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店内に足を踏み入れると、まるで隠れ家のような趣に、時緒ときおは思わず肩の力が抜けていくのを感じた。


淡く夕暮れに灯るライト、席数は少なくこじんまりとした店だが、店内に流れるジャズが、その窮屈さを個人的な空間のように思わせてくれるみたいだ。革張りのソファーは固すぎず柔らかすぎず、席から覗ける格子の窓ガラスは、鱗のような模様が入って、何の明かりだろうか、光を反射する度にステンドグラスのように柔らかに色を染めた。カウンターの向こうの棚には、様々な珈琲カップが並んでいる、髭を蓄えたマスターは、胸板も厚く肩幅も広い体格だったが、その太い腕からは想像もつかない優雅な仕草で、丁寧に珈琲を入れてくれている。


回転率の速い喫茶店とは違う、ここだけ時間が緩やかに流れているみたいで。ゆっくりと背もたれに背中を預け、音楽に耳をつからせて、優しく灯るガラスの彩りを見つめているだけでも、随分リラックスした気持ちになる。それだけではない、温かな珈琲の香り、ほっと安らぐその味わいは、ブラックでもするすると飲めてしまって。


「…美味しい」


時間に追われない、このひとときが、こんなにも心地の良いものだったと、時緒はこの時、初めて知った気がした。


そして、それには、月那つきなの存在がある事も大きいようだ。


何気なく時緒が顔を上げれば、ぱちっと月那と目が合ってしまい、時緒は慌てて手元のカップに顔を俯けた。見ようとした訳ではないが狭い店内だ、目が合ってしまう事もあるだろうと、時緒が内心で必死に言い訳を繰り返していれば、月那は「お口に合いましたか?」と、どこか遠慮気味に時緒に声を掛けた。


「は、はい!とても美味しいです!家が近くなのに、今まで入った事がなくて、もっと早く知っていればな…って、」


言いながら、時緒ははっとして、再び顔を俯けた。いきなり熱っぽく声を上げて恥ずかしい、この店の雰囲気も台無しだと、またもや失敗したと赤くなっていれば、「ですよね?僕も、ここの珈琲が美味しくて、大好きなんです」と、月那は時緒に合わせるように言葉を続けてくれた。


「もっと色んなお客さんに、この味を知ってもらいたくて…あなたの事も、ちょっと強引に声を掛けてしまったかなって、申し訳なかったんですが」

「そ、そんな事ないです!朝だってご迷惑をおかけしたのに、こんな素敵なお店教えていただいて、こちらこそ申し訳ないっていうか、」


時緒は言いながら迷いつつ、月那の様子を窺うように顔を上げた。


「あの、また、ここに来ても良いですか?」


尋ねれば、月那はきょとんとした顔をした。今までと違うその様子に、時緒は焦って言葉を探した。わざわざこんな事、聞くのはおかしかっただろうか、もしかしたら、この珈琲だけではない、月那への気持ちが透けて見えてしまっただろうか。


「あ、あの、その、」

「もちろんです、是非、またいらして下さい」


しかし、時緒のパニックに陥った気持ちは、月那の言葉にぴたりと止む。顔を上げれば、どこかはにかむように微笑む月那がいて、時緒の胸はどうしたって、きゅっと締めつけられてしまう。



まさか、嫌でも気づいてしまう。月那に好意を寄せていること、この店に足を進めた時から、そわそわと感じていた、何かが変わってしまうような予感。まるで、新しい世界へその一歩を踏み込んでしまったかのような。



カランとドアベルが鳴って、月那ははっとした様子で「いらっしゃいませ」と、新たな客に向かって声をかける。


「ゆっくりしていって下さいね」


それから、やはりどこか照れくさそうに、月那は時緒に声を掛けて、仕事へと戻っていく。


特別な予感が、柔らかなガラスにきらきらと煌めいて、珈琲の香りに包まれながら、時緒の心を彩っていくみたいだった。




それからだ、時緒が出勤時に店の前を通ると、月那は「おはようございます」と声を掛けてくれて、時緒も仕事帰りに店に立ち寄るようになった。


それは、仕事終わりの珈琲に、ほっと心ごと体が休まる感覚を覚えたから。というのは事実ではあるが、その裏には月那への思いが隠されている。


なので、店の扉を開ける時は、いつも緊張した。

仕事の疲れを一杯の珈琲で癒す為と、必死に気持ちを装っているが、癒す前に、その言葉とはまるで裏腹な心構えが必要なのが、なんとも憎らしい。


そんな緊張を時緒に与えているのは月那だが、それでも、その緊張を癒してくれるのは月那の「お帰りなさい」という、穏やかな笑顔だった。


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