18 あなたの手のひら


「僕は大人になりたい!」


 フィルの絶叫が聞こえたあと、腕の中に抱え込んでいたフィルが膨張したような気がした。

 ミノンはすでに意識が朦朧としていて、ついに腕の感覚がおかしくなってしまったのだと思ったけれど、おかしくなったのは視覚のほうも、らしい。


(誰……?)


 ミノンを庇うようにして、目の前に新たな闖入者が現れた。


 床にまで届いて流れる長い髪だけを見れば女性のようだが、背は仰ぎ見るほどに高く、ミノンが床に座り込んだ状態であることを加味しても、とても高身長だ。肩幅も広く、体格で考えると男性。


「なんだ、貴様、どこからっ」


 見知らぬ誰かの背中越しに、あのおっさんのダミ声が聞こえる。

 完全に同意だ。このひと、いったいどこからやって来たんだろう。


 問いには答えず、長髪の男は右足を動かす。

 コンと軽い音がして、ミノンがそちらに目をやったときには杖が宙を舞い、長い手を伸ばしてそれを掴んでいた。

 かと思えば、次の瞬間には右手が動く。掴み取った体勢のまま杖を勢いよく振り下ろす。


「ひいいぃぃ」


 ひしゃげたカエル声が聞こえると、男は長い髪をものともせず、滑るようにして前へ踏み出す。

 どどどっと重い足音が聞こえたあと、腰を抜かしたか、どしんと音を立てて、床に尻をつけた公爵の姿が見えた。


「や、やめ、やめろっ。貴様、この俺をだ、誰だと思って。アルマルティア帝国の五公爵がひとつ、デフローダ家の当主だぞ。こんな真似をして、た、たたた、ただで済むと、思っておるのかっ」

「その公爵たる者が無抵抗の者に暴力をふるい、怪我を負わせたのだ。見過ごせるわけがないだろう。恥を知れ。己がやったことを、その身で直接感じるがいい」

「そこまでだ!」


 振り上げた杖が下ろされる寸前、またも別の声が割って入る。

 今度の声はミノンにとって耳馴染みのあるもので、その名がくちからこぼれた。


「ヨアヒムさん……」

「ご無事ですか、フィルさま、ミノン嬢」


 ヨアヒムの顔が一度ミノンを見たあと、見知らぬ長髪の男へ鋭いまなざしを向ける。だが、だんだんと訝しげな表情となり、驚きに目を見開いていく。


「――え、まさか、フィルさま、です、か?」

「ヨアヒム」

「ええええ、嘘でしょう。いや、なにがどうしてそんなお姿に!?」

「わからない。だが、ミノンを守るためには子どものままでは駄目だと強く思った」


 そうしたら、こうなった、ようだ。

 確認するように左右の手を広げ、ヨアヒムに開示している。


「そうだ。ミノン! 無事かっ!?」


 男が大きな声をあげたとき、わかったようなわからないような顔をしていたヨアヒムは、その男の肩を掴んで止めると、重々しく言った。


「フィルさまと仮定しましょう。ミノン嬢はおそらく無事ですが、その姿を確認するまえに、まずあなたがご自身の姿をなんとかするほうが先ですね」

「僕の姿だと?」


 うなずいてヨアヒムは告げる。


「まず服を着ましょう、フィルさま。話はそれからです」



     ◇



 ヨアヒムは単身ではなかった。

 似たような騎士服をまとった数人がやってきて、すっかり腰が抜けたベージルを二人がかりで抱え上げ、引きずるように連行していく。御者の男はいつのまにか姿を消していて、ミノンがそれを指摘するとヨアヒムが大きく息を吐いた。


 厳密にはあの男は敵ではないらしい。

 デフローダ公爵の依頼を受けながらも、ヨアヒムらとも繋がっている、いってみれば二重スパイのような存在。

 敵ではないが、完全な味方とも言い難い風来坊。「だからって逃げやがって、あのクソ野郎」とののしったヨアヒムは、残っていた騎士に指示を出して下がらせる。


 そして部屋には自分たちだけが残された。

 続いてヨアヒムがフィル――であるらしい男を一旦外へ連れていく。

 長い髪の毛に覆われていて後ろからは判然としなかったけれど、やはりあの人物は裸だったらしい。杖を蹴り上げた右足が素足だったので、もしかしたら、とは思っていたけれど。つくづく背後にいてよかったと思った。


 男ふたりが去ったあと、ミノンも立ち上がる。多少、頭がふらつくけれど、歩けないほどではない。猛烈に痛いのは背中だけだ。

 あのガマガエル、思いっきり蹴った。許すまじ。


 床には、ぐしゃぐしゃに丸まっている刺繍入りのストールがある。

 それを拾い上げて確認したところ、破れてはいないらしい。ベージル自身に付着していた白い粉末が移ってはいるが、それだけである。


 ヨアヒムの袋に仕込まれていた粉末はなんだったのだろう。さすがに毒物ではないとは思うが、ミノンが毒を無効化してしまうことを知っている彼なら、「なら平気でしょ?」とか軽く考えている可能性もあるわけで。

 どちらにしたって、そのままというわけにはいかないだろう。


(勿体ないけど、洗濯したところで、フィルにはもう渡したくないなあ。縁起が悪いもの)


 始末はあとで考えるとして、もう一度折りたたんで机の上へ置いたとき、コンコンとノックが響く。


「ミノン、僕だ。入ってもいいだろうか」

「は、はいっ」


 ゆっくりとノブが回り、やがて長身の男が現れる。

 ヨアヒムに借りたらしい服を着ているが、床を引きずるまでに長かった金色の髪は、まだそのまま。垂れ下がる前髪を邪魔そうに指で払うと、髪の隙間から覗く空色の瞳がミノンを見た。


「幽霊さん……」

「僕は生きてるぞ」

「あ、そうか。あれは幽霊ではなく生霊という結論になったんでしたっけ。っていうか、今は実体がある……?」


 ダメだ。混乱している。

 何度も出会った幽霊氏。

 フィルの未来の姿が可視化した生霊だと推測されて以降、出会わなくなってしまったひと。

 その人物が実体を伴って顕現している。


 ふっと意識が遠のきそうになって体がふらついた。立ち眩みを起こしたような感覚になり、その場にしゃがみこむ。


「ミノン!!」


 慌てたようすで男が近づいてくる。

 重量を伴った足音と振動が、床を通じてミノンに伝わってくる。


 ついに近くにやってきた元幽霊、もとい生霊氏。

 今は透けていないし、声にもなんだか厚みがある。


「大丈夫か? やはり痛むのだろう、無理はいけない」

「はあ、まあ、痛みはありますが、血はもう止まったので大丈夫かと」

「そうだ。ベージルめ、ミノンに怪我をさせるなど。やはり同じ目に遭わせてやればよかったんだ」

「物騒ですよフィル――、あの、フィル、で、いいんですよ、ね……?」


 おそるおそる訊ねると、男は眉根を下げてうなずく。


「僕は僕をフィリップだと思っているし、ヨアヒムとも確認をした。僕が僕でなければ知りえないことを話して、ヨアヒムも僕が僕であると判断してくれた」

「そう、ですか」

「ミノンは信じられないのか?」

「どうでしょう。あなたがわたしの知っている、夜に出会ってお話をしたあのひとと同じ姿をしていることは、わかります」


 痛む手を持ち上げて、生身なまみとなったらしい男に触れてみる。

 長く伸びた金髪は艶やかで手触りがいい。太くも細くもない腕にも触れられるし感触もある。


「さわれ、ます、ね」

「僕もさわりたい。ミノンに触れてもいいだろうか」

「べつにかまいませんが」


 応じると、目を見開いたフィルが、ためらいながらもこちらに手を伸ばす。大きな手が頭の上に置かれ、ゆっくりと動かされた。

 なんだろう。すこし恥ずかしい。頭を撫でてもらうなんて、子どものころ以来かもしれない。


「ずっとこうしてみたかったんだ」

「どういう意味ですか?」

「ミノンはよく、こんなふうにして僕の頭を撫でていただろう? 嬉しいような恥ずかしいような、そんな気持ちがいつもしていて。だから僕も、ミノンに同じような気持ちを返してみたかったんだ」

「さようで……」


 小さな子どものフィルにしていた行動を、こうして自分より頭の位置が高い大人のフィルに言われると、なにやら猛烈に恥ずかしい気になってしまうのは何故だろう。

 本当の年齢を知らされたあとでも、目の前には子どものフィルがいて、およそ実感というものが湧かなかった。

 けれど、いざこうして、成長した――本来こうであったはずの姿で傍にいられると、居心地が悪くなる。なんて身勝手な感情だろう。


 ぼくはおとこだ!

 ええ、そうですねえ。

 なんて笑っていなしていた、すこし前のわたし。めちゃくちゃ反省しなさい!


 もぞもぞ考えていると、フィルの手が頭から滑り落ちてきて、頬に到着する。



「フィ、フィル?」

「うん……」


 いや、うん、じゃなくってね?

 ほっぺたを触られることなんて、孤児院ではよくあることだった。自分より年下の子どもたちが、「みーちゃん」と言いながらぺたぺた触ってきて、こちらも同じようにぺたぺた触って、くっつけあったりしていた。


(あれと同じなのに、なんでこんなに恥ずかしいの!?)


 フィルの手はミノンの頬を覆うほど大きくて、顔全体を包まれているような錯覚に陥る。

 親指の腹が頬を柔らかく撫でさすり、それを何度となく繰り返す。

 気持ちがふわふわしてくる。

 ぼんやりとした思考の中、フィルのくちびるが動いた。


「ミノン……」


 かつて同じことがあった。

 霊体のフィルが、まるでミノンに覆いかぶさるように近寄ってきて、熱いまなざしで見つめてきて、はじめてミノンの名前を囁いた。

 あのとき、ミノンは自分が『幽霊』という、この世には存在しない誰かに気持ちを寄せてしまったことに気づいたのだ。


 すでに命が尽きた者だと思っていた人物は、今こうして、息をして、肉体を伴って、目の前にいて、まったく同じような体勢でミノンを見ている。

 異なっているのは、こうして触れ合う感触があることと、吐息がくちにかかること。


 ひゅっと息を飲みこむほどに動転。

 え、ちょ、待って、待って待って待って待っ――。


「ミノン!?」


 頭がまわって、目の前が暗くなった。

 フィルの慌てた声を聞きながら、ミノンはやっぱりあのときと同じことを考えた。


 至近距離で見る美青年のご尊顔、破壊力が凄すぎる。



     ◇



 遅まきながらのご馳走は、中途半端なものになってしまった。

 フィルが「ミノンは座っていないと駄目だ」と言い張り、ヨアヒムにもまた「あまり動かないほうがよろしいかと」と苦言を呈された。

 医師の診察を受け、こめかみの傷は縫うようなものでもないと診断され、軟膏を処方してくれた。

 大袈裟に包帯が巻かれているが、痛み止めも貰ったし、背中の打撲も骨に達するようなものではなかった。


 総合すると、命に別状はない、ということ。

 フィルのほうがよほど問題があるとミノンは思う。

 なにしろ、一瞬にして体が成長を遂げたのである。一体どんなちからが働いたのか。本人もよくわかっておらず、謎は深まるばかりである。


 だが、これはある意味、本当のお祝いだろう。

 還俗だと言ってはいたけれど、フィルは本当に『子ども』ではなくなり、立派な成人男性に変貌を遂げたのだ。


「……お祝いしたかったのに」

「ミノンの体が回復してからでも、遅くないだろう」

「そうですよ、ミノン嬢。俺の拙い料理で申し訳ありませんが、ご賞味ください」


 といっても、下準備をしてくださっているので、半分以上はあなたの料理ですがね。

 ヨアヒムが笑いながら、魚のソテーにナイフを入れる。仕込んであったリゾットにはチーズをたっぷりと散らし、フィルの好みに合わせて黒胡椒を振りかけた。猫舌のフィルはそれを脇に置き、素揚げした野菜スティックを食べている。

 普段よりちょっとだけ品数が増えた程度の食事を終えたあと、ミノンはあらためてヨアヒムの話を聞くことにした。


「まずはフィルさまには謝ります」

「なにについての謝罪だ。アレが家に現れたのは、ヨアヒムの責任ではないぞ。僕の結界がうまく作動していなかっただけだ」

「それも含めての謝罪ですね。結界に穴ができた理由は、フィルさまは察しているかもしれませんが、ミノン嬢の能力です」

「は!? ちょっと待ってください、なんですかそれは」


 結界とはなんぞや。

 というのもさることながら、それを壊したのが自分と言われて青くなる。だって、つまりそれは、フィルがあのガマ公爵に襲撃されることになったのは、ミノンのせいということになるではないか。


「ミノン嬢の解毒能力が、悪しきものを消すことに通じるとわかっていて放置しました。ある御方のご指示です」

「それはエルンじいさまのことか」

「エルンストさまも関係者ではありますが、それらの采配をなさっていたのは、あなたのお兄さまですよ」

「兄……?」

「そうです。第一皇子フェルナン殿下が、デフローダ公爵をその地位から引きずり落とすため、泳がせていました。俺は、その命を受けて動いていたんです」





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