17 僕は大人になりたい
今日は楽しい一日になるはずだった。
いままでで一番といってもいいほどの、楽しいお祝いの日。
それなのに、どうしてこんなことになってしまったんだろう。
痛みに耐えるくぐもったミノンの声を聞きながら、フィルの胸は張り裂けそうになっていた。
◇
聖魔法は神からの祝福だという。
けれど、過ぎたちからは不幸を呼ぶと、齢五つにしてフィルは思い知った。
素晴らしい、さすが次なる皇帝となるべき御方だ。
聖魔法の判定の儀において、宰相は感涙とともにそう言って、集まっていた五公爵もそれぞれの息を漏らした。
そこに含まれていたのが歓喜なのか落胆なのか、畏敬なのか畏怖なのか。五歳のフィルにはわからない。わかったのはただひとつ、自分はなにかとてつもなく恐ろしいことに巻き込まれたのだということだ。
乳離れをしたあとは乳母は遠ざけられてしまい、フィルの周囲には屈強な男たちばかりが配置されるようになっていた。
大切な御身のためでございますよ。
身の回りを世話してくれる侍従の男性が言っているのを、そういうものだと思っていたけれど、盛大で傲慢な勘違いだとあとで思い知る、
たしかに自分は――フィリップ・マクベスタ・ゼン・アルマルティアという人間は、豊富な聖魔法を宿して生まれた特別な男児だったが、それは作為的なものであったのだ。
母親は辺境にある小国で魔女と呼ばれて迫害されていた少女であったらしい。
帝国では聖魔法とは尊いものだが、その国では異能そのものが畏怖の対象であり、異端だった。
皇帝は自身の治世を盤石なものとするため、聖魔法を欲していた。彼自身がそれを持っていないことに劣等感を覚えていたのだろうとは、反皇帝派が囁く説。
フィルは、父である皇帝陛下が自身の駒にするために作られた子どもだった。
それまでに成した子には、聖魔法の兆しがなかったため、遠い異国から強いちからを持った少女を保護という名目で攫い、ちからのある子を産ませたのだ。
まだ十四歳でしかなかった少女への狼藉。
祖国では虐げられ、小さくなって暮らしていた少女の肉体は出産に耐えられるほどには回復しておらず、フィルは母の命を犠牲にしてこの世に生まれたのだと、判定の儀で知らされた。
すべては帝国のため。
この国をさらに繁栄させるため。
大きな聖魔法を扱える、皇帝陛下の御子。
それがフィリップの存在理由だと、繰り返し繰り返し、何度も何度も何度も、たくさんの人間に諭された。
素晴らしい、誉れ高い。
賞賛する客人は、けれどその内心で恐れをあらわにしていたし、また別の客は、いかにフィリップに取り入って、将来の地位を掴もうかと必死に考えていた。
怖いから近づきたくない気持ちと、この子に気に入られておけば未来は安泰だという気持ちが入り乱れ、幼いフィリップは混乱する。神殿へ入ってからも来客は絶えず、こころは疲弊した。
臣下に声をかけるのも皇族の務めであると言われてきたので、来訪を拒むこともできず、およそ一年はそれが続いた。のちに、それは神殿職員が独断で手引きしていたことがわかり、その男は神殿を去っている。彼はフィリップへ伝手があることを利用して金銭の見返りを受けていたらしい。
五公爵が持ち回りで面会に訪れる程度になったころ、彼らはフィリップの体の変化に気づいた。
すなわち、五歳の判定の儀で見た姿から、なにも姿が変わっていないということに。
よもや、まさかという疑いから、身体測定が実施され、それは事実と判断される。
これを加護と捉える一方で、呪いと呼称する者もいた。
フィリップ自身は呪いだと感じている。
神は神でも、おそらく邪神。
不当なおこないで生を受けた子は、神から呪いをかけられたに違いない。
それでもいいと思った。
呪われた人間に対して、次の皇帝になれ、だなんて言わないだろう。
できるだけなにも考えずにいよう。
なにも留めず、なににも囚われず、ただあるがままに過ぎていくだけ。
こころを
だが、本当にこの体が朽ちる日は来るのだろうか。
時間に置き去りにされている体は、この世の理から外れており、制約を受けないかもしれない。
恐ろしくなって自傷してみたら、血が流れた。赤い血がとめどなく。
ぼくは生きている。
この肉体は生命体らしい。
血相を変えた聖女によって傷は癒やされたが、フィリップはそのときようやく、自分が『生きている』と実感した気がした。
引退間近の神殿長、フィリップにとっては大叔父にあたるエルンスト・ロズゴニーと対面したのは、そのころだった。
「大きくなったな、小さなフィル坊」
「おおきいけどちいさいって、へんだ」
「ワシはおまえが生まれたときを見ているからな。その坊やがこうして立って歩いて思考して会話をするにまで至っておるのだから、大きくなったといわずしてなんというか」
ふぉっふぉっふぉっと笑い、目元をやわらげる。
こんな表情ははじめて見た――いや、もっともっと、本当にまだ小さかったころ。乳母の笑顔がちょうどこんなかんじだった気がする。はっきりと顔を憶えていないあの女性。じつは名前すら知らない。
「もうすぐ隠居するジジイだが、おまえの役に立てるよう、これからも努めよう」
「どうして、そんなことをするんだ。かんけいないじゃないか」
「たしかにおまえにとっては無関係な人間の戯言じゃな。だから気に病むことはない。これは勝手な押し付けなのだから、受け取るも拒否するも自由にするがいい」
その意味を正しく理解したのは、神殿を出たあとだろうか。
貴族の思惑が蠢く社交界や、結局はそのしがらみから逃れられない神殿上層部から物理的に距離を置いたことで、大叔父が置かれていた立場も見えてきた。
彼は、皇族出身の神子であり、そこを境にして皇族から聖魔法の保持者は出ていない。最後の男だった。
待望の神子として生を受け、その瞬間からありとあらゆる思惑に踊らされることになってしまった第五皇子を憂いて、気にかけてくれているのだ。
エルンストは妻帯せず、独身を貫いているため、フィリップを自身の孫のように扱い、可愛がってくれた。
フィルがこっそり、こころの内側で『家族』と呼ぶのは、ヨアヒムとエルンスト、そのふたりだけだ。
完結していた世界に入り込んできたのが、ミノンという娘である。
十九歳。
フィリップと同じ年齢なのに、年相応に成長した女性の姿に苛立った。呪われている事実を突きつけられたような気がして、勝手に憤慨して、怒りをぶつけた。
けれどミノンはそれを受け流す。
「子どもはそういうものです。神子さま程度の
同じ年の子に『子ども』と言われて、なんとも言えない気持ちになる。
彼女は実年齢を知らないのだから当然だとヨアヒムは笑ったけれど、本当に腹が立った理由はそれではないのだ。
彼女は自由だった。
同じ聖魔法の保持者でありながら、楽しそうに生きて、暮らしている心根が羨ましくて、嫉妬をしたのだ、きっと。
ミノンはその明るさで自分を振り回す。
苛立ちながらも、その姿を追ってしまう。
彼女は太陽みたいな子だ。目が眩みそうになる。
風のような子でもある。
こちらの手を引いて、自由気ままに外の世界を開示して、知らなかったこと、知ろうとしていなかったことを突きつけて、こころの内側を揺り動かしてくるのだ。
最初の外出以降、家の中でも名前で呼ぶことを許すと、困惑したようすを見せながらも、言ってくれた。
「わかりました。神子さまがそう望むなら、そうしますね。これからもよろしくお願いします、フィル」
ミノンの風はあたたかい。
フィリップの――フィルのこころをポカポカとあたためてくれる。
ヨアヒムがメナと結婚したとき、フィルは寂しい気持ちになった。
メナにヨアヒムを取られてしまったような気がして、絶望的な気持ちになった。
けれど、呪われた子の護衛という任に就いているせいで出世もできないヨアヒムには、この世の誰よりも幸せになってほしいし、その権利があると思っていたので、気持ちに蓋をして祝福をした。
メナはとても優しい女性だった。
殿下。どうかわたくしめも、殿下と彼の仲間に入れてくださいませ。
彼は殿下のことが大好きすぎて、いつもわたくしは嫉妬でいっぱいなんですよ?
茶目っ気のある笑顔でそう囁いてきたメナのことを、フィルは嫌いではないのだから。
だけどミノンに対する気持ちはすこし違う気がする。
彼女もまた、フィルの傍付きという役割を押しつけられたために、聖女としての出世は見込めないだろう。
元気で明るい気質のミノン。
自分の能力不足を笑い飛ばす一方で、じつは不安を抱えていることをフィルは知っている。
自分だけがミノンの二面性――真昼の明るさと深夜の静けさを知っていることに優越感を覚え、高揚していることに仄暗い気持ちになった。
もしもミノンがこの先に「この方と未来を共に生きたいと思うんです」と知らない男性を連れてきたとしたら。
フィルは許せそうにない。
どんなに優しくて誠実で懐の大きな男であったとしても、それが『フィルではない』という時点でもう駄目だと思ってしまった。
ヨアヒムのことは祝福できたのに、ミノンは祝福できない。
狭量な自分が嫌になった。
ミノンはずっと自分の傍にいればいいんだ。
ずっと、一生、死ぬまで。
独占欲に気づいて、フィルは自身の内に抱えたものを認められた。
からっぽだった内側は、ミノンとの時間で埋められたことに。
そして、はじめてといっていい欲望が生まれた。
大人になりたい。
年相応の、大人の姿に。
ミノンの隣に立っていても不思議に思われないような、大人の男に。
◇
「はなせといっているんだ、ミノン」
「だめ、です、だめ、なの。フィルはわたしがお守り、する」
「もう、いいから! たのむ、どいてくれミノン!」
自身の体に回されているミノンの細い腕からは、なかなか逃れることができない。
わたし、こう見えても結構な力持ちなんですよ! と笑っていたが、それをこんなときにまで発揮することはないだろう。
フィルはなんとか腕だけでも外へ出そうともがく。
小さな手はあまりにも短すぎて、ミノンの背中に到達できない。
与えられる暴力に対して、なすすべもない。
弱い。
この体は弱すぎる。
ヨアヒムに教わった剣技や体術も、ちっとも役に立たない。
いつか体が成長すれば動けるようになりますよと、ヨアヒムが師匠として請け負ってくれたけれど、その『いつか』は、今この窮地を乗り切らないと意味がなくなる。
だってフィルは、ミノンを守るために強くなりたいのだから。
「ええい、このアマ。いい加減、退かんか!」
「……っぐ」
ミノンの胸越しにベージルの怒声が響き、ミノンの苦しそうな声がフィルの体を震わせる。
カランと音を立て、なにかが床を転がった。わずかな隙間から見えたのは、ベージルが持っていた杖だ。赤い石とは別に付着している赤は血の色。まさか。
蒼白になってフィルは、ミノンに叫んだ。
「ミノン! てあてを、てあてをしなければっ」
「へーき、です、よ。わたし、せいじょ、です、からー。癒やしのちから、つかえません、けど、だからこそ、体が丈夫になりましたー」
「ばかもの!」
「へへ、フィルがそんなふうに言うの、ひさしぶり、ですねえ」
朦朧としているのか、ミノンの声がはっきりしなくなってきた。限界が近い。
フィルはもがいた。
もがきながら、自分の体に向かって叱咤する。
動け、僕の体。
なにをやっているんだ、こんなときに。今、動かずして、いつ動くというんだ。
動け、動け、動け。
くそう。
早く、早く、早く――大きくなりたい。
大きく、大きく、大きくなれ。
待ってなんていられない。
今すぐに大人にならないと、ミノンが死んでしまう。
そんなことになったら、なんの意味もない。
ミノンがいないのに、僕が大人になる意味なんて、どこにもない。
大人に、大人に、大人の男になれ。
早く、早く、早く。
「僕は、大人になりたいんだ――!」
爆発しそうな気持ちが膨れ上がった瞬間、体がひどく熱くなった。
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