第5話 3
俺と明久里は、特に会話も無いまま駅に向かって歩き出した。
夕暮れの街には子供達や帰路に着く大人達で溢れていて、特に駅前は帰ってきた人達がそれなりにいる。
この学校がある場所は、繁華街ではなく、どちらかと言うと学校や住宅地、集合住宅が多いベッドタウンだ。
駅前はファストフード店や居酒屋、その他書店やスイーツ、服屋など揃っているが、この駅に止まるのは急行までで、特急は止まらない。
正方形のコンクリートタイルの駅構内に入り、階段を少し昇って改札口と切符売り場に到着する。
ここは高架駅なので、ホームへはさらに上へのぼる必要がある。
「切符、ひとりで買えるよな?」
定期を持っていない明久里に聞く。
今朝は切符の購入方法を教えるために、俺が買ったのだ。
「あたり前ですよ。みくびらないでください」
明久里は自信ありげに自動券売機の前に立ったが、財布を持っていないことに気づき、俺に目配せをした。
これは俺も悪い。すぐさま駆け寄って、明久里に硬化を手渡した。
「──駅ですよね」
「ああ」
「はい。買えました」
高校生だから当然かもしれないが、世間知らずにしか見えない帰国子女が滑らかな手つきで切符を購入できたことに、一種の感動を覚えた。
それはまるで、保育園に行くのを嫌がっていた子供が、平気な顔で行ってきますと言えた時のような。
改札を抜け、いつものように駅のホームへの階段をあがるつもりが、明久里が居るのでエスカレーターを利用した。
俺達の降りる駅は、急行なら1駅で10もかからない。
掲示板に目を向けると、あと2、3分程度で、急行がやってくる。
この時間、この駅は降りる人は多いが、電車に乗る人は少ない。
この駅を利用するのは、近くの住民と聖信高校の生徒が大部分を占める。
今の時間、住民が電車に乗ることはほとんどないし、学校の生徒も、帰宅部や部活が休みの人はもうほとんど帰り、運動部が帰るにはまだ早い時間なので、俺達が乗る上り線のホームには自然と人が少なくなる。
なのに、今朝の通勤ラッシュを明久里は経験し、その時は何も無かったのに、今突然胸のタイマーが成り始めていた。
──駅で爆発なんかしたら、こいつは一躍テロリストになるんだろうな。同期不明のまま。
いや、冷静にそんなことを考えている状況では無い。
「お、おい。大丈夫か⋯⋯」
電車はすぐにやってくるが、こうなってはやむを得ない。
一旦どこかへ連れて行こうと手を伸ばますと、明久里はスカートのポケットから何かを取りだした。
それは銀紙に包まれた、小さなガムか飴のようだった。
紙を開いて、小さな長方形で上下に膨らみのある爽やかな緑色のものを口に含んで、咀嚼し始めた。
「⋯⋯ガム?」
「はい」
口に放り込んだ物を噛みながら明久里は平静を保ちながら応えた。
すると、心臓のタイマー音は小さくなり、数秒後には完全に消えた。
困惑していると、明久里はまたポケットに手を入れ、小さな銀の包みに入ったガムをいくつか取り出した。
「泰人さんに言われました。ガムを噛むと多少心拍は上がりますが、ある程度のところで安定し、危険水域に達することは防げるかもしれないと。だから向こうにいた時は殆ど常に噛んでたのですが、日本に来てからすっかり忘れていて」
ガムを噛めば心拍が安定するという話は、俺も聞いたことがある。
アスリートがよくガムを噛むのは、そのためでもあるそうだ。
そういうことがあるなら、父も漏らさず伝えて欲しい。
学校の中では噛めなくても、これならリスクは多少軽減される。
それにしても、噛むことを意識しすぎているせいか、咀嚼に集中する明久里の態度が凄く悪く見える。
口は大きく上下し、心做しか顔も険しくなっている。
顎を引きながら横目で俺を見上げる姿も、不良がガンを飛ばしているように受け取れた。
「まあそれはいいとして、どうして急に速くなったんだ?」
電車がもう時期ホームへ侵入するとアナウンスが流れる。
明久里は俯いて黙っていた。
「まあ言いたくないならいいよ」
「⋯⋯はじめさんの」
「ん?」
明久里は線路を見るように俯きながら、口を小さく開いた。
「今朝のはじめさんの必死な顔が面白くて、また笑いを堪えられるか不安で緊張してつい⋯⋯」
そう言いきった時には、明久里は握った左手を口元に添えて微笑していた。
明久里の顔とは反対に、俺の顔からは感情がすっと抜け落ちた。
それは今朝のこと、朝の通勤ラッシュに潜む痴漢、人混みからの圧迫、手すりを持てなかった時によろけないよう足腰に力を入れて耐える苦痛。たかが10分足らずの時間の中でそれらから明久里を守るため、俺は明久里を扉の真ん前に立たせ、両腕でドアに手をつきながら保護した。
決して疚しい気持ちがあった訳では無い。
当然俺も男だ、微かに存在していたとしても、それ自体は俺の表情や心理に大した影響を及ぼさない。
ただ純粋に、明久里が大量殺人犯にならぬよう祈る乗車時間が辛く、息が荒くなって嫌な汗をかいていただけだ。
その時の顔が面白かったのだろう。
明久里は1度俺を見ると、再度思い出したかのように笑った。
それにしても、言わなくていいと言った途端に話したことから、彼女の性格が垣間見える。
「なら明日から明久里は自転車通学な。登下校中はガム噛みながら頑張れ」
「ごめんなさい。もう笑いませんからそれだけは」
「どんだけ嫌なんだよ」
「体育は絶対に休めよ」
「はい。泰人さんが書いてくれた診断書の写真がありますから。現物は多分荷物と一緒に届きます」
そんな会話をしていると、俺達が待つホームに電車がやってきた。
中はそれほど人がいない。
これはどちらかと言えば、都市部へ向かう電車だけあって、この時間の人は少ない。
まばらだが席も空いていて、俺達は並んで座ることが出来た。
「そういえば、家に来た時荷物とかろくに持って無かったよな」
何故か制服姿で俺の家に現れた明久里が持っていたのは、携帯と財布やパスポートだけだった。
だから家では俺の母親の服を着ているし、日用品も足りないものは急いで買い揃えた。
今明久里が膝の上に乗せている鞄も、学校指定のものでは無く、たまたま家にあった黒い肩掛け鞄だ。
「向こうで飛行機に乗る時、空港まで泰人さんの友人に車で送ってもらったのですが、キャリーケースを車の中に忘れて。私がそれに気づいたのは搭乗直前だったんです」
「ああ⋯⋯なるほど。よく財布と携帯は持ってたなって言いたいけど、それ以上になんでそっちの国にいる時からこの学校の制服着てたんだ?」
「泰人さんが学校に頼んで国際便で取り寄せたんです。試験もオンラインで受けて合格してたので。着てたのは、泰人さんの趣味です。はじめさんを驚かせるために」
発車した電車の、心地よい子気味な揺れに体を委ねながら、顎を引いて床を見つめながら話す明久里を見る。
上向きに跳ねた長いまつ毛と、輝くような双眸が、明久里にミステリアスな雰囲気を生み出している。
だが中身は今の所俗物だ。
「父さんのことだ。変なアニメに影響されたな」
父の趣味はアニメや漫画鑑賞だった。
今も父の書斎には、集めていた漫画本やアニメのDVDなどが大量に陳列されている。
「はい。私もよく一緒に見ていました」
「⋯⋯そっか」
明久里が笑顔で放った何気ない一言が、俺の心を乾かしたのは何故だろう。
それを深く考えようとすると、俺は父を嫌いになってしまう予感がした。
「そのおかげで私もアニメに興味を持って⋯⋯その⋯⋯」
「ん? どうした」
突然明久里は大腿四頭筋の間に両手を挟み、力んだ。
言い難いことでもあるのか、ガムのおかげであの音はしないが、顔は少し火照っている。
「泰人さんの書斎にあるアニメ⋯⋯一緒に鑑賞しませんか」
すっとこちらに向いた顔は、人が勇気を出した時の、紅潮しながら瞼や唇が震える、あの状態になっていた。
「い、いいけど。どうした急に」
「あ、いえ⋯⋯」
明久里は猫が水を切るように頭を振り、また電車の床に目を向けた。
「はじめさんはあんまりアニメ好きじゃないって聞いてたので、断られたらどうしようかと」
「うーん、まあ父さんほどじゃないけど。俺だってちょくちょく見るよ」
「それは⋯⋯よかったです」
そう言って綻んだ横顔は、車窓から降り注ぐ夕陽の影響もあってか、とても神秘的に、華麗に見えた。
それから駅までの残り数分を、電車の揺れる音が包んだ。
電車を降りて俺達の最寄り駅についた。
下りの電車に乗っている人が多かったからか、駅近くはもう飲みに行く話をしているサラリーマンや学生や高校生がゾロゾロと歩いている。
駅から東に向かうのが帰路なのだが、帰る前に寄るところがある。
「俺あそこのスーパーで買い物して行くけど、先帰る?」
明久里にそう言って南側を指さした。
駅のロータリーを抜け、大きな国道をひとつ挟んだ先に、地元のスーパーがある。
小さくだが、ガラス張りの店内がぼんやりと確認できる。
駐車場の車は少ない。
今の時間、もう世の中の主婦は買い物を終えているのが多い。
駅から歩けば5分もかからないし、スーパーから家へも10分程度で着く。
「いえ、全部任せては申し訳ないので私もお供します」
てっきり明久里はあっさり帰ると言い出すと思っていたので、心の中でツッコむ用意をしていたが、拍子抜けした。
だが行くと言っているのだから、当然着いてきてもらう。
俺より僅かに早く、明久里が進みだした。
「わかった。じゃあ今晩食べたいものがあったら言ってくれ」
明久里は上を向きながら、うーんと唸った。
「豚か牛の肉が食べたいです」
「じゃあ家にキャベツあるし、回鍋肉でも作るか」
「ほ、ほいこ⋯⋯ほいこーろー?」
「あ⋯⋯知らないんだな。まあいいか。どうせ本場のものとは違うし。美味しいから安心していいよ」
むしろ「なんで皮付きの肉と葉ニンニクがないんですか」とか言われるよりいい。
駅から北上し、信号を渡ってスーパーに入ると、夕方のおかげか食材が安くなっていた。
カゴを持って、今夜食べる豚肉と市販の回鍋肉の元を入れる。
無くなりかけていたマヨネーズを取りに行くと、いつの間にか明久里の姿が見えなくなっていた。
「どこ行ったんだ」
ここで慌てて店内を歩き回っても仕方がない。
明久里の大体の性格から、どこへ向かうか考えた。
その結果、俺の足はあの場所に向かっていた。
案の定、その場所に明久里はいた。
保育園帰りか何かの子供達に混ざって、しゃがみこんで駄菓子を眺めている。
「子供か⋯⋯」
明久里の後ろに立ってボヤくように言うと、明久里は肩をビクッと震わせて体を捻った。
「高校生はまだ子供です」
「そういうことじゃ⋯⋯まあいい。何か欲しいのあるんだったら買っていいぞ」
海外暮らしが長かった明久里には駄菓子が珍しいのだろう。
別に「お菓子なんて買いませんから!」なんて世間のお母さんのような事を言うつもりは無い。
明久里はまた陳列棚に顔を向けると、手の届く範囲のものを片っ端から手に取った。
満足したのか、立ち上がって振り向いた時には、明久里は両手でお菓子を抱き抱えるようになっていた。
それを何も言わず、ドサッという音を鳴らしながらカゴに放り込んだ。
中の豚肉と回鍋肉の素が駄菓子の中に埋まってしまった。
「まあ別にいいんだけどさ⋯⋯」
「はじめさんの分もあるんです」
「あぁ、ありがとう」
レジに行くついでに、明久里用のガムをカゴに入れた。
「すみません。結局全部持たせて」
「まあ、袋1枚だからな」
外に出て信号を待っていると、明久里が申し訳なさそうに言った。
俺は握った袋を掲げて見せる。
袋は有料なのだ。1枚で足りるのにふたりで持つために2枚買うなんてもったいない。
日が落ちる夕暮れ時、いつもはひとりで歩いていた道だが、となりに人がいるだけで少し満たされる。
「どうしましたはじめさん」
無意識のうちに横顔を見つめていたせいで、明久里が不思議に思って首を傾げた。
「いや、なんでもない」
考えていたことを正直に伝えるのは、照れくさく何だか納得がいかない。
この日、夕食の調理を手伝ってくれと言っただけで爆発しそうになったのを受けて、俺は考えを改直した。
「どんだけ嫌やねん!」
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