10 崩れゆく日常の予兆
フィル宛てに郵便物が届くことがある。
基本的にヨアヒムが開封、確認して、必要があればフィルへ渡す形式。
はじめは驚いた。
だって五歳の子どもに手紙である。友人同士の『おてがみ』とは違う、封蝋を押した正式な封書。
さすがお貴族さまの世界である。
ミノンが派遣されて五か月。
季節はひとつ巡り、そろそろ朝は火を入れないと寒くなってきた。
上に羽織るものが欲しい季節。神殿から持ち込んだ服は夏物なので、なにか調達しておきたいところである。
ヨアヒムに許可を得て町へ出ると、ミノンは足を延ばして古着屋を目指した。
場所の目星はついている。以前フィルと運動を兼ねた散策をしていたとき、町にどんな店があるのか把握しておいた。
派遣期間ははっきりと定まっておらず、秋用の衣服を必要とする時期が来るかわからなかったけれど、まさか本当に調達することになるとは。よもや冬まで居るとは思わないけれど、もしそうなったとしてもかまわないと思う程度に、ミノンはフィルたちとの生活が嫌いではなかった。
我儘な子どもだったフィルは、最近ではとみに大人ぶろうとして、ヨアヒムに笑われている。
顔つきもすこし変わった。
もちもち、ふくふくしていた頬はわずかにへこみ、目つきが凛々しくなってきた。笑顔も増えたし、不機嫌になったり、怒ったりと感情的になった。
良い傾向。
いやはや、子どもの成長は早い。すごい。
(フィルにもなにか買って帰ろうかなあ。いや、古着は失礼か。たぶん着替えはたくさんあるだろうし。でも、去年の服ってまだ着られるのかな?)
一年前の服が着られなくなっていることなんて、あれぐらいの年齢の子どもにはよくあること。
孤児院では、成長して着られなくなった服は下の年齢の子どもに着せたり、古くなったものを直したりして、院内で着まわしていたけれど、普通は新調するだろう。だからこそ古着屋が成り立っているのだから。
とはいえサイズもわからないし、やはりきちんと確認してから一緒に買いに来よう。
自分のものをいくつか購入し、ついでに文房具の店に寄った。
フィルとのお勉強会は継続中で、ミノンも自分専用の筆記用具というものに興味が湧いてきたところなのだ。いつまでも借り物というわけにもいかない。
そう思ったが、文房具というものはとても高価なものらしいと店頭で気づいて怖気づいた。書斎に置いてあったので使っていたペンに似たものが、とんでもない金額で売っている。デザインが洒落てるなあとは思っていたが、お値段もかなり洒落ていた。想像していたよりも数字の桁が大きい。
こわい。ぶんぼうぐ、こわい。
(わ、わたしにはまだ早かったみたい。いつか買おう。……死ぬまでに、なんとか)
先の長いことを考えたとき、あきらかに高級そうな馬車を操る若い男がミノンに声をかけてきた。
「やあ、そこのお嬢さん、悪いが道を尋ねたい」
軽い。なんだか往来で道行く女性に「お茶でもどうだい?」と声をかける軽薄男子のような軽さだ。ご立派な馬車を見るかぎり、かなりお金持ちのお抱えのように見えるが、仕事中にそれってどうなの?
職業倫理を考えてしまうミノンだが、世間の事情に疎い自覚もあるので、「こういう家もあるのかもしれない」と思い直し、せめて自分はきちんと礼を尽くそうと考えて言葉を返した。
「わたしでわかる範囲なら。ですが、あまり詳しくはないので、案内所へ行ったほうが確実かと存じます」
「この人物に心当たりはあるかい?」
言って紙を渡された。住所はなく、名前のみが書かれている。思わずしげしげと眺めてしまったところ、頭上からダミ声が降ってきた。
「はっ。見せたところで、そんな下民ごときに文字が読めるものか。おい、そこのおまえ。探しているのは子どもだ」
馬車の窓を下げ、頬がだらしなくたるんだおっさんが、ミノンを見下ろしている。
ピンときた。
この男は高位の貴族だ。自尊心が強い厄介なタイプの。
孤児院の子どもが外でお手伝いという名の仕事をしていると、あからさまに下に見てくるひとがいて、それらは総じて貴族の男性。気に入らないのであれば放っておいてくれたらいいのに、わざわざ絡んできて嫌味を言ってきたり、憂さ晴らしとばかりに一方的に因縁をつけてきたりする。
触らぬ神に祟りなしという外国の言葉を知ったのも、このころだ。
聖女として神殿に入っても、やはり貴族男性は横柄な者が多く、どうしてか他人を下におくことで自尊心を保つ輩が多かった。
こういうタイプに接するときは、必要以上にへりくだるにかぎる。
ミノンは頭を下げた。居丈高な声は続く。
「どうにも見つからんから、もしかすると偽名を使っとるかもしらんがな。金髪の子どもだ。フィリッ――、いや、フィル、だったか?」
瞬間、ミノンはひゅっと息を飲んだ。
しかし瞬時に神殿仕込みの聖女スマイルを浮かべ、「申し訳ありません、存じませんわ。お役に立てず」と、さらに礼を執る。丁寧に接したことは男を満足させたか、ふふんと笑う声が耳に届いた。
「まあ、おまえのような下女に訊ねたところで仕方のないことだったかのう」
「旦那さま」
「おい、馬車を出せ。もうすこし付近を走って目星をつけろ。たしかもうそろそろだろう、アレの誕生日は」
御者台の男が声をかけたが、旦那さまと呼ばれたダミ声親父は意に介さない。自身の使用人に対してすらものすごく横柄で、あの御者さんは大変そうだなあとミノンは頭を下げたまま同情する。軽薄そうではあるが、給金をもらって誰かの下で仕事をする身として、上司に恵まれないのは気の毒なことだ。
カラカラと軽やかな音で馬車が走り去り、車輪の音がじゅうぶんに遠ざかってからミノンは顔をあげる。
ああ、こわかった。誰だあのひと。
「……でもフィルって言った、よね」
取り返されたけれど、紙にはフルネームが書かれていた。
フィル・マクベスタ。
それはフィルの名前だ。
派遣されてきたばかりのころならいざ知らず、いまのミノンは文字の読み書きができる。郵便物の宛名だって読める。フィルの名前だってきちんと読めるし、書くこともできるのだ。
「大変。きっと後継者争いがついに本格化したんだわ」
ヨアヒムから聞いた、フィルの境遇。
とある高貴なお宅の事情。正妻の子どもではないフィルだけど、聖魔法を宿し、しかもそれが類を見ないほどに大きなものであったがゆえに、跡継ぎ問題に駆り出されてしまった。まだ小さいのに、大人たちの思惑と駆け引きと上下関係に巻き込まれ、すっかりこころを閉ざしてしまい隠遁中。
もうすこし大きくなって、悪い大人たちにいいように使われない程度にこころが成長するまでは、権力争いからは遠ざかっておきたいのが、今のフィルの状況なのだ。
だというのに、無理やり表舞台に引っ張りだそうとしてる?
あの下品なおっさんが、可愛いフィルの親戚とは到底信じがたいが、後継問題に加担している関係者であることは間違いはなさそうである。
あの馬車に見つからないように、遠回りをして、なるべく早く帰ろうと決意し、ミノンはさっそく建物のあいだの路地へ入る。
まっしぐらに、全力で家へ向かって走った。
◇
「ダミ声のおっさんですか?」
「ガマガエルみたいなおっさんでした、すっごくふてぶてしいかんじの」
「……デフローダ卿か」
「お心当たりが?」
「残念ながら。でも、助かりました。ありがとうございます、ミノン嬢」
なんとか馬車には見つからずに辿りつき、家に駆け込んだミノンは、まずヨアヒムに告げ口をした。
血相を変えて帰ってきたミノンを見て、すわ何事かと訝しんだヨアヒムだったが、伝えた男の特徴を聞くや否や、思いっきり顔をしかめている。よほど問題のある男なのだろう。
やっぱりねと、ミノンはうなずく。
あれはそういう顔をしていたもの。
「あのひと、フィルのご親戚ですか?」
「血縁関係ではありません。後継問題に関連がある御方ではありますが、どちらかといえば距離を取りたい位置関係に属してますね」
「つまり?」
「フィルさまの敵です」
お家騒動というものにピンと来ていないミノンが眉を寄せて訊ねると、簡潔にわかりやすくヨアヒムが答えてくれたので、ミノンは拳を握る。
神子さまをお守りするのが聖女のお役目。
最近ではうっかり忘れそうになっているが、フィルは神子なのだ。それもなんだかすごくちからの強い。神殿が重きを置くほどの。
「ご事情は伺いません。フィルをあのおっさんの目に触れさせないようにすればいいんですよね」
「よろしいので?」
「もともと神子さまというのは、神殿内でもくわしい出自を明かさないものなんです。還俗されても守秘義務があって、神子でなくなったところで、言いたいこともなかなか言えないそうですよ。まあ神殿の内部事情を暴露されるわけにもいかないので当然でしょうけど」
「――その発言で、神殿の事情とやらがろくでもないとわかってしまうのですが」
「どこの界隈にも闇はあるでしょう?」
「おっしゃるとおりで」
やけにしみじみとヨアヒムがうなずき、ミノンは首を傾げながらも続ける。
「ですから、フィルのご実家がどんな事情を抱えているのかは聞きません。だから、これだけ教えてください」
「なんでしょう?」
「フィルは、ご実家を継ぐつもりはなくて、辞退したいんですよね?」
「お気持ちが変わっていなければ」
「では確認しておいてください。わたしはそれに従います」
優先させるべきはフィルの気持ち。
ただでさえ、神子なんて面倒くさい肩書を背負わされているのだ。そのうえ実家の跡継ぎまで?
冗談ではない。五歳の子に要求しすぎだ。そんなものは、もっと大きくなってからでいいじゃないか。
「今のフィルがどう思っているのか。それでいいんです。フィルはとっても頭のいい子だから、家の跡継ぎとかにならなくても、別のお仕事だってできると思うし。教えるのも上手だから、学舎の先生とかも素敵ですよね。神殿学校の先生をやってくれたら、わたしみたいな平民あがりの聖女も、授業についていけるし」
「……ありがとうございます。あなたは本当にフィルさまのことを考えてくださっているんですね」
「ヨアヒムさんほどではないと思いますが?」
なにしろミノンは、たかだか数か月の付き合いだ。フィルが生まれたときから知っているというヨアヒムには、年月では到底及ばない。
「フィルさまと話してきますよ。あなたはここでお待ちください」
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