第12話 3

 恵梨はゴールの裏に置いてあった、水色のボトルを手に取り、口で蓋を上に引っ張って傾けると、勢いよく手で押して中身を飲んだ。 


 勢い余って口から溢れた液体を腕で拭い、こちらへやってきた。

 

「どうしたのはじめ。水樹に何か用?」


 恵梨は健康的な汗を頬から滴らせている。

 その水滴は頬から首をつたわり、市販の紺色の練習着の中へ吸い込まれていく。

 まだ練習は休憩時間にならないようだが、誰も恵梨を気にする部員はいない。

 唯一紅浦が立ち止まって両手を腰に当てながら、こちらに注目しているが、恵梨にではなくて俺にだろう。


「なんで前提が紅浦なんだよ」


「んー、だってはじめ。僕か水樹くらいしか知り合い居ないでしょ?」


 この、自分を僕と呼ぶ響きも随分と久しい。

 

「それはそうだが⋯⋯あれ、そういえば、水曜は部活休みって昨日紅浦から聞いたぞ」


「ああ、本当なら休みなんだ。今日は自主練なんだ。だから先生もいないし」


 またボトルの中身を飲みながら言う。

 言われてみると、先生らしき人は居ないし、グラウンドをよく見ると、人数も随分少ない。

 女子サッカー部は40人近く居たはずだが、今グラウンドに立っているのは、目視したところ15人前後といったところか。


「自主練習かぁ。随分熱心だな」


「まあ普段はこんな事しないんだけどね。今度の練習試合の相手が相手だから」


「へぇ」


 恵梨の言葉に頷きながら、視線を野球部の方へ向ける。

 ちょうど今、野球部の誰かに明久里がクッキーを手渡し、お辞儀して逃げるように階段を上がった。

 念の為スマホを確認してみると、当然心拍は多少上がっている。


「で、どうして僕達のこと見てたの?」


「ああそうだ」


 用を忘れるところだった。

 俺は市販の輪ゴムで縛られたビニール袋を恵梨に差し出した。


「これ家庭科部で作って部長がみんなに配ろうって。サッカー部のメンバーで食べてくれ」


「わあ、やったぁありがとう」


 嬉々として空いた方の手で袋を持ち、中身を観察している。


「これはじめも作ったの?」


「ああ、といっても簡単なやつだぞ」


「うれしいよ。ありがと」

  

「ああ⋯⋯」


 久しぶりに恵梨と話すと、なんだか恥ずかしくなってきて、頬を掻いた。


「じゃあ俺は行くから」


 明久里もこっちへ向かっているので、切り上げるにはちょうどいい。

 恵梨に明久里を説明するのも、今は面倒だ。

 と思っていると、恵梨の視線が明久里へ向いた。


「うん。あ、あの子って転校生の子ではじめの親戚なんだよね」


「え、あ、ああうん⋯⋯紅浦が話したのか?」


「そうだよー。色々変なこと言ってたけどそれは嘘だよね?」


「⋯⋯恵梨が嘘だと思うなら嘘だ」


 特に恥ずかしがることも無く、スラスラと言葉を発しているが、紅浦が言ったというのはきっとろくでもないことに違いない。


「まあ水樹はそういうところあるからねー」


 あははと陽気に笑う恵梨に引っ張られるように、俺の頬が緩んだ。

 しばらく話していなかったが、相変わらず恵梨と話していると、雰囲気に釣られてしまう。


「じゃあまたな」


「うん。今度また家遊びに行ってもいい?」


「⋯⋯いいぞ。家で見た事を秘密にできるならな」


「えっ!?」


 一瞬目を丸くし口をすぼめた恵梨が、鋭く目を細め、汚物を見るように俺を睨み蔑みながら、両腕で胸を隠した。

 

「なにするつもり⋯⋯」


「お前紅浦に影響されてないか⋯⋯」


「はじめがあんな事してるの想像したらされちゃうよ⋯⋯」


「あんなことって⋯⋯そうか、お前も見たのかあれ」


 俺の顔から、血の気が失せていくのがわかる。

 サッカー部の面々に見られたことは分かっていたが、恵梨には見られたくなかった。


「うん⋯⋯って、どうしてはじめが知ってるの?」


「昨日明久里⋯⋯あいつの部活見学についていって読んだからな」


「ああ⋯⋯そうなんだ」


「ていうか、読むのはいいけど想像はするなよ」


 胸を隠していた手を下ろすと、恵梨は憐れむように俺を慈悲深い目で見つめた。 

 聖母とでも菩薩とでも例えればよいのか。

 とにかく、俺の心が軽くなるような、救われるような、そんな気がした。


 さて、ソフト部にクッキーを渡すなら、もう明久里は俺のところまで来ているはずだ。

 だが俺に話しかけることも、俺の後ろを通り過ぎることもない。

 当然、ソフト部の近くにも居ない。


 もしやと野球部の方へ目を向けると、階段からこちら側に少し歩いたところで立ち止まっている。

 

 大方、何も話しかけずに通り過ぎるのも、話しかけるのも嫌で困っているのだ。


 まるで家に他人がお邪魔している時の猫である。

 逃げる機会を失い、ただ飼い主とその知人のやり取りを見るしかない猫同然だ。


「今度こそ行くから。とりあえず紅浦の妄想は頭から抹消してくれ」


「うん。それはむり。クッキーありがとね。おーいみんな、家庭科部の差入れだよー」


 恵梨が軽快に階段を下ると、サッカー部の面々が続々と集まってくる。

 恵梨が離れたからか、明久里の歩みが再開している。

 だが俺は、先に家庭科部に向かって踵を返した。


 家庭科部に戻って数分後、戻ってきた明久里が恨めしそうな顔で俺を見入ったことは言うまでもない。


「さっき話していた人は誰ですか」


「えっ、ただの昔からの友達」


「そうですか」


 てっきりひとりで配らせたことについて小言を言われると思いきや、その事については何も言わなかった。


 だがやはり、ひとりなのは心細くて苦痛だったのか、今確認すると心拍が高い。

 明久里に心拍を観察していることを知られるのは、俺の精神衛生上よくない。


「ほら落ち着けよ明久里、あとで部長がクッキーくれるから」


「⋯⋯そういうことじゃないんです」


 掻き消えるようなか細い声でそう呟いたように聞こえたが、その真意は分からない。

 だが不満は解消されないようだが、クッキーには心が踊っているのか、鼻の穴がヒクヒクしている。


「じゃあ次焼けたから、富山君と片岡さん、文化部の方にもっていってくれる?」


 俺と明久里がお互いを伺いあっている間にも、部長と安藤さんがさらに焼けたクッキーを取りだし袋詰めしている。


 それを受け取った富山君と片岡さんが教室を出るのを確認し、今度は俺がまだ残っている生地をクッキングシートの上に並べた。


「部長、全部の部に配るつもりですか?」


 オーブンの時間設定をしている部長に尋ねる。


「ううん。大体だよ。テニス部なんかは人数多いから配れないしね。それに文化部ももう終わるのもあるだろうから、とりあえず今から焼く分配ったらあとは皆で分けよう」


 部長がオーブンのスイッチを入れるのを確認し、乗せ終えたオーブン皿を渡す。


「だってさ、良かったな明久里」


 明久里に向かって笑うと、彼女も軽く笑みをこぼした。

 夕焼けに染まる窓の外を見ながら、クッキーが焼けるまでの時間をダラダラと過ごす。


 その間、明久里は部長に付きっきりで話をしているが、心拍は落ち着いている。

 少し周りを見てみると、安藤さんは隙間時間を縫って勉強している。さすが受験生と言ったところか。

 あまり成績は良くないらしいが。


 しばらくして富山君が戻ってきて、明日発売の別の週間漫画雑誌について語った。


「あれ結局ヒロイン誰だと思う?」


「ああいうのは第1話のラストで出てきた女がヒロインって相場で決まってるんだよ。つまり富山君の好きな夏美は負けヒロインの可能性が高い」


「⋯⋯俺は信じないから」


「心の底では分かってるんじゃないのか。夏美は敗北者だって」


「やめろっ! やめてくれ。俺はまだ諦めない!」


「現実を受け入れるんだ富山君。作者は慌てて夏美に別の男とのフラグを立て始めたじゃないか」


「ああぁぁぁ⋯⋯」


 頭を抱えて蹲る富山君をからかうことに愉悦を感じていると、片岡さんも戻っていた。


「じゃあ今度は私達が持っていくから、最後の焼いといてね」


  部長はまた焼きあがったクッキーの袋両手で持つと、安藤さんと一緒に家庭科室を出ていった。

 残された俺達で最後の生地を焼き、また富山君と会話を再開した。


「でもさぁ、夏美は1番人気なんだよ?」


「いや、人気投票3位だったよ」


「あれはどう考えても組織票だよ。コンビニで1000円以上買い物したら貰えるクリアファイルだって、いちばん最初に無くなったし。コラボカフェのメニューだっていちばん最初に売り切れてた」


「うわ、行ったんだコラボカフェ」


「うん⋯⋯もう二度と行かないけどね」


 暗かった富山君の顔が、嫌な過去を思い出したのかさらに陰る。


「とにかく、実態では人気1位なんだ」


 富山君はカッと見開いた目で俺を捉えた。 


「うん。まあだとしても考えてみなよ。今まで読者人気1位のキャラが都合良く主人公とくっついた作品、いくつ思いつく?」


 元気を取り戻した富山君をまた地獄に引き摺り戻してしまったのか、その瞼はおもむろに閉じ始め、頬は急激に老けたかのようにたるんだ。


「な? 思いつかないでしょ?」


 歯がゆそうに両手を台の上で握りしめながら、富山君はがっくりと項垂れた。


「もう読むの辞める⋯⋯」


「⋯⋯全部俺の勝手な考えでしかないから、実際どう転ぶかはわからないよ?」



 ────



「じゃあみんな、また金曜日ね」


 全て焼き終わり、最後は皆で均等に分けた。

 俺の手元だけでも10枚以上クッキーがあり、明久里のと合わせると30近い。

 安藤さん片岡さんそして富山君は分けると直ぐに帰っていった。

 富山君の背中から哀愁が漂っていたのは気のせいだろうか。


「いいんですか部長、俺達でこんなに貰って」


 扉の南京錠を施錠する部長が振り向く。


「もちろんだよ。えっと、くぉ⋯⋯す? 部として碧山さんも働いてくれたし、これはそのお礼も兼ねて」


「ありがとうございます」


 明久里が俺の隣でペコリとお辞儀する。

 既に何個か食べたのか、手の中の袋は開いていた。


「ところで、業平君はどっちの活動をゆうせんするのかな」


「そうですね。とりあえずは両方⋯⋯」


 部長からの質問に答えていると、隣から黒く鈍重なオーラがひしひしと伝わってくる。

 それを感じ取ったのか、部長は目を閉じて苦笑いしている。


 振り向いた先の明久里の目は鋭く炯々とし、俺の本音を見透かしているようだった。 

 新しく作った部活なのに、火曜と木曜日以外ひとりになるのが嫌なのはわかるが、部長の前なのだから少しは慎んでもらいたい。


「えーっと。じゃあ業平君は来れる時だけ来てくれたらいいから。碧山さんのこと優先してあげて」


 部長の言葉は本心だろう。

 消して明久里の気迫に押されたわけではない。

 なぜか明久里を気に入っている部長だ。明久里が来ないなら俺は来なくていいと思っているかもしれない。突然俺の双眸から汗が滲み出る。


「くっ、」


「どうしたの業平君? もちろんふたりで遊びに来てくれてもいいからね碧山さん」


 僅かばかり俺を心配すると、その興味はすぐ明久里に向いた。

 分かっている。部長にとっては正当な動機で入部した俺も、邪な気持ちで入部した富山君も評価は変わらないと。


「はい。ではその時はお言葉に甘えて」


 声が僅かばかり弾んでいた明久里の鼻は、案の定ひくついている。


「じゃあねふたりとも」


 部長と校門を抜けたところで別れる。

 少し歩いて振り返ると、部長はまだ俺達、いや明久里に向けて手を振っていた。


「どうして部長に気に入られたと思う?」


 貰ったクッキーを食べながら隣を進む明久里に投げかける。


「さあ、おおよそ見た目とのギャップがある性格と慣れたら子犬みたいになるところでしょうか。あと単純に見た目とか」


「大正解」


 なぜ部長が考えていることをほとんど把握済みなのか。

 明久里の人間観察力が計り知れない。


「でもその割に、明久里の方から歩み寄ろうとはしないよな」


 紅浦と仲良くなりたいがため緊張して爆発しそうになった明久里だが、部長に対してそんな様子は今のところない。


「部長みたいなタイプは苦手か?」


 俺を横目で一瞥すると、明久里はさらにクッキーを口に入れ、咀嚼した。

 俯いた状態で噛み続け、十数秒ほどしてからようやく飲み込んだ。


「決してそんなことは。ただ紅浦さんの時のようになってはいけないので、黒崎さんにはあまり感情を出さないようにしてるんです」


「なるほどな」


 どうやら、明久里は自分なりに体のことを考え、感情をセーブしているらしい。

 たしかに、もしもの事があれば死ぬのは自分だ。


 だが感情を我慢させているのでは、俺がいる意味も、あの心拍測定アプリがある意味もない。

 俺は後頭部を掻き、大きく鼻息を吐いた。


「少なくとも⋯⋯俺がいる時はあまり気にしなくていい。運動とかの動作は我慢しても、心まで制限する必要は無い。危なくなったら俺がまた手を引くから」


 少しキザったらしい発言だっただろうか。

 言ってすぐ羞恥心が込上げる。


 明久里も聞いていて恥ずかしかったのか、耳が赤くなっていた。



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る