かれた白い板が、扉の真横の壁に立てかけられていた。
一応、扉をノックすると、中から「どうぞ」と言う明久里の声が聞こえた。
開けると、明久里はなにやら腕を組んで考え事をしていた。
部室の中は、存外汚かった。
てつきり、他に用件はないが、なんとなく利用してみよう的な感じで依頼したと思いきや、普通に汚い。
まず部室の奥には窓があるが、当然女子の部屋であるため、内側の黒いカーテンが常に光を遮断し、窓ガラスが空気を留めているのだろう。
コンクリートの床には、スパイクや練習着な付着していた泥や汚れがそのまま落ちてきたのか、元々は白かったであろう素材が黄土色に染まり、所々黒ずみのような部分もある。
部屋の右側の壁から、この扉の手前までにはL字の木製の棚が設置され、床のすぐ上から3段の板に、部員達の鞄が並べられている。
恐らく、鞄は下から学年順に並んでいる。
まあ、そんなことはどうでもよく、問題は棚も随分と埃っぽい事だ。
例えば、鞄に上手く入らず、滑り落ちた制服がこの板や床に落ちると、すぐに汚れてしまうだろう。
それだけでなく、砂埃が密室で舞うのは、衛生上良くない。
部屋の左側の壁には、予定やフォーメーションなんかが書かれるであろうホワイトボードがあり、その斜め下には、腰の高さくらいまである金属製の網かごがあり、その中には磨かれた形跡はあるものの、どうしても汚れが残ってしまったサッカーボールが半分ほどの高さまで入っている。
ざっくりと全体を見たところ、変わったところは無い。
棚の余った部分にはきちんと畳まれたビブスが色別に重ねられ、そこまで不精という印象は受けない。
ただただ、外から入ってくる汚れに無頓着なだけだろう。
掃除してもキリがないし、諦めていのかもしれない。
そんな薄汚れた部室真ん中で、明久里は腕を組んだままあちこちを見回している。
「どうしたんだ、そんなずっと部屋のこと睨んでて」
俺が聞くと、明久里は腕を下ろしてこちらを見た。
「いえ、睨んでいたのではなく、考え事をしていたのです」
「考え事?」
「はい。どれくらい綺麗にして、どうやったらサッカー部の皆さんに掃除の意識を植え付けられるかを」
神妙な面持ちで語る。
どうやら、明久里はただ掃除するだけでは不満らしい。
「つまり⋯⋯どういうこと?」
「この部室をどれくらい綺麗にしたら、部員の皆さんもそれを維持したいと思ってくれるかどうかってことです」
「なるほど。あ、それが魚の釣り方を教えるだけでなく、一緒に釣ったり調理したりするってことか」
「はい。その通りです」
明久里は大きく頷いた。
どうやら、邪な気持ちで作った部活だが、本人なりに色々と考えて活動するつもりらしい。
「掃除自体は引き受けたので私達だけで行いますが、このあとすぐまた薄汚れた部室に戻っては意味がありません」
「つまり魚を調理して、自分でもやってみたいと思わせたいってことか」
「理解が早くて助かります」
「じゃあ、手っ取り早く綺麗にするのがいいんじゃないか。俺達のできる範囲で。それからどうしたら意識付けられるか、それは手を動かしながら考えよう」
「そうですね」
明久里は、部屋の隅に立てかけられた箒と、壁に釘を打ち付け、そこに引っ掛けられたちりとりを手に取った。
「ではひとまず、外に履き出せるものは出してしまいましょう」
俺は部屋奥のカーテンと窓を開け、空気を入れ替えた。
夕方の風が、ほんのりと部屋を循環する。
ただ部屋を綺麗にするだけでは、またすぐ汚れ、俺達に同じ依頼が来るだろう。
明久里が昨日話していたこの部の理念では、別に問題も無さそうだが、それでは明久里は物足りないらしい。
意識を植え付けたいと言っていたが、それがあらぬ方向に向かないように祈る。
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