09 幽霊氏とフィルについて


 添い寝して以降、フィルのようすがおかしい。せっかく距離が縮まっていたのに、警戒されるようになってしまった。

 帰宅したヨアヒムに理由を問われたので事情を明かすと、腹を抱えて笑われた。


「いやあ、フィルさま。俺の知らないあいだに、また大人の階段を」

「ちがう! あっちがかってに」

「襲われたんですね」

「それもちがう! ヨアヒム、おまえ、いつもそうやってぼくをからかって、そんなにたのしいのか!」

「ものすごく楽しいですが、それがなにか」


 フィルは目を見開いて、続いてぎゅっと握った拳を振り上げ、けれどそれをヨアヒムに向けることもなく、ただ思い切り振り下ろしたあと、背を向けて走っていった。

 ギイィと扉が閉まる音がしたので、自室に戻ったのだろう。

 癇癪を起こしてなお、フィルは怒りを他人にはぶつけない。いい子である。


「ヨアヒムさんは、本当にフィルと仲がいいですよねえ。うらやましいです」

「まあ長い付き合いなので」

「長いということは、生まれたときから知っているんですか?」

「そうですね。でもうらやましいのは、俺のほうなんですが」

「わたし? どこがですか」

「あの子の表情をこんなにも引き出しておいて、自覚がないところに嫉妬が止まりませんね」


 苦く笑うと、ヨアヒムはいつもどおり、荷物を片付けに部屋へ向かう。

 取り残された形のミノンは気持ちの持って行く先をなくしてしまい、仕方なく溜息を落とした。



 その夜。現れた幽霊氏といつもどおりに会談している最中、幽霊氏にも微妙に距離を取られているように感じて、無性に哀しくなった。


「どうしたんだ」

「フィルだけじゃなく、幽霊さんもわたしと距離を取るんですね、さみしい」

「そ、そんなこと、は、ない、ぞ。おまえの勘違いというやつだ」

「でも、いつも隣に座ってるのに、今晩は一人分ぐらいの距離がありますよね」


 間にある空間に目をやったあと幽霊氏に視線を戻すと、彼はバツの悪そうな顔をして、下を向いた。


「つまり、その、近づきすぎると恥ずかしいというか、いろいろと思い出すというか」

「恥ずかしいっていまさらなに――、え。思い出す? なにか思い出したんですか幽霊さん!」

「違う! 思い出してなんてないぞ。あれは看病の一環だというのはわかっているんだ」

「看病?」


 病気で亡くなったということか。そして誰かに看護されていて、それがミノンに似ている?


「もっと近づきましょうか。思い出すかもしれませんよね」


 ミノンは幽霊ににじり寄る。じわじわと壁際に追い詰めていくと、幽霊氏は目に見えてうろたえる顔つきになった。


「おま、だから慎みとか恥じらいとか、そういったものを持て。僕は男だぞ」

「でもどうせ触れられませんし。どうもこうもありませんよ」

「だったら試してやろうか!」


 珍しく怒ったような声となり、幽霊氏はミノンのほうへ向かって手を伸ばした。

 幽霊と接触したことはないけれど、やはり体を通り抜けられたりするのだろうか。それはそれで気になるが、ちょっと怖い気もする。


 勢いに押されて、今度はミノンが後ずさり、置いてある寝台を背にして追い込まれたとき、膝立ちの恰好になった幽霊氏が上から覆いかぶさってきた。


 顔が近い。

 これではまるで、恋人同士の距離感だ。


 お芝居で観た男女の睦言。自分には縁のないものを目の当たりにして動揺する。しかも幽霊氏はとんでもない美青年なのである。

 男の薄いくちびるがわずかに開いた。


「ミノン……」

「!?」


 はじめて名を呼ばれて、どきんと大きく心臓が跳ねあがった。

 なんだそれ。

 ずっと「おまえ」呼ばわりしていたくせに、こんなふうに、いきなり、そんな、切なそうに名前を呼ぶとか卑怯すぎる。


 身の内にで心臓が暴れまわる。

 呼吸の音が耳にうるさい。

 恥ずかしいのに目が離せなくて、幽霊氏の顔を見つめた。


 窓から差し込む月光に透けて、長い髪が燐光をまとったように金色に輝いている。瞳が青い。透き通るように澄んだ青。


 色が、ある。


 ずっとぼんやりとしていた幽霊氏に色がついた。

 なんだか誰かに似ている気がする。毎日会って顔をみている、寂しがり屋の男の子。


「あなた、フィルに似てる……」


 途端、大きく目を見開いた幽霊は、そのままパチンとはじけるように消えてしまった。いつもうっすらと溶けるように消えるのに、こんな消え方ははじめてだ。それはそれとして。


「…………心臓に、悪い」


 なんだあれは。

 ミノンはそのまま床に転がった。ゆるりと頭を動かすと、姿見にはだらしなく弛緩した自分が見える。鏡に映った顔は、いつになく赤い。


 僕は男だ。

 幽霊の言葉が頭に木霊する。


 知っていたけど、知らなかった。

 気の置けない友人のように思っていた存在に、熱のこもった視線を向けられること。

 それが、恥ずかしさと同時に歓喜を呼び覚ます感情であること。


 世間的にそれらが、どういう名で呼ばれているのかといえば。


(うわあ、なにそれ不毛すぎ。相手は幽霊じゃないの)



     ◇



「え、なんですか、この空気。ミノン嬢までフィルさまと目を合わさないとか」

「そんなことないですよ。フィル、おかわりはどうですか?」

「いらない。ごちそうさまでした」


 言葉少なく立ち去ったフィルをふたりで見送って、ヨアヒムは首を傾げた。


「うーん、微妙なお年頃ですかねえ」

「ヨアヒムさんが変にからかったりするからじゃないですか? それより、あの、ちょっとお訊きしたいことがあるんですが」

「なんです?」

「無理なら言わなくていいんですが、この御邸の持ち主について、です」

「フィルさまの後見人をしてる方の物件ですね。神殿の関係者です」

「ご親族ですか?」

「……どうしてそうお思いに?」


 以前の住人であろう幽霊とフィルに血縁関係がありそうなので。

 と、言っていいものか。


「ヨアヒムさんは幽霊って信じるタイプですか?」

「また急に来ましたね、どういう脈絡ですかそれ。うーん、それは霊魂という意味ですか? それともアンデッドのような怪物化したもの?」

「こう、天に昇れないまま現世を彷徨っているような、なにか未練でもあるのかな的な」

「どちらにせよ俺は霊感がないので、見たことがありません。でも悪さをしないのであれば、居ても居なくてもどちらでもいいですね――、え、もしかしてその流れでいうと、この家に」

「出るんですよ、幽霊が」

「まじですか、え、ミノン嬢は見たんですか。まあ、見たから訊いてるんでしょうが」

「毎晩ではないんですが、たまに」


 ひえーと、わざとらしく腕をさすり、ヨアヒムが続けた。


「どんな幽霊ですか?」

「若い男性です。わたしと同じくらいの年恰好ですが、それが没年齢と合致するかはわかりません」


 ミノンが知っている情報を話すと、ヨアヒムはだんだんと呆れ、はあと息を漏らした。


「すごいですね。聖女さまは幽霊の身の上話を聞いて、人生相談の真似事までするんですか」

「世間話の一環ですよ」

「死者を相手に世間って」

「意外と話は通じるんですよねえ」


 幽霊は事情通だ。ミノンよりはるかにさまざまなことに精通しており、頭が下がる。生前は立派なひとだったに違いない。


「それで、ですね。その幽霊の容姿が、ちょっとフィルに似ている気がしまして」

「なるほど。それで持ち主が親族なのか知りたい、と」

「はい。お心当たりはありますか?」


 ごとん。

 なにかが落ちる音がして、ミノンとヨアヒムが顔を向けると、そこにはフィルが立っていて、足もとに木箱が落ちていた。近所の商店が配達してくれる野菜を収納する箱で、それをキッチンまで運ぶのはフィルの担当になっていた。


「運んでくれて、ありがとうございます、フィル」

「ゆうれい?」

「あー……、聞こえてましたか」


 小さな子どもに聞かせる内容ではない。

 しかしごまかすのも難しい。フィルは頭のいい子なので、へんに隠したところで察してしまうだろう。


「おまえはゆうれいにあっているのか?」

「そうですね」

「ほんとうにゆうれいなのか?」

「透けてるし、実体はないので、おそらくは」

「……そうか」

「大丈夫ですよフィル。こわくないです。あの幽霊さんはこわいひとではありません。襲いかかってくることもないですし」


 昨晩はちょっと違ったけれど。

 思い出して顔が赤くなり、ミノンはあわてて頭を振った。


「いってもいいぞヨアヒム」

「いいんですか?」

「おまえにまかせる」

「承知しました。ではミノン嬢。この御邸ですが、さるお方が隠れ家のように使っていた家で、普段は別の場所で生活しておられました。おひとり用の家なので、子どものフィルさまが使うのにちょうどいいと提供してくださいました」


 独居用の家にしては大きい気がするけれど、そこはフィルのご親族。お貴族さまの感覚は、庶民とはずいぶんと異なるのだろう。


 フィルにとっては大叔父にあたる方。若いころからずっと神職にあり、妻帯はしなかった。同じように聖魔法を宿しているフィルのことを気にかけてくれており、表立って支援をするのは難しいけれど、ヨアヒムを通して、不自由なく生活が送れるように手配している。ミノンを派遣したのも、そのひとつ。



「あれ? ということは、あの幽霊は」

「後見人さまはご存命ですし、あの方が建てた家なので、他に住人はいないはずです」

「え、ではあれはいったい」

「まったく無関係の野良幽霊か、もしくはミノン嬢が夢を見ているか」

「夢? あんなにリアルなのに」

「現実と地続きっぽい夢を見ることって、意外とありますよ」


 幽霊氏と会っている証拠はなにもないので、証明もできない。ミノンは彼の名前も知らないのだから、そこから探しあてることもできないだろう。


「今晩、もしその幽霊さんが出てきたら、俺を呼んでくださいよ」

「たしかに、信じていただくにはそれしかないですよねえ」


 しかしそれ以降、幽霊氏はミノンの前に姿を現さなくなってしまったのである。

 まるでミノンが虚言を吐いていたようで納得がいかない。

 今度出てきたら、とっつかまえて寝台に縛り付けてやろうと調理中に息巻いていると、隣でお手伝いを買って出ていたフィルが苦いものを飲み込んだような顔をして「やめろ」と言った。


「じったいがないのだろう?」

「実体はないけど、たぶんこころはあるので、わたしがとても怒っていることをわかっていただかないと」

「おこってるのか?」

「当然です。あんなことをして、急に消えて、なんなんですかもう」

「あんなことって、なんだ」

「ひ、ひみつ、です」


 恥ずかしくてフィルには言えない。

 ヨアヒムにだってもちろん言えないし、誰であろうと言える気がしない。


(会っているうちに、幽霊さんのことを好きになってしまったようです、なんて。人間として終わってる)


 人間として、というか。聖女として問題かもしれない。

 名目上は神のしもべである。神子は神の子だが、聖女は神の妻なのだ。それなのに、幽霊に対して好意を抱くだなんて、妻失格である。


「やっぱりゆめじゃないのか?」

「ひどい。フィルもわたしが嘘をついていると思っているんですね」

「そうじゃない。ぼくだって、おなじようにゆめをみる。げんじつだったらいいのになっておもうようなやつを」

「どんな夢ですか?」

「……おとなになるゆめだ。おとなのおとこになって、おなじたかさであいてのかおをみて、はなしをする。そんなゆめだ」


 大人になったフィル。

 幽霊氏を思い出した。フィルが大人になれば、あんなかんじになるだろうか?


 まじまじとフィルを見てしまう。

 視線を感じたのかフィルがミノンを見て、顔を赤らめた。


「な、なんだよ、わらえばいいだろう」

「笑ったりなんてしませんよ。フィルが大人の男性になれば、とても素敵でしょうね。いまでもこんなに可愛いんですから、きっと凛々しい青年に成長します」

「そうおもうのか?」

「もちろん」

「じゃあ……」

「なんです?」


 そこで言葉をとめて下を向き、かと思えばぐっと覚悟を決めたようすで顔をあげて、赤い顔のままでくちを開いた。


「ぼくがおとなに――おおきくなったら、そのときはずっといっしょにいてくれるか」

「ずっと、ですか?」

「そ、そうだ。ずっと、いっしょうだ」


 大人になったら一生傍に。


「あら、わたしってば、もしかしてモテモテですか?」

「なんだそれは! ほかにもそんなおとこがいるのか」

「自慢ではありませんが、ちびっ子にはモテモテなのです。孤児院時代、何人もの男の子に結婚を申し込まれました。まあ、それっきりですけど」

「そ、そんなやつらといっしょにするな! ぼくはちがうからな。わすれるなよミノン!」


 背伸びをして、顔を近づけてきて、それでもミノンの顔にまでは届かないことに悔しさをにじませながら、フィルは宣言して踵を返す。台所を出て行き、遠くからギイィと響くは扉の開閉音。


「……フィル、はじめてわたしの名前を呼んだ?」


 湧き上がってくる歓喜。くすぐったい気持ち。

 幽霊氏に呼ばれたときよりも嬉しい気がして、ミノンはひとりでくすくす笑った。





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