03 生活改善いたしましょう
ミノンの朝は早い。
神殿には朝の礼拝があり、準備をする必要があるからだ。
朝告げ鳥の声とともに起床すると、薄いシーツの寝台から抜け出す。
しんと静まった廊下を歩いて端の扉から外へ出ると、井戸を使ってまず喉を潤し、洗顔をして眠気を覚ます。
そのあとは水を湛えた桶を持ち、聖堂裏手に置いてある水瓶を満たすために数回往復。
付近を掃き清めるのもミノンの仕事で、そうしているうちにようやく頭が冴えていくのである。
そんな朝のルーティンを思い出しながら、ミノンは自室に宛がわれた寝台で上半身を起こす。
神殿に入ってから容赦なく叩きこまれた下働き根性により、時間になると勝手に目が覚めてしまうが、この新しい職場における朝はとてもゆるやかだ。ぬるいと言ってもいい。
しかし慣れとは怖いもので、二週間ほど経過した今、ミノンはすっかり『のんびりした朝』を享受するようになっていた。不覚である。
ここへ来た翌日の朝は、夜明けとともに起床した。
さてどうしようかと家の中をウロウロしはじめたミノンの気配に気づいたヨアヒムが起きてきて、「めちゃくちゃ早いですねー聖女さま」と欠伸とともに呟いた。「そんなに早く起きなくても、のんびりしてていいですよ。決まった時間はありませんから」と。
軽く朝稽古をするヨアヒムはそれなりの時間に起きるが、神子は朝が苦手らしい。基本的には起きてくるまで放置しているとか。
子どもですしねーと言うが、ミノンが育った孤児院では、神殿ほどではないにしろ、皆がそれぞれ朝の仕事をするべく起床していた。
規則正しい生活を! をモットーに、夜は早く、朝も早くの生活である。ロウソクを使用する時間をできるだけ短くしようという意味でもあった。
ヨアヒムもまた貴族ということだろうか。
清貧という名の貧乏性の庶民派ミノンにとって、それはただの怠惰。子どもの我儘を増長させるだけの振る舞いにしか思えない。
しかし、新参者で余所者の自分がくちを挟む問題でもないのだ。ミノンの仕事はただ、『神子のお世話係』として雑用をこなすこと。
フィルは、神殿行事にはまだ参加していない年齢だ。あれらはたしか十二歳前後から始まる。それまでは神殿の奥で、神子の仕事について学ぶと聞く。
まあ、そんな年齢の子どもなのに、こうして神殿外で暮らしている時点で、かなりの訳アリだなと察せられるのだが、深入りしていいのかどうかも悩みどころだった。
二週間ほどようすを見ていて、神子とヨアヒム、それぞれのひととなりもわかってきた。
そろそろミノンも本気を出していいかもしれない。昨晩、神子が就寝したあと、ヨアヒムには相談して了解を取っている。決行だ。
「よーし、今日は忙しくなるわよ」
気合を入れて寝間着を脱ぎ、支給された服を着る。
神殿服ではなく、町人が着ているような平服だ。動きやすくて心地いいので気に入っている。
適度に飾りがついていて、けれど家事には影響しないデザイン。日常というものをよく知っている者が作った服だと思う。これを選んだヨアヒムの妻は城付きのメイドと聞いたが、とても有能に違いない。
まず台所で朝食の準備。最後の仕上げ、一歩手前の段階で、ミノンは神子の部屋へ向かった。
流した汗を拭いているヨアヒムには「行ってきます」と声をかけ、手のひらを振ることで返事をもらい、いざ出陣。
ノックを数回。あいだを置いて、何度か叩く。
どうせ起きないから、反応なくても入っていいですよーとヨアヒムから承諾を得ているので、ミノンは遠慮なく扉を開けた。
「おはようございます、神子さま。朝ですよー」
「…………」
「ほらほら、起きましょうよ、お寝坊さん。起きないとくすぐりますよ?」
「…………」
「神子さまー?」
「…………」
三回声をかけたが、まだ起きない。よし、くすぐりの刑に処そう。
寝すごした孤児院の子どもたちへの罰を思い出しながら、ミノンは神子の布団を剥ぐ。
手をワキワキさせながら近づこうとしたとき、ようやく異常に気づいたらしい神子が目を開け、こちらを見た。
「…………!?」
「あら、残念。もうすこしだったのに」
「な、ななな、なんだおまえ、なにしてるんだ」
「なにって起こしに来たんですよ。神子さま、朝食の時間ですよ」
「はあ!?」
そんなことで? とでも言いたげな不審顔をした子どもに、ミノンはにっこり笑顔で告げてやる。
「ごはんはきちんと決まった時間に取りましょう。片付きませんから」
「なにがかたづかないというんだ」
「食器とか、机の上とか、いろいろですね。神殿にある食堂は決まった時間にしかごはんが提供されないってご存じですか?」
「……ぼくはじぶんのへやで食べてた」
「あらまあ、神子さまはそんなに高貴な御方ですか」
「おまえ、バカにしているだろう!」
「いえいえ、そんなことは」
すこしぐらいしか思っていませんとも。
似たようなことをしていた者を、ミノンは何人も知っている。この国における聖女は、ほぼ貴族階級に生まれ育つのだ。
爵位ある家に生まれた子どもは出生時に聖魔法の適性を調べ、反応が出た者は五歳になったときに再度そのちからを調べることになっているらしい。
そうして、神殿に通いながら聖女としての仕事を始めるが、十五、六歳――いわゆる社交界デビューをするぐらいの年齢になれば、出仕という形で神殿へ住むようになるのだ。
しかし生粋のお嬢さま方が、神殿暮らしをこなせるわけもない。
侍女を連れていくことは黙認されているし、下々の者と一緒に食卓に着くなんて当然ありえないこと。彼女たちは宛がわれた上質な個室で、特別に作られたものを食べていた。
神子もまた、貴族階級や富裕層に多いと聞く。お嬢さま聖女と似たような暮らしをしていたとしても、なんら不思議ではなかった。
でも、ここは神殿ではないし、ミノンはそこまで甲斐甲斐しくお世話をしてあげるつもりはまったくない。ヨアヒムも、それでいいと言ってくれたので、ここからはミノンのやり方を通させてもらうつもりだ。
「それだけおはなしできたら、もう目は冴えてますよね。朝ごはんにしましょう。そのまえにお着換えしましょうね」
「きがえ」
言ってミノンは壁際のチェストに目を向けた。近づいて勝手に引き出しを開けると、そこには綺麗に折り畳まれた服が収納されている。
(本当に仕立てが良いものを着ているわよねえ)
触ってみると、それはあきらか。もう手触りがまるで違う。ミノンがいま着ているものだって、庶民のミノンにしてみればじゅうぶんすぎるほどに質が良いけれど、これはもう段違い。前提が違うとしか言いようがないほどに。
そのなかから、できるだけシンプルなシャツを取り出す。これでいこう。
振り返ると神子はミノンの行動を見ていた。寝台の端に腰かけ、こちらを待っているようす。
ううむ、これもまたお坊ちゃまゆえかもしれないが、改善していかねば。
独り言ちて、ミノンは神子の前に立った。
「はい、では着替えますよー。ボタンははずせますか?」
「……は?」
「あら、それすらできませんか? うーん、仕方ないですねえ」
ミノンが神子の寝間着に手を掛けると、驚くべき速さで飛びのき、距離を取った。
「んな、なな、なにをするっ」
「なにって、寝間着を脱ぐお手伝いを」
「お、おおお、おま、おまえが、やる、のかっ!」
「神子さまがご自分でできないのでしたら、わたしがやるしかないでしょう」
「はれんちだ!」
はれんち?
ミノンはしばし考え、破廉恥――ふしだらであると糾弾されたと理解し、同時に笑いがこみあげた。
この神子さまは、高貴な身分にありがちな傲慢不遜な言動も多いが、内面は驚くほどにピュアである。いやまあ、五歳なのだから当然ではあるのだが、その年齢にしては早熟、耳年増なのだろうか。
ミノンは女子なので、男の子の世界はわからない。孤児院でも、七歳を超えるころになると、男女それぞれの話題に分かれてくるもので。そういった男児の世話をするのは、自然と兄貴分たる少年たちの役割となっていくもの。
おそらくこの家においても同様で、ヨアヒムとの会話に男ならではの猥談も含まれているのかもしれないが、さすがにちょっと早いのでは?
考えるミノンをよそに、神子は自分でボタンを外し始めた。袖から腕を抜くのを手伝おうと近づくと、ギロリと睨んで背を向ける。とにかく自分でやりたいらしいが、いかんせんもたついており、案の定、腕がうまく抜けずにもがいていた。
(なんて可愛らしいのかしら。最近はぜんぜん見ていなかったわ、こういうの)
ミノンは十歳のとき、聖女候補として神殿へ入り、十九歳の現在までずっとそこで暮らしている。たまの里帰りで子どもたちと過ごすことはあるけれど、日常的な世話からは遠ざかって久しい。
「神子さま。無理にもがいていると服が破れてしまいます。ほら、おとなしくしてください。はい、両手を上に挙げてください。ほら、ばんざーい」
不承不承といった顔で、神子は手をすっくと天へ向けて伸ばした。ミノンはすかさずシャツを上へ引き抜く。
白い肌が現れた。つい見惚れてしまう。子どもの肌って本当にきれいだ。
(おっとダメダメ。これは本当にハレンチだ。痴女だよ、わたし)
手に持っていたシャツを掲げ、「これを着ましょう」と声をかける。
片腕ずつ通させると、素直に従った。ボタンは自分で止めている。掛け違いにもなっていないようなので、ミノンは黙って見守った。
「はい、とっても上手に着られましたね」
「こどもあつかいをするな!」
「それはすみません」
難しいお年頃なのだろうか。しかめっ面で睨んでくるけれど、蒼天の瞳は美しく、ちっとも怖くない。むしろ光栄に思えてくる。まるで神に見つめられているような気持ちと言ったら、この子は怒るだろうか。それとも神子というからには、神と同一視されるのは当然と受け止めるのか。
聖女といえど末端のミノンは、神子と近くで接する機会はほとんどなかったので、彼らの生態がよくわからない。
「なんだそのめは」
「すみません。神子さまの瞳が宝石みたいにきれいで見惚れてしまいました」
「はあ!?」
「宝石なんて持っていないので、本物と比べてどうかなんてわかりませんけど。宝石も青空も、どちらも遠くから眺めるだけでしたので、こんなに近くにあるとこわいぐらいです」
美しさは畏怖に通じるのだろうか。
はじめて知った感覚に恐れ入っていると、神子の瞳が翳った。
「……ぼくがこわいのか。そうだな、とうぜんだ。さぞかしおそろしかろう。おまえとて、こんなところに来たくはなかったはずだ。かえりたくばかえればいい。だれもとがめない」
けれど、なんだか寂しくもある。
いくら貴族の子どもだからといって、たった五歳の子どもがこんなふうに畏まった話し方をする必要はあるのだろうか。もっと気さくに、肩のちからを抜いて過ごしたっていいと思う。
「神子さまはたしかに神に選ばれた子どもなのでしょうが、一年中ずっとその皮を被っている必要はないと思うんですよ。息抜きって大事ですよ? 舞台に立つ役者だって、裏ではただの一個人です。常に『誰かのための人物』で在り続ける必要はないんです」
「だれかのための……」
「まだお小さいんですから、今後やらなければならないであろう神殿行事はさておいて、まずは子どもらしく過ごしましょう。今日はそのお誘いをしようと思って起こしに来たんですよ」
「こども、らしく、だと?」
意外なことを言われた顔をしたので、ミノンは神殿のお偉方を脳内で蹴りとばす。
いくら大きなちからを宿している神子とはいえ、子どもを自分たちの都合のいい存在に押し込めるとはなにごとか!
「朝ごはんを食べたあとは、町に行きましょう。今日はいいお天気、お出かけ日和ですよ!」
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