08 役立たずの聖女
ふわあ。
欠伸が漏れると、フィルが不審な顔をした。
「おまえ、どうしたんだ。ゆうべはねられなかったのか?」
「んー、ちょっと寝つきが悪かっただけです」
大丈夫、元気ですよ! と笑ってみせると、フィルはうなずいて朝食に向き合った。
じつは昨晩も幽霊氏と数時間の面会をしていた。
幽霊氏は神出鬼没で――幽霊なので当然かもしれないが――、いつ現れるのかわからない。二日連続で出てくるときもあれば、三日空くこともある。不定期来訪の男を相手に振り回されている。予定ぐらい教えてほしい。
いままでミノンが気づかなかっただけで、じつはこの家に滞在するようになってからずっと居たのかもしれないが、少なくとも会話を始めたのはごく最近である。
彼はいつもフィルの寝室に現れる。
そこが起点になっているということは、生前の寝室がそこだったのだろうことは間違いないと踏んでいる。
姿を見せた幽霊氏となにをするかといえば、ただ会話をするのみ。
なにしろ彼には実体がないので、物は持てないし、もちろん飲食も不可。椅子に座る行為もできないようなので、床にうずくまっている。厳密には床に接地していないのかもしれないが、体がめり込んで沈んでいるようには見えないので、座っていると仮定している。
会話をするためにミノンも床に座るので、お尻が冷えて仕方がない。そろそろクッションを用意するべきかと思っているところだ。
幽霊には記憶がない。自分の名もわからないようだ。
仮名をつけようにもまるでとっかかりがないので、とりあえず『幽霊さん』と呼んでいる。いちおう相手の了解を得ているので失礼ではないとは思うが、そろそろ愛称ぐらいはつけておきたいなと思わなくもない。
しかしそうやって現世に縛りつけてしまえば、天へ昇ることもできなくなるだろう。悩ましいところである。
ミノンがぼんやり考えていると、フィルもまたなにかを考えているのか食事が進んでいない。
すっかりお気に入りになった(とミノンは判断している)ガーリックトーストのトマト載せも食べかけのまま皿に置いてある。
「フィル、おなかいっぱいですか?」
「……そうかもしれない」
ついに手が止まったフィルは、申し訳なさそうな顔をしてミノンに「すまない」と謝罪した。せっかく作ってくれたのにと呟く姿に成長を感じずにはいられないが、それよりも元気のなさのほうが気になった。
「失礼しますね」
断りを入れてから、着席しているフィルの傍に膝をつき、ミノンは彼の額に手を当てる。
子どもは総じて体温が高いものだが、これはちょっと熱いような気がする。
今度は首筋に手を当てた。
やはり熱い。
「風邪でも引きましたかね。今日は授業は中止して、お部屋で寝てください」
「べつにねむくない。さっきまでねてたし」
「眠くなくてもいいから、ベッドで横になっていてくださいよ」
「……いつもはおきろってうるさいのに」
「病気のときは、はなしがべつです」
こんなときにかぎってヨアヒムはいない。ちょうど昨夜のうちに、彼は自分の家へ帰っている。
夜のうちに行って自宅で寝て、二泊してから早朝こちらへ戻るのが、最近のスタイル。
ミノンが来る前はフィルも一緒にヨアヒム宅へ泊まりに行っていたらしいが、彼の妻が妊娠してからは避けるようになったという。出産以降は尚のこと。自身の子を世話するほうが大切だ。
ヨアヒムの妻はフィルの事情を知っており、夫の仕事も理解してくれている。
できた嫁でしょう? と、よくノロケを聞かされるが、たしかに懐の大きな女性だ。夫が長期で家を空けるなんて、普通なら浮気を疑う。
「のどが痛いとか、鼻が詰まっているとか、ありますか?」
「べつに、ない」
「うーん、疲れてるだけですかねえ」
引きこもりを連れ出して、あれこれ行動させている自覚はある。あの家に小さな子どもなんて居たんだねえと驚かれたぐらいだ。生活を激変させてしまい、体が疲れて悲鳴をあげている可能性はとても高かった。
「すみませんフィル。わたしのせいです」
「それはちがう。ぼくはおまえのおかげでいろんなことをしったんだ。ぼくはものしらずだったとおもった。ほんをよんでしったつもりになっていただけで、ほんとうはなんにもしらなかったんだ」
「ありがとうございます。わたしも嬉しいです。ともかく、今日はお休みにしましょうね」
うなだれるフィルを抱きかかえる。
さすがに重い。
「じぶんであるくからおろせ」
「病気のときは、甘えていいんですよ? わたし、こう見えても力持ちなので、フィルを抱えるぐらいはどうってことないです」
「おんなのくせにむりをするな」
「フィルこそ、子どものくせに遠慮はしないの」
有無をいわさず抱えあげ、そのまま部屋へ連行する。
最近では自分で起きてくるようになったし、毎日着る服も自分で選んで着られるようになっている。
身支度は整えられても寝台は乱れたまま。皺の寄ったシーツの上にフィルを下ろし、ミノンは上掛けで体を覆った。
「喉が渇いたときのために、水差しを持ってきますね。あとタオルも濡らしてきますから眠っていていいですよ」
おなかのあたりをポンポンと叩いてから部屋を出て、諸々の準備をして戻ってくると、フィルは寝ているようだった。
やはり体は休息を欲していたのだろう。ゆっくりと上下する上掛けを見て、ミノンは心底反省した。
持参したタオルで顔を拭き、再度水で濡らして絞ったあと、畳んで額に乗せる。
ふくふくとした頬、あどけない寝顔。
出会った当初の憎たらしい顔はどこへやら。ツンとした物言いも、偉そうな態度も、それが彼の寂しさの裏返しなのだと気づいてからは、逆に愛おしくなってきた。
こんな可愛い子を放って、フィルの親はなにをしてるのだろう。
さまざまな理由で孤児院で育つ親のいない子どもと、親がいながらこうして放置されて、家族ではない護衛とふたりだけで暮らす子ども。
そのどちらが幸せなのか、ミノンにはわからない。
幸せの形はひとによって違うのだから、ひとつの型にあてはめられるものではないけれど、少なくともフィルは幸せではないと思ってしまうのだ。それもまたミノンの勝手な決めつけではあるのだが。
「……わたしだって、ずっと一緒に暮らせるわけじゃないもんね」
ミノンは神殿から派遣された聖女だ。仕事として請け負った。後ろ盾もなく、聖女としての箔もない。癒やしのちからは弱く、フィルの病を癒やすこともできやしない。役立たずだ。
(あーもう、やだなあ。こういうときは、どうしても落ち込んじゃう)
自覚せざるを得ない。自分にはいいところがまるでないのだと。
だからきっと親にも捨てられてしまったんだ、と。
聖魔法の有無は出生時にも判定されると知ったのは、神殿へ入ってからだ。
それは主に貴族階級、あるいは富裕層の、専用道具を所持している家で実行できる特権。聖魔法を宿している者はいずれ金を産む存在となる可能性を秘めているため、五歳の判定儀式まで着々と準備しておくらしい。
一般的に儀式を受けさせるのは、子が五歳になるとき。
だがやはりここにも例外というものがあり、それが孤児である。
出生の届出があるかどうかも分からない子どもだ。
儀式とて誰もが無料で受けられるわけではなく、幾ばくかの寄付をしてから受けられるのが暗黙の了解。さりとて法外な金銭を求めているわけではなく、せいぜい一日分の食費程度の金額だ。たいていの家庭では、五歳に備えて準備しており、生活に影響が出るものではない。
だが孤児たちはそうはいかない。寄付で運営される孤児院に余剰は少ないし、年齢の異なる複数の子のために資金を積み立てるのは難しい。それよりも日々の生活のほうが重要だからだ。
だからミノンも五歳の儀式は受けていない。
ミノンが儀式を受けたのは、十歳のときだ。それも正式なものではなく簡易的なもの。
祭りの余興として、神殿が主催して、簡易的な儀式をワンコインで実施することがある。
かつて、ほんのわずかに判定に引っ掛かり、けれど神殿入りするまでには至らなかった者や、還俗したかつての神子、聖女が測定したり。子ども時代に誰もが受ける儀式を懐かしんで楽しんでみたりする、そんな気楽な余興。
ミノンは、お祭り用にもらったお小遣いをそれに投資した。
なにも自分に聖魔法が宿ってるだなんて期待があったわけではなくて、ただ単に、誰もが当たり前にやっていることを、自分も体験してみたかった。それだけなのだ。
そうして十歳のミノンは聖魔法を宿していることが判明し、神殿職員のひとりを伴い孤児院へ帰り、話し合いの結果、神殿へ行くことにした。シスターたちは喜んでくれたが、ミノンはすこしだけ哀しかった。まるで自分が居なくなることが喜ばれているように感じてしまったから。
今ならわかる。ずっと孤児院で育つより、神殿で聖女として過ごすほうが、未来の選択肢が広がる。ミノンの将来を案じて送り出してくれたのだ。
まあ、その聖女のちから――癒やしの能力が、からっきし、駄目駄目の駄目だったわけだが。
(前神殿長さま、お元気かしら)
孤児院に同行し、ミノンを神殿へ連れていったあとも相談に乗ってくれた年配の男は、なんと引退したばかりの神殿長だったらしい。
そんな偉いひとがなにやってんだと思ったが、あの方はとても変わり者だったようで、なにをしても「まあ、あのひとだから」で納得されていた。ふたりのときだけは「おじいちゃん」と呼んでいた、ミノンにとっての恩人。
ミノン。毒とはな、生命の活動に良くない影響を与えるもののことをいう。
つまり、ぬしが持つ能力は最強ともいえよう。
怪我を癒やせぬことぐらい、なんだというのだ。ぬしのちからは、そういうものではない。
身の内に宿る、生命活動に悪影響を与えるものを取り除き、健康な状態にする。
それがすなわち解毒。
病は気からという言葉があるし、ミノンは相手を元気にできる、よい女となれ。
「……熱が出るということは、体内にある悪いものを排除しようと体が戦ってるんだっけ?」
ならば、フィルの体を応援しよう。
がんばれ、フィルの細胞たち。
ミノンはフィルの小さな手を握る。いつもより熱い手を、祈るように握り込んだ。
出て行け、悪いもの。このミノンさまが成敗してくれよう。
手を握るだけでは足りない気がして、ミノンはフィルの体を抱きしめるように上から抱え込み、体勢に疲れるので、それならばと添い寝を決行する。
小さな子と一緒に寝るのは、本当に孤児院にいたとき以来だ。
「よーしよし、大丈夫よー」
抱き寄せて、あやすように背中をポンポンと叩くと、フィルの寝息が落ち着いてきた。
可愛い。
あったかいなあ。
いつのまにか寝てしまったのか、ミノンが目覚めて見たものは、耳まで真っ赤になって固まっているフィルの顔。
「え、全然熱が下がってないじゃない。むしろ悪化した?」
「おま、おまえ、な、なに、なんで、こ、え、あ」
「フィル?」
「おおおおまえはやっぱりはれんちだ! つつしみをもてといっているだろう!」
「あれ? 元気になった?」
「うるさい!」
うるさいのはフィルのほうだと思ったけれど、すっかりいつものフィルに戻ったことに、ミノンは安心した。
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