5
もう一度、絵本作家として歩き出す覚悟を与えてくれた。
だが、時緒が子供の頃は簡単に縮まった距離も、大人の時緒相手となると、そう簡単には近づけない。
時緒は自分の事が分かるだろうか、いや、これだけ変わってしまったらきっと分からないだろう。それに、真夜中の魔物の事を簡単には引き合いに出せない、あれは人の世にはない絵本だし、だからといって、絵本に出来なかったと嘘はつきたくなかった。あの絵本は、時緒がいたから作れた作品だ。
だけど、絵本の話が出来なかったら、二人を繋ぐものは何もない。
人の姿で出会うには自信がなくて、月那は猫となって時緒と再会を果たした。毎日、時緖の家に通いつめれば、時緖は月那を家に招いてくれた。動物病院で色々検査やらを受けた時はさすがに焦り、アズ達の術を借りて、どうにか検査や処置を免れる事が出来たのだが、この時ほど冷や汗をかいた事はない。
それでも、月那はただ時緒の側にいたかった。時緖の側にいて、彼女を見守られたらそれで良いと思っていた。けれど、その手に触れられる度、楽しそうに話掛けてくれる度、その手を握り返したいと思ったし、会話をしたくて、もどかしさが募るばかりだった。
やっぱり、こんな風に見守るのではなく、時緖の特別になりたいと、願ってしまった。
だから、喫茶店“きこり”のマスターにお願いをして、店員として置いて貰う事になった。あの店を選んだ理由は、時緖が通勤時に必ず前を通る店だったから、というのもあるが、実は、“きこり”のマスターも妖だったからだ。彼は人間に正体がバレる事なく、何十年と喫茶店を営み続けている。月那にとっては、弟子入りしたい位の存在だった。
どうにか頼み込んで店に置かせて貰い、月那は早速、店の前を掃除してる振りをして、通りかかった時緒に声をかけた。初めて大人になった時緖に声を掛けた時は、心臓が飛び出そうな程、緊張したのを覚えている。
警戒されないように、ただの挨拶の延長で話してるだけと、細心の注意を払いながら時緖に声を掛けた。間違っても、飼い猫しか知らない話をしてしまわないように、それから嫌われないように、逆に、好きの思いを伝えてしまわないように。
時緒が段々と挨拶を返してくれるようになって、店に来てくれるようになって、お喋りをしてくれるようになって。言葉を選んで、話題も慎重に選んで、それを気づかれないように、そして、時緒が少しでも笑顔を見せてくれるように。特別な関係には程遠いけれど、猫でいる時よりも、距離はぐっと近くなった気がして、嬉しくて、同時に少しだけ苦しかった。
結局、自分は時緒に嘘をついて接触している。猫になって時緒を騙して、それでは飽き足らず、人の姿に化けて素知らぬ振りをして近づいて。
時緒が、もし自分の正体に気づいたら、彼女は自分を軽蔑するだろう。それが怖くて、月那はいつだって、時緒との間に線を引いていた。店員と客、いくら踏み込みたくても、それ以上は踏み込んではいけない事。
だから、今夜のように、時緒の部屋で人間の姿に化けて会ったのは初めてだ。だから、緊張して舞い上がって、いつもの店員の自分を忘れて声を掛けてしまった。時緖に疑われたら、飼い猫ですらいられなくなる、それでも、落ち込む時緖を見ていられなくて、月那は、現実にはいない真夜中の魔物をこの部屋に呼び出した。
時緖は、どう思っただろう。自分との対面を、真夜中の魔物の仕業だと信じただろうか、それとも全てはただの夢だと思って、明日からも店に来てくれるだろうか。
もし、アズが来なかったら、あの後、二人はどうなっていたのだろう。
***
「人間を好きになった所で、終わりは見えてる」
何も話そうとしない月那に諦めたのか、アズはぽつりと呟いた。投げやりではない、その声に心配が滲んでいる事が伝わってくる。
それでも、月那は時緖が好きなのだ。
「分かってるよ」
「分かってないだろ、人間にでもなるつもりか?」
「なれたら良いな」
「…重症だな」
アズはやれやれといった様子で、狸へと姿を変えた。
「まぁ、無茶はすんな。何事も慎重にだぞ!」
そう言い残し、アズはベランダから去って行った。アズは時緖が眠った頃、こうして様子を見に来てくれていた。今夜訪ねて来たのも、特別な事ではない。
月那は「分かってる」と呟いてアズを見送ると、ベランダの戸に鍵を掛けた。そして、再びベッドに腰かけると、愛おしむように時緖の頬にそっと触れる。
「…君は、僕に幻滅するかな…」
もし正体が知られたら、彼女は傷つくだろうか、怒るだろうか、気味悪がるだろうか。最悪の結末を幾つ思い浮かべても、それでも彼女の前から去る決断を下せない。
知ってしまった、誰かをこんなにも愛しく思う事。時緖と過ごす時間が好きだ、胸が波打つ音すら心地よい。手放したくない。
ごめんね、と月那は胸の内で呟いた。
月那は時緖の頭を優しく撫でると、そっと額にキスを送る。月那の体はみるみる内に変化を遂げ、彼女の傍らには、丸くなって眠る灰色の猫の姿が残り、夜を纏ってやって来た真夜中の魔物は、夢の果てへ消えていった。
***
翌朝、月那が目を覚ますと、目の前に時緖の姿があった。いつの間にカーテンを開けたのか、朝日がきらきらと部屋に注ぎ、時緒の横顔を優しく照らしている。月那は、その温かな煌めきに包まれた彼女を見て、どきりと胸を跳ねさせ、呼吸も忘れてその姿に見惚れてしまった。
そんな月那の思いも知らず、時緒は柔らかに微笑むと、灰色の頭を撫でてくれる。
「…おはよ。何だか不思議な夢を見た気がする」
昨夜の事を夢だと思っているようだ、月那はようやく我に返ると、ほっとしたような残念なような複雑な思いを感じ、それを誤魔化すように時緖の手に頭を擦りつけた。今は精一杯、飼い猫のアトムを演じなくては。
時緖は月那の様子に微笑んで、それからぼんやりと、ベランダ越しの空を見つめた。
「とっても、幸せな夢だったな…」
その柔らかな一言に、月那は思わず声を上げそうになって、慌てて前足で顔を洗う振りをした。
「…私、月那さんの事、好きでいても良いのかな」
ぽつりと零したその言葉に、月那は目を瞪った。
「ほ、ほら、もしかしたら、昨日のは私の見間違いかもしれないし、彼女かどうかは…確かめてみないとじゃない?」
時緒は、焦ったように言い募る。昨夜見た、月那と女性に化けたアズの事を言っているのだろう。月那に彼女がいると思い、会いたくないと、嫌いとまで言っていたのに、思い直してくれたのだろうか。
そう思ったら、嬉しいような苦しいような、もどかしい気持ちが、じわじわと月那の体を満たしていく。満ちた思いは涙に変わりそうで、月那は誤魔化すように、ナンと鳴いて、時緖の鼻にキスをした。擽ったそうに笑う彼女が愛しくて、嬉しくて、こんなに幸せな事はないと、彼女を抱きしめたい思いを必死に押し殺し、月那は頭を撫でてくれる手に身を委ねた。
「真夜中の魔物は、本当にいたのかも。夢の中の月那さんが本物だったら、どうしようね」
照れくさそうに笑って言う時緖に、月那は特別な予感に胸を震わせた。
言えなかった夢の続きを、伝えても良いのだろうか。もし、真夜中の魔物という不思議を信じてくれるなら、彼女は、人ではない自分も受け入れてくれるだろうか。
こんな風に側にいる自分を、時緒は許してくれるだろうか。
縋るように思い、月那は、駄目だと頭を振った。軽蔑されてもいい、それは仕方ない事だ、それでも良いからと、猫になって近づいたのは自分だ。でも、それも終わりにする。
もう、思いは溢れてしまった。
月那は勇気を出して、今夜、仕事帰りの時緖に声を掛けようと思う。
真夜中の魔物の夢を、時緖と共に過ごした事。
時緖に恋をしてる事。
その答えは、いつもの喫茶店で。
了
真夜中の魔物 茶野森かのこ @hana-rikko
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