第13話 4
帰ってすぐ、明久里は制服も脱がずにソファの上に倒れるように寝転がり、静かに寝息を立て始めた。
長い髪が散乱する顔は白く、寝顔は苦しがってるのか、それとも気絶しているように寝ているだけなのか分からない容貌で少なくとも楽しい夢はみていないだろう。
「そりゃ疲れるわな」
授業中はほとんど寝ていたが、それだけでは疲れはほとんどとれていないだろう。
俺も何度か机に突っ伏して眠ることがあるが、あれで体力が回復したと感じたことは無い。
暖かな春の陽気ではあるが、念の為明久里の体に薄い毛布をかけ、俺は夕食の支度を開始した。
あらかたの用意は終わり、あとはご飯が炊けるのを待つだけとなっても、起きる気配は一向にない。
BGM代わりに付けたテレビからは、芸能人が笑う声が聞こえているが、どうやらそれらも、フライパンで肉や野菜を焼く音も、水気が弾ける音も、明久里の脳は全てシャットアウトしている。
風呂を洗い、ご飯がいつの間にか炊き終わっていたが、それでもまだ起きる様子は無い。
起こしてやろうかと考えなくもないが、死んだように眠る明久里の、閉じられた瞼を見ていると、罪悪感が湧く。
呼吸と同期するように、長く細い飴細工のようなまつ毛が微動し、大きく体も伸縮する。
元々容姿の良い明久里が起きないと、まるでどこかの童話の姫様のように、このまま王子のキスが発動するまで目覚めないのではなんて、そんな想像も掻き立てられる。
まあしかし、起きないなら起きないで助かる。
どうやら今は心拍も安定しているし、起きている時ほど爆発の心配は無い。
正直なところ、俺がひとりで料理を作っている最中、何を考えているのか分からない表情で漠然とテレビを見ている明久里より、今の方が俺の精神衛生上百倍いい。
レバーが安かったので、今日はレバニラ炒めを作った。
一応、レバーは苦手な人が多いので明久里にも聞いたが、そもそも食べた記憶が無いと言うので、試してみることにした。
だが生憎彼女は夢の中だ。
ダイニングで一人で食べる夕食は、まだ数日以来なのに、随分と懐かしく思える。
カチャカチャと音を奏でる食器音もひとり分だ。
目の前には明久里用に取り分けたレバニラ炒めが、ラップの下でタレの艶によって、虚しく照り輝いている。
自分で食べた分を洗い、水切りカゴに置く。
ポタポタと滴る雫が、このふたり居ながらも、ひとりであると錯覚してしまう空間に、更なる哀愁を漂わせた。
中々目を覚まさない明久里を、部屋に連れていこうかとも思った。
部屋というのは、今明久里が使っている両親の寝室のことだ。
だが寝室で目を覚ました明久里が、許可なく睡眠中に身体を触られたと知り、その事で感情が爆発したらどうしようかと考えると、実行に移せない。
俺は明久里に触れないよう距離を取りながら、ソファに座ってスマホを持った。
ほんの少し手を伸ばせば、明久里の艶やかな髪にも、絹のように滑らかな肌にも手が届く。
だが、触れてみたいとは微塵も思わなかった。
その理由は自分でもよく分からない。
俺はふと、ずっとソファのそばに置いてあった鞄を膝の上に乗せた。
鞄を開けると、中から随分と数が減ってしまったクッキーの袋が現れる。
帰りの道中、電車内以外ではずっとクッキーを食べていた明久里は、自分のが無くなると俺の分をねだった。
「さあはじめさん。クッキーを私に。部長命令です」
それは、電車を降りて駅に着いた時だった。
改札を通ってすぐ、明久里に言われ足を止めた。
「それは職権乱用だぞ。今時は部活動であっても上司としての発言には気をつけろ」
「はぁ、それは昨今日本や諸外国で問題になっているパワハラ問題でしょうか」
「ああそうだ。部下の私物をおねだりする。これは立派なパワハラであり、なんなら脅迫にも当たる可能性がある」
そんな話をしながら、俺達はスーパーに向かって歩き出した。
いつもと変わらない夕暮れの駅前。人で溢れ、商業施設の音で溢れた街。
何も変わったことは無いが、それが新鮮に思えたのは、QOS部という意味不明な部に強制的に入部させられた俺の心が、僅かにでも荒んでいたからかもしれない。
「では普通にひとりの人間としてお願いします。クッキーください」
俺の横に並ぼうと、早足で明久里はローファーの音を響かせた。
「いや、要するに渡さないってことだからな? 上司友人関係なく。これは俺の分だ。先に食べるから悪いんだ。アーユーオッケー?」
そう釘を刺すと、明久里は足を止めた。
もうすぐスーパーへ続く信号が青に変わるのに、足止めをくらった。
「いいんですか。なら私悲しみますよ。涙が出ない程度に」
「それが一体なんだ⋯⋯おいっ」
明久里は自分の武器を知っていた。
俺にだけ通用する秘密兵器を。
さらにそれは、場合によっては自傷。いや、自分を犠牲にするかもしれない技だ。
そう、人は悲しむ時にも心拍が上がる。
今すぐスマホの画面を確認したかったが、今見ると明久里に怪しまれる。
マナーモードに設定したスマホからバイブレーションがズボンのポケットに面した太ももを伝って、俺の脳内へ直接響く。
「わかった! やるから落ち着け」
俺はまだ一口も食べずに置いてあった袋を差し出した。
「ありがとうございます」
明久里は、症状を受け取るように両手を下から掬うように上げ、袋を受け取った。
そして袋を開けると、さっそくひとつ口に放り込んだ。
いつも通り表情は読みづらいが、鼻の穴は膨らんでいる。ご満悦のようだ。
「お前は悪魔か」
「いえ、人間ですよ。むしろ私は悪魔の被害者です」
「じゃあ俺は悪魔の被害者である悪魔の被害者だな」
背中側で信号が変わったのか、丁字路に入る車達がどんどん左右に曲がっていく。
俺は落胆する他なかった。
クッキーを略奪されたことがそれほど惜しいわけではない。
ただこの先、明久里といる限り俺はこいつに逆らえないのだと、目の前が真っ暗になる気がした。
────
明久里が目を覚ましたのは、俺が風呂に入っている最中だったらしい。
風呂上がり、パジャマに着替え、まだ湿っている髪の上にバスタオルを乗せたままリビングへ行くと、明久里はダイニングで俺の用意した夕食を食べていた。
明久里に掛けていた毛布はカーペットの上にくしゃくしゃになって落ち、その上に白い靴下が重ねられている。
机の下で静止する明久里の足下を見ると、素足になっていた。
「起きてすぐよく食べられるな」
おかずと米を口いっぱいに頬張る明久里に、俺は賛辞の言葉を送った。
「ほおでふか? ねはらお腹が減るでほう」
言葉すらまともに言えなくなるほど、口に食べ物を含み、あろう事か話し終えてから飲み込んだ。
「いや、喋る前に飲み込めよ」
「すみません。ついうっかり」
一々明久里の些細な行動に注目していては、こちらの身が持たない。
俺は風呂上がりにとリビングのテーブルに置いてあったクッキーの袋に目を配った。
袋に動かされた形跡はなく、中身もどうやら減っていない。
「あの残ったクッキーは俺が貰うからな」
食べた後に文句を言われても嫌なので、先に言っておく。
「ええ、もともとそれははじめさんのですから」
「⋯⋯じゃあ人を脅迫してまで奪うんじゃない!」
今しがた感情を顕にしないよう心がけたのに、つい声を荒らげてしまった。
だが明久里は、俺の悲憤など目にも入らないのだろう。
レバニラをごっそりと箸でつかむと、大きく口を開けて食した。
ソファに座り、頭の湿気を軽く拭き取ってから、バスタオルを隣へ置いた。
そしてクッキーに手を伸ばして、ようやくひとつ口に含むと、えもいわれぬ幸福感が、俺の全身を駆け巡った。
クッキー自体は、なんの変哲もないオーソドックスなものだ。味も素朴だし、時間が経ったせいもあってかやや硬い。
それでも、疲弊しきった俺の精神を癒すに、その甘味は十分すぎるほど効力を発揮した。
だが、その幸福に長く浸っている暇は無い。
夕食を食べ終えた明久里がこっちに来れば、先程とは気が変わってまた俺に要求するかもしれない。
なら自室で食べようかとも思ったが、露骨に明久里から逃避して不信感を抱かせるのもよくない。
俺は歯がゆさと無力感を覚えながら、残ったなけなしのクッキーを一気に口へ放り込み、ザクザクと噛み砕いた。
明久里の方を見ないようにしているので、被害妄想なのか、はたまた真実なのかは分からないが、異様な念が俺の洗ったばかりの皮膚をチクチクと刺すのはどうしてだろうか。
その後明久里は食器を洗うと、風呂場へ向かった。
料理はできない明久里だが、食器を洗うくらいは出来るらしい。
俺はてっきり、皿を洗わせたりするものなら、その皿は全て粉々になっても文句は言えないものと思っていた。
「あいつ⋯⋯」
カーペットの上で、こんもりと小さな山のようになった毛布の上に明久里が脱ぎ捨てた靴下がそのまま残っている。
本来であれば、戻ってきた明久里に回収させ、洗濯カゴに入れさせなければならない。
俺が持っていくことは、今更だしもはやどうでもいい事だが、甘やかしにしかならない。
だがきっと、今日の明久里は風呂から上がるとそのまま寝室に直行するだろう。
となると、この脱ぎ捨てた靴下はこのまま毛布の上で発酵熟成され、明日にはその匂いが毛布に染み付いている恐れがある。
「しかたない」
俺はまず、片方の靴下のゴム部分を人差し指と親指でつまみ、それをもう片方の上に重ね、両方のゴム部分を同時に摘んだ。
洗濯カゴは脱衣場にある。
脱衣場には洗面台と洗濯機もあり、つまりは今風呂に入っている明久里と扉ひとつの場所まで行かなければならない。
だがそれ自体はなんの問題もないだろう。
だからひとりで暮らしていた時と同じように、なんの気兼ねなく脱衣場のドアを開けた。
「えっ」
「えっ⋯⋯」
なんという邂逅だろうか。
ドアを開けた先には、裸のまま洗面台の下に付属されてある物入れを開けている明久里が居た。
いや、居たというより、すぐ俺の眼前にいる。
幸い、洗面台に体が向いているおかげで、俺には斜め上から横の姿しか見えない。
健康的で引き締まった右半身に、濡れて纏まった髪によって秘部を隠された大きなふたつの山。
「どうしたんですか?」
明久里は俺に顔を向け、いつもの顔色で伺ったが、一抹ではあるが声に震えが現れている。
「あ、いやぁ⋯⋯靴下忘れてたからカゴの中に⋯⋯そういう明久里はなにしてるんだ」
「ボディーソープが無くなっていたので。新しいのは無いかなと」
「ああ、あるよ。詰め替えタイプ」
さっさと目を逸らし、この場から立ち去ればいいのに、男としての俺の本能がそれを許さない。
俺の思春期まっしぐらの双眸が、明久里の肉体を捉えて離さない。
だがずっとこんなことをしているわけにもいかない。
現に、明久里の顔は徐々に薄紅に染まりながら、あのタイマーの音が鳴り始めた。
────逃げろ。逃げろはじめ。逃げなければお前は死んでしまう。ふたつの意味で。
なんて心の中の俺が叫ぶが、恍惚と恐怖て足が竦んだ。
「じゃ、じゃあ、次からは気をつけろよ」
「は、はい⋯⋯」
俺は何故かこの場で明久里に注意し、靴下を洗濯カゴに放り投げた。
その瞬間、俺の視線はゆでダコのようになっていた明久里から、無風の空中でうねりながら放物線を描く靴下に奪われた。
──今だはじめ! 全力で走れ。
心の中の俺に背中を押され、左足の踵に力を込めた。
かの剣豪、宮本武蔵は言った。
素早く動くなら、つま先ではなく踵を踏むべしと。
「明久里⋯⋯すまんっ!」
踵で勢いよく床を踏み込み、反転して玄関まで走る。
そのまま偶然鍵を書き忘れていた玄関を出て、俺は夜の街を遁走した。
会社から自宅へ帰るサラリーマン、塾帰りの学生に空手か柔道の練習から帰る子供達、彼らの横を通り、はたまた追い抜きながら、俺は去年測った50メートル走以来の全力疾走を、最寄り駅まで続けていた。
心地よい風を切る音、走り出した時から俺の聴覚を覆うその中に、微かに生活音が含まれた。
そして幸運なことに、なにかが爆発するような大きな轟音はその中には含まれなかった。
足を止めると、風を切る音は刹那に失われ、代わりにホームへ突入した電車の音が聞こえた。
電車の音で冷静を取り戻すと、足元がひんやりと冷たく、若干の痛みを伴った。
「何してるんだ俺」
パジャマ姿に素足、落ち着いて確認してみた自分の姿は、どう見ても外に出る格好ではなかった。
俺へ向けられる不可解な視線、その理由に気づいた時、俺はまた家に向かって全力疾走を始めていた。
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